七の一 だから



 如何してこんな事をしているのだろう、と。

 最期に至るまで考えている自分を、レキは己で哀れに思った。

 水流は凄まじい勢いだった。単なる急流とは全く訳が違う。天突く滝の下に入り込んでもこれ程では無かろうという、途方も無い圧力。夜の底。暗く、龍の肚の中に突き入れられた様な心地がして、何処の骨が折れて、何処の骨が無事で、臓腑のどれがまだ血を吐いていないのか分からない。挙句の果てには肺が破れていたところで何の関係も無いのだ。息継ぎをする暇がない。場所が無い。頭を動かそうとするだけで首が圧し折れてしまいそうで、眼球だって、瞼を開けていればこのままに破裂する予感がある。

 これで如何して飛び込んだのか分からないというのだから、もう救い様が無い。

 それだけが、確かな事だった。

 自分に出来る事など此処には何も無い。分かっていた。あの水撃が打たれる前、火鼠に呼び掛けた声が届かなかった。あの時点で、自分は既に決着に関わる余地を失くしていたのだ。どれだけ泳ぎが達者でも、この流れを前には関係が無い。火鼠の元へは、永久に辿り着く事は無い。

 何の意味も無い。


 ――どうして、ここにいるの。


 声が、聞こえた気がした。

 確かめる余地は無い。けれど、確かめるまでも無い。頭の中に響く声だ。死に際、記憶の中から蘇った古の声。覚えている事の殆ど無い一人の女の一生の、それでも消えずに残った、数少ない言葉。


 ――どうして、ここにいるの。


 身体の弱い童だった。珍しい事ではない。碌に食事も出来ず、病は流行り、五体を満足に動かせる者の方がずっと稀だった。だからその稀な者の一人として……何処にだって行ける足を持つ者として、レキはずっと、傍に付いていた。他の者達がするのと同じ様に、父の顔も母の顔も知らぬまま、その傍に居続けていた。そしてその童は身体を崩す度、虚ろな瞳のまま天井を仰ぎ、此方を見もしないで幾度も言ったのだ。


 ――どうして、ここにいるの。


 最後にそれを聞いたのは、南前シオウが――花城国の一団が村を訪れる、その前日の事。

 自分は、何と答えたのだったか。

 あの頃の自分は、何を思っていたのだったか。如何してずっと奥底に押し込めてられていた記憶が、今になって蘇ろうとしているのか。

 激流が身を苛んでいた。北片の村で桜を求めて走ったあの時とも、また違う。水の流れに失われていく血は急速で、まるで抑えも無い。するすると身体が糸の様に解けて行く心地がする。こんなにも細い物だったのか、と今になって分かる。肉体の檻が曖昧になるにつれて、心もまた、溢れ出して来る。

 見えたのは、あのうら寂れた風景。

 思い出したのは、かつて幼子だった己の、思い耽る日々の事。

 亡び行く村は、それでも故郷だったのだ。

 今になって思い出す。辛い事が多かった。けれどそれを辛い事とも知らなかった。惨めだとも思えないまま惨めに生きて、けれどその実、惨めなばかりでは無かった。その事を、自分は知っていた。

 醜くとも、穢くとも、望み等たったの一つも無くとも。

 其処に、命は在ったのだ。

 寄り添って寝た事を覚えている。獣の声に震えていた。風の音に怯えていた。夜が明ければ何かがもっと悪くなる気がして、昼が過ぎれば恐ろしい事が起きるように思えて、何も感じずに居られる様、ただ静かに背を預け合う。火ではない。今にも消え入りそうな、微かな熱。それを感じ取るだけの、たったそれだけの日々。

 それでも、命の在る所には、全てが在った。

 喩え見えなくとも、分からずとも、誰に求められずとも、己自身すら認められずとも、其処には自分の求める全てが在ったのだ。流れ溢るる水の中。死の淵。理由を失くして、初めて分かる。自分は何と答えたのか。何を思ったのか。結局それは思い出せない。けれど分かる。今なら分かる。当たり前の事だから、今なら全部、認められる。


 ――どうして、ここにいるの。


 あの熱が好きだった。

 隣に居た者に、優しくしてやりたかった。


 面影が現れて、不意に気付く。

 あれは私の、弟だった。




 意識が戻る。

 まだ水の中に居る事を知って、火鼠は直ぐに理解した。これが最期の時だ、と。

 この激流の中に在って、指先の一本に至るまで、ぴくりとも動かない。これ程の状態に陥った事は長い生の中で一度も無い――が、恐らく、と想像は付く。これが死に時という事なのだろう、と。

 三百年前のあの日、既に己は死体と成り果ててていたのだろう、と。

 此処に叩き込まれるまでの応酬を思い返す事は無かった。死に際に至ってその程度の事にかかずらわるのは如何にも下らない。思い起こすなら、最も美しい日々が良い。

 春の日の事だ。

 南の火の国に生まれ、大陸に渡った。大国を歩き、それから小さな島へ。その島の、北の奥。少しばかり花の遅れて咲く場所の、よく晴れた日の事を。

「夢みたいな日々だった」

 それ程口数の多くは無い女だった。

 けれど、声まで美しかった。彼女は「貴方は何でも美しがるから」と笑ったけれど、決してそんな事は無い。音も無く花が咲う様な、そんな美しい声だった。

 央扇と名乗った人間の、屋敷の外。朝も無く夜も無くの宴が三日も続いたのは、自分と彼女の妖力を合わせる事で、一帯の地を再び蘇らせたから。感謝の嵐も悪くは無いが、百年経っても千年経っても、恋人は恋人だ。静かに連れ添う時間が欲しくなる。

 見上げていたのは、桜の樹。

 彼女が分けた花の内の一つ。空に浮かんだ日の光すらも霞む程、明るく輝いていた。

「こんな場所に自分が居るなんて、想像もしなかった。……こんなに貴方が温かいとも。恋する事を、覚えるとも」

 彼女の横顔を、今でも火鼠は覚えている。

 葉の影が、幾らか頬に落ちていた。それが却って彼女の肌を明るく見せた。輪郭は透き通って、透けた薄い肌の表面で花明かりは眩い程に煌めいた。光る命。初めに見た時よりも更に美しくて、綺麗で、ただ、幸福だった。

「ねえ、火鼠。私はきっとね」

 だからもう、此処まででいい。

「今日よりも、明日の方が、貴方の事を好きで居ると思う」

 止めてくれ。

「明日よりも明後日が。明後日よりも、明々後日が」

 止めろ。

「だからね、火鼠。今日より良い日なんて、何処にも無くて。だから、だから――」

 止めろ、止めろ、止めろ!


 ――だから、さようなら。


 ぷつり、と記憶は途切れて、後はただ水の中。

 最早何処に如何やって力が掛けられているのかも分からない。打ち捨てられた人形の様に――或いは打ち捨てられた人形その物として、だらりと火鼠は、其処を漂うばかり。

 頭の中に浮かぶ言葉を、浮かべていたくない。

 何故、だなんて。

 死の間際まで、考えていたくは無い。

 弱気等という言葉とは、無縁の生き物だと思って来た。そして少なくとも、今日此処に至るまではそうして生きて来られたと、火鼠は己で己をそう思う。

 だと言うのに、死の間際になれば惨めな有様だった。思い浮かべたい光景を浮かべたまま行く事も出来ない。今になってその悲しみは、己が身を苛む激流の様に、堪えず心に押し寄せる。死に纏わる不安。抗う術は無く、火より生まれて不死を誇った己が独り水の中に死する定めよりも、その方がずっと悲しい事だった。

 思っていた。何故、あの日あの時、花精は己を討ったのだろう。『風』も『鳥』も『月』も分かる。あれらは野心を持って近付いて来た。今更理由を質そうとも思わない。だが、花精は。

 如何してそれを知る事が出来るだろう。

 彼女は既に、死んだと言うのに。

 ずっと思っていた事を――知っていた事を、あの水撃の間際の幻ではっきりと認識させられてしまった。もう花精は此処には居ない。何処にも居ないのだ。

 誰でもいい。教えて欲しかった。彼女は何故死んだのか。何故、自分は裏切られたのか。封印されたのか。何故と言って、己はこんなにも、こんなにも――、


 彼女の事が、恋しいと言うのに。


「――――、」

 その時、ふと。

 肩に、何かが触れた気がした。

 初め、火鼠はそれを気にしなかった。しかし直ぐに、そうも行かなくなった。引かれている。強い力で。無視出来ない程の力で、何処かに自分を連れ行こうとする何かが在る。

 水流では無かった。そしてまた、何かに引っ掛かったのでも無かった――否、或いは。

 一つの石に、引っ掛かったと言うべきか。

「――――っ」

 吐き出すべき息は何処にも無く、だからそれを認めてもただ火鼠は、目を見開くばかりだった。

 其処には、女が居た。夜の水の中。暗闇より尚暗く、目は利かない。青く染まった髪は見えず、鼻も利かない。耳も何も、知る術は何処にも無い。それでも如何してか、其処に彼女が居る事が分かる。強い力で、自分を引いている。其方に行くなと言う様に、肩を引いている。

 何故だ、と思った。

「――――!」

 何故、何故、何故――其処から先の言葉が出て来ない。自分が何を訊ねたいのか分からない。何の答えを求めているのか、何の言葉を欲しているのか分からない。返って来たとしても、死までの僅かな間際、それを理解出来る事は決して無い。

 それなのに。


「――――!」

 好きだからだろう、と彼女が言った気がした。


 それから、ほんの僅かな時間を水流に揉まれて。

 何もかも唐突に、彼女達は再び、水の外の空気に触れた。


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