六の二 駄目
げ、と火鼠が顔を顰めたのをレキは覚えている。西原の屋敷で、ソウジンに次の行き先を告げられた時。東流の社が「川の近くにある」と教えた時の事だ。
道中、やはりその話もした。水が苦手なのか、と。
妖には、どれもそれなりの弱点が在る。火鼠などは最も分かりやすい類だろう。鼠は猫に食われる。火は水に消える。よって彼女は、猫にも水にも弱い。勿論其処らの子猫に負ける様な彼女ではなく、『鳥』と会っては正体不明の虎すら下したが、それでも。
水が苦手なのか、と訊けば。
好きではねえな、と彼女は答えた。
❀
初撃は、火鼠の妖力が壁になって防いでくれた。
火の壁。近くに居るだけで肌がびりびりと震える――その間にレキは簡易の結界を張る。熱を遠ざける。馬の首を撫でれば、思いの外落ち着いている。ひらりと降りて、とんと背を押せば、それ程慌てぬ素振りのままで遠ざかって行った。巻き込まずに済む。思った次には、もう耳に届く。
「ひひ……ひひひひひひ!」
聞き覚えのある声だった。
忘れようと努めても、きっとそれを成し遂げるのに三年は掛かるだろう。それは、あの桜の樹の下で聞いた声。この一連の闘争にレキを引き込んだ、最初の一点。
悪しき風――三妖が一、『風』。
それは、レキと火鼠の立つ道の向こう。堤防の下。夜の川の上に立っていた。
「間抜けだなあ、火鼠! 何時気付くか、げらげら嗤いながら待ってたぜ」
「そうかい。知ってるか。待たせると待つのじゃ、待たせる方が偉いのさ」
何奴も此奴も、とレキが思うのは、三妖も火鼠も皆、人の似姿を取っている事にあった。変化の術。狐狸の類が用いる変化の術を、息する様に編んで、行使している。
茶色い髪に長い襟巻の、青年が一人。
川の上に立っている。ごうごうと、それを取り巻く様に旋風が音を立てている。火鼠の妖火によって照らされた水面は渦を巻き、風爪の深さと鋭さを、これでもかと示している。
以前に会った時よりも遥かに、と。
霊視に暗いレキにすらはっきり分かる程の妖力が、其処には渦巻いていた。
「で、何の用だよ。寝起きのあたしに叩かれて尻尾巻いて逃げた小僧が。子分にして下さい、って昔みたいに頭を下げに来たのか?」
「…………オレぁな」
火鼠の煽り文句に、『風』の目が細く眇められる。
先程までの軽薄にも映った嗤い顔は、鳴りを潜めて。
「正直に言やあ、手前には感服してる」
「へえ」
「三百年の封印だあ? そんなもんに耐えられるのは、正真正銘の化け物だけだ。オレだってこの三百年、天下風来、百鬼夜行を見ちゃ来たが、手前程の妖は碌々話にも聞けやしなかった」
「おいおい」
皮肉気に火鼠は、左の口の端を吊り上げて、
「御機嫌取りしようってか? 今更」
「分け身の――三百年前程度の力しかなかったオレなら、そうしただろうな」
一方で、『風』の声はあくまでそのまま、真っ直ぐに。
だからこそ火鼠もまた、僅かに構えた。
「あの頃の、花精と組んで手前を背中から討つのにだって足を震わせてた――挙句の果てには用済みだって放り投げられても、何にも言えなかったオレだったら。そうしただろうよ」
「そうかい。なら、今は?」
「分かるだろ」
ずお、と塔の一夜で建つ様に、水竜巻が『風』の周囲に巻き上がる。
夜の暗さを月光一条貫いて、触れれば綺羅々々、飛沫が跳ねる。美しい魚が尾を引く様に残光、一際煌めいて。
後は、ただ一瞬。
「――――やってやる、って言ってんだ」
妖力が、爆発した。
途轍もない音が鳴った――レキは少なくとも、それを他で聞いた事が無い。風が風を破った音にも聞こえた。或いは単に、その水竜巻が刃となってこの世を引き裂いた音にも。遅れて光った火花を見れば、その刃と火鼠の焔がぶつかった音にも。
ぱん、と弾けた様な音を聞けば。
その水が、ほんの一触れで蒸気と化してしまったが為の音にも。
「――やるじゃあねえか、小僧!」
「溺れて死ねや、大妖!」
「…………」
結界の中でレキは、静かに考えていた。それは勿論、一体何故、という事。
火鼠は『風』と妖力をぶつけ合っている。あの中にはとても割り込む事は出来ない。だからこそ自分には考える余裕が与えられている――つまり、どうして『今』で『此処』なのか、という事。
三妖がこれまで襲って来た場面を考えれば、それは自然と予想が付く。
「――セッカ、殿」
霊宝。瞬時にレキは、敵手の狙いをそれと見定めた。
火鼠を相手にする為に水場に居るのを狙った。それも有るのだろう。だがそれだけが狙いであるならば、三妖の内のたったの一体しか現れないのはどうもおかしい。一対三。己が三妖の立場で在れば、間違いなく数の利を活かす。
火と水のぶつかり合いで、一面が白い蒸気に満たされていた。視界が利かない。火鼠は何が起こっても気付けない。即ち、他の二妖は『風』の稼いだこの時間を使って――思う間に既に足は動き出し、
「――――ッ!」
それでもレキは、咄嗟に退魔刀を引き抜いて、白い闇の中に一閃を放つだけの直覚をもまた、失ってはいなかった。
「ガァアアアアッ!!」
「虎……!」
「――心の目?」
ぽつり、聞こえてきた声は、やはり何処にも源のない様な、奇妙な響きを伴っていた。それだけで蘇る。記憶。
西原の屋敷。
「――『鳥』」
「ガアッ!!」
女は答えず、代わりに虎が霧を破って襲い掛かってくる。
レキは、焦らなかった。
「シッ――」
ぐん、と右の足を大きく踏み込んだ。頭の位置が、元は腹だった位置の辺りまで沈む。虎の重みは一刀目の感触で既に知れていた。正面からは打ち合わない。下に入る。躱す。震脚。ぐん、と今度は身体を上げる。腰。背。同時に。一つの長物の様にレキの身体はしなり、刃は。
降下する虎の重みをそのままに、ぶつん、と肉を裂いて、星の動く様に弧を描いた。
ばしゃ、と血が降る。右目は閉じて、左目は開けたまま。虎が後方、地を擦りながら力無く倒れていくのを見届ければ改めて右目を開けて、左の瞬きを繰り返して、洗い流して、
「……ふふ。凄い、凄い」
やはり姿は見せぬまま、『鳥』の囁く声が聞こえてくる。
「本当、腕が立つ。一本くらい無くたって、何処の国でも侍大将位にはなれるんじゃないの、貴方」
「…………」
「でも、手が付けられないって程じゃ無い。片目を閉じて守るなら、『心の目』は無い。獣の勘でしょう。それだって、有るのと無いのとじゃ大違いだけど」
この手の妖を相手に言葉を交わしてはならない。その事をレキは重々承知していた。
狐狸の類なのではないか、と疑っている。『鳥』と名付けられたのも、それを変化の術で本性と見せたか。先程の迷い路も、鳥の羽根と虎の爪の併用も、そう考えれば説明が付く。確信も何も無い以上、この判断を基にして打って出る事は無いが、出方に構える事は出来る。狐狸の類との知恵比べは、端から不利だ。幻を自在に操る者を前に、言葉は惑わしに他ならない。
「……ふうん。城の奴等とは、何枚も違う訳か」
それすらも見透かした様に、『鳥』は言う。
「でも、それでお終い。貴方は此処で私と戯れて時間を潰すだけ。火鼠が『風』と踊っているみたいにね」
獣。
獣が相手で在れば、己の有利だ。
レキはそう思い、ただ直感を研ぎ澄ます。風だの何だの、掴み所のない妖とは違う。向こうの最大の牙が虎であるなら、幾らでも斬り伏せる事が出来る。
東流セッカの元へ、急がなければならない。
三妖が一、最も強いと火鼠に評される『月』が霊宝を奪いに行くだろう場面に、加勢の為に。
「――其処ッ!」
「グ――」
斬った。が、この手応えではない。虎の肉。背後に気配。胸倉を引っ掴まえて、投げ飛ばして、濡れた地面に土煙すら上がらない。大した一撃にはならない。軽猫の様に虎の足はぴたりと地面に吸い付いて、そのまま蒸気の中へと消えてゆく。
無数の気配。初めは十。次には三十。視線。無数、無数、無数――白霧の向こう、百足の群れが足を絡めた様に、数え切れぬ程の妖気が犇めいている。
「ほら、ほら」
二度三度と身を躱して、六度を斬り交わす。血が跳ねた。けれどまるで形勢は有利に傾かず、却って今は、東流の社の方角さえ怪しくなる始末。
絡め取られている。
短時間に『鳥』を討ち取る事も、背を向ける事も、容易に叶いそうに無い。
「――火鼠!」
「あら、助けを呼んじゃうの?」
可愛い、と『鳥』は言う。構っていられない。自分が駄目なら彼女に知らせて、行かせるべきだ。烈しさを増し始めた虎との格闘の中、それでもたらふく息を吸い込んで、もう一度、
「火鼠!」
「でも、幾ら可愛くても駄目」
返答は、対峙する妖から放たれる。
「どんなに助けを呼んだって無駄。聞こえる様にする訳無いでしょ。あんな怖いのとやりたくないもの、私」
それに気が付いたのは、矢張り、と思ったのと殆ど同時の事だった。
最初に思ったのは、ごく自然な事。ただ『鳥』の言う事を真に受けた。矢張り音を遮る何某かの妖術を『鳥』は行使している。それを突破しない事には言葉すら伝わらない、ならば――と。
その思考を完全に打ち切ったのは、まさにレキの経験によって磨かれた感性だった。
小さな違和感だった。狐狸の類と対峙した時によく覚える違和感。
次の瞬間、その感覚は沸騰した水の様に勢い良く膨らんだ。どっ、と身体が重くなる。手が震える。足が萎える。何処を向いて良いのか分からなくなる。
気付いた。
真に騙しに長けた妖を前に、これだけ順当に思考が変遷するはずが無い。
嵌められている。
「――――っ!!」
破れかぶれも良いところだった。
ただレキは、走った。火鼠の居ただろう方角も碌々不確かなまま、しかし此方だろうと当たりを付けて、懸命に。虎の爪が肩を裂くのも、腹の縁を削っていくのも構わずに。
この足止めの本当の狙いに、気付いていた。
「――へえ」
声が遠ざかっていた。既に近くには居なかった。感心した様な声が、川のずっと向こうで聞こえる。白い霧の内、どれ程が幻術だったのだろう。晴れてゆく。明らかになってゆく――。
「本当に大した物ね、貴方」
でも、と言った女の姿。金色の髪に茶金の羽。大いに夜空に舞い広げて、その後ろ。差し込む月光。
「でも、駄目」
照らされて、もう二人。
銀髪の男が黒い羽を広げて、短い髪の女を――力のない『東流タツセ』を胸に抱えて、其処に飛んでいる。
「――火鼠!」
三度、名を呼んだ。
その時にはもう、遅かった。
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