六の三 済んだ事
「――は、」
やられた、と火鼠が思ったのは、その霧の晴れた瞬間の事だった。
敗因は四つ。己でよく分かっていた。一つは単に、『風』の思いの外の強さ。三百年の歳月に積まれた研鑽は、この川の上で明らかに実を結んでいた。術の打ち合い。相性不利が有るとはいえ、それでも集中を強いられた。故に、周囲に振り撒くべき警戒が緩んでいた。
そしてもう一つは、三妖の内の、姿の見えない者共に対する備えを怠っていた事。『風』が幾ら力を付けたとて、己を相手に単騎で出て来る筈が無い――西原で『鳥』が独りで顔を見せた事で、先入観を与えられていた。それを剥がせなかった。
だから、こうして目の前にすっかり準備を整えた『月』が現れるまで、息を潜めていた『鳥』と『月』の存在に気付いていなかったし、加えて、勿論。
その『月』の腕の中に抱かれた女が、東流の一門だなんて事は、全く予想も出来ていなかった。
「〈月禍――」
「〈火槍――」
術比べなら己の方が速いと、そう思っていた。
『月』の妖力が、ずず、と女に入り込んで、霊力を引き出す時間。女が霊力を著しく励起させられた状態で、川へと投げ込まれるまでの猶予。
既に火鼠は焔の槍の生成を終えている。飛ばすだけの勢いも付けている。二本の指には途方もない妖力が宿っている。一撃で仕留められる。
「がッ――!?」
三つ目の敗因。
その術を邪魔する、力が在った。
『風』では無かった。『月』の姿が見えた瞬間から、決して火鼠は『風』への警戒を切らさなかった。力は死角、下から。
見れば、其処に居た。
水面の下へと火鼠の足を軽々引き込む、大水蛇。
「くッ――」
燃やす。斬り飛ばす。盾にする。一通りの選択肢を頭に思い浮かべる。まだ負けていない。まだ、まだ――目を、上げて。
最後の敗因。
其処に『花の神』が立っているのを、火鼠は見た。
「――あ、」
意識の隙間だった。
分かっていた。本物ではない。分かっている。それでも。
それでも――。
「――――水流葬〉」
花城国の東端を流れる、一本の川。
それが丸ごと、彼女を圧し潰した。
❀
「……勝った、のか」
ぽつり、全てが終わった後に口火を切ったのは『風』だった。
川の上――正確に言うならば、『川だった場所』の上。今は水無川の様にただ土のへこんだ道だけが残された、湿った土の上空。風を纏ってゆらゆらと、何処か落ち着かない童の様に、彼は茫然と呟いた。
暫く、誰も答えなかった。
月の動く音さえ耳に届きそうな程の静寂――次にそれを破ったのは、その月光に一際輝ける、銀の髪の男。
黒い翼を翻して、彼は言う。
「さてね。しかし、兎に角これで引き上げだ」
「いいのかよ。息の根を止めたか、確かめなくて」
莫迦、と小さく返したのは、今度は金髪の女。『鳥』。
けれど彼女もまた、先程までの『風』と同じ様に、水の流れ去った先をじっ、と見詰めて、普段よりも数段神妙な声をして、
「あれで生きているなら、正真正銘の化け物でしょう。幾ら弱らせても、万が一が有る」
「『鳥』の言う通りだ。奇襲は短く、一度切り。霊妖術は守戦が有利だ。残して来たもう一人の術士の抵抗も、さっさと削ぎ切ってしまいたい。城に戻って、成り行きを待とう」
しかし、と。
煌々と輝く月を見上げながら、『月』は言う。
「あれをまともに食らえば、喩え僕でも死んでいる。……さて、如何なる事か」
ばさり、と羽ばたけば、後は暗闇に紛れて見えなくなる。
取り残されて、それでも『風』と『鳥』は、動かずにいた。
じっ……、と。何か見えない物を探る様に見ていた。火鼠の消えた方角。花城国の更に東。大海へと通じる、その道を。
「――大した物じゃない」
先にその目線を翻したのは、『鳥』だった。
「火鼠とあれだけ打ち合える妖なんて、貴方の他に見た事が無い。今なら、花精と競っても負けないかもね」
三百年前みたいに土壇場で国を追われる事も無いかも、と。
『鳥』が褒めそやしても、しかし『風』は視線を逸らさずに。
「『鳥』」
「…………」
「オレぁ、勝ったのか」
「……何? 泣き言でも言うつもり?」
あからさまな皮肉の色が混じった返答。
それに怒るでもなく、「いや」とただ一言、『風』は返して、
「ただ、オレは……」
それより先は、紡がない。
首を振って、彼は、
「……何もかも、三百年前に済んだ事か」
夜渡る風が流れて、それきり。その風の行く末を見届ける事も無く、『風』は身を翻した。びゅう、と襟巻棚引かせ、本城の方へと帰っていく。
最後に残ったのは、『鳥』だった。
既に彼女は、川の行く先からは目線を外している。代わりに、その茶金の羽で空に浮かびながら、見下ろしている。
涸れた川の上に、一人佇む女の姿。
己が幻術で生み出された――この上なく美しい、真白い女の、魂を失くして虚ろに佇んでいるのを。
見る者が見れば、直ぐに知れた事だろう。その幻の命は、長くはない。見た目ばかりの張りぼての術。大して妖力も込められていない。意思も無い。空の器。もう百も数えれば崩れ去って風に散る様な、ただ一瞬の為に生み出された仮初。
その目は、誰に決められた訳でもなく川の末を向いている。
「どれ程、」
ぽつり、動いた唇は『鳥』の物。
「どれ程、違いがある物か」
彼女の瞳が、ゆらりと動く。
川岸。誰の姿も無いその場所に、誰の姿も無い事だけを認めて。
「片恋ひし――」
ひらり、その場を。
未練を断ち切る様にして、飛び去って行った。
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