六の一 何処
思い出せる事が余り無い人生と言うのは、幸福だろうか。
分からないが、しかしレキは実際にそうした人生を送って来ている。考え続けない訳にはいかなかった。
山の、ずっと奥で生まれたらしい。その正確な場所については、今となってもよくは知らない。振り仰いだ空が今よりもずっと近くに感じたから、恐らくは山の上だったのだろうと、その程度の事ばかりが心に残っている。
小さな村だった。母と父の顔を碌に覚えていないのは、レキが生まれた頃には既に、その小さな居所に病が流行り始めていたからだ。命が失われるのは、決して珍しい事ではなかった。
日々の流れるのを喪失とも感じないまま、ただ空いた場所を埋め合わせる様に身を寄せ合った。父の様な者も、母の様な者も、薄らと、代わる代わるに現れた。そしてその殆どは、生者の定めに従い死へと向かった。ひょっとするとその内の一人二人は今でも生きているのかもしれないが、これもまた、よくは知らない。
誰の物とも知れない、痩せた田畑を耕した。誰の物とも知れない水を汲み、誰の物とも知れない着物を織った。田畑はやがて村の残り者だけでは持て余す様になり、半ばは森と区別が付かなくなった。
その先に踏み入る様になったのは、見目の曖昧さがレキの心も曖昧にしたためか、それとも「森は恐ろしい」と伝える者も途絶えた為か。
入ってみれば、其処はレキにとって何でもない土地だった。虫も蜥蜴も鳥も何も、大抵の生き物よりも自分の方が、ずっと身体が大きい。負ける筈がない。田畑を耕すよりも、此方の方がずっと楽だ。狩りを覚えた日。きっと、十にも満たない年の事だった。
上背の伸びるにつれて、獲物も大きさを増していった。錆び付いた農具さえあれば、己より大きな者すら恐るるに足りない。今にして振り返ってみれば、それは習わぬ霊術の賜物だったのだと思う。狼。猪。熊。……そして、妖。幼い頃、飢えていた事を思い出す。今やあのおどろおどろしい暗い森は、村の米蔵の様な物だった。あの頃からは考えられない量の食い物が、其処には在った。それを食す者の姿は、あの頃よりもずっと少なくなった。やがて森に入るのは五日に一度になった。それでも腐らせた肉は、山にくれてやった。
誰を看取ったのか、それもまた覚えていない。病床に長く伏していた誰かが行くのを見送った次の日、或る一団が村に現れた。やけに立派な恰好をしていて、村の年嵩の者達と何事かを話し込んでいた。レキは道端に座り込んで、草の根をぶちぶちと引き抜きながら、それをぼんやりと眺めていた。
一団の中に一人、年若い者が混じっていた。一際立派な恰好をしていたから、自然、其処に目は吸い寄せられた。彼が振り向く。目が合うと、ぎょっとした顔をして此方に一直線に向かってくる。近くに立って、頭から爪先までを「信じられない」という様な面持ちで眺め込んで来る。数人が追い掛けて来た。若、と。何か有りましたか、と。彼は一言だけ「霊力が」と振り向かないままに答えた。代わりにこちらの瞳は見詰めたまま、何処か不安げな顔をして。
こんな事を言って、訊ねて来た。
「何故、こんな所に居る」
昨日も同じ事を言われた、と思ったのを、レキは覚えている。
❀
「端からあれには勝てねえよ。そんなに落ち込むな」
馬の腹を撫でながら、此方を見ずして火鼠は言う。だから、その慰めが必要に見える程度には自分は落ち込んで見えたのだろう、とレキは自分で分かる。
東流の社の敷地の中、厩での事だった。
あれから更に、夜は更けた。月明りはまだ差し込んでいるけれど、辺りは時の谷底に落とされた様に暗く、馬の毛並みの色すらも確かではない。ただ干し草と、汗の様な匂いばかりがふらふらと漂っている。
そうと決まれば、と火鼠はあの一室を直ぐ後にした。
泊まっていけばいい、と東流セッカは言ったが、断った。念の為に南の霊宝も抑えに行く。その為には早く出るに越した事は無い、と。馬の交換を願い出ればセッカは快くそれを受け入れ、では、と二頭の馬の名を挙げた。物憂げなのと賢いのとで、きっと今の時間も起きているだろうから直ぐに分かるはずだ、と。本当に容易く分かって、だからもう、厩を共に出る準備を始めている。
春の夜が冷えるのか、馬は鼻をすん、と鳴らした。
その腹を優しく、火鼠は撫で続けている。
「あんたは所詮使い走り。脅すにも持ち上げるにも、大した説得力が無い。一方で向こうは、ありゃ実質の当主だろ。併合二代目とか言ってたが、それが枷になってるだけだ。霊力も大したもんで、そもそもの格が違う」
それははっきりとした、慰めの言葉だった。
此処に至れば、最早レキも気付かずに済ます事は出来なかった。火鼠はつまり、そういう者なのだ。燃え盛る大妖。それにも拘わらず、奇妙な温かさを持つ生き物。
「だからまあ、気にすんなよ」
相手の心を楽にさせようとして笑い掛ける事が出来る、そんな存在なのだと。
「……どうも」
それに対して酷い物だ、と己を見詰めずには居られなかった。愛想も大して見せられないまま、小さく頭を下げる。果たしてそれすらこの夜空の下、どれ程の意味がある動きだったか。
如何して此処まで落ち込んでいるのか、レキは自分で分かっていた。そしてこの慰めを聞けばきっと、火鼠もそれに勘付いている。己にとって重要なのは、東流セッカに協力を断られた事、そしてそれによって戦況が不利になる事では、決して無い。
本当に重要なのは。
今自分がしている事を、同じ立場の人間が「やらない」と、確かな理由で以て決めた事だった。
「ほら、手」
馬には先に、火鼠が乗った。手を伸ばされれば、それをぎゅっと握る。途方も無い膂力で引き上げられて、此処に至るまでと同じ様に火鼠が後ろ、レキが前。初めに「乗れるのか」と訊いた時、彼女は「鼠は牛をも乗りこなす」と言ったけれど、何の事を指しているのか、レキには分からなかった。
ゆっくりと、馬は歩きだした。物憂げな馬が一頭。セッカの言った通り、賢いのは何も言わずとも付いてきた。何処へ行くにも一緒なのだと言う。果たして何方が何方の世話をしているか、分からないが。
夜道を行く。草を踏む音に、かつての日々を少しだけ、レキは思い出した。
辺りには一面、ただひたすらに田畑が広がっていたのだと思う。風は遮る物を知らぬと言いたげに長く長く吹き渡り、闇は月に届くまでの殆ど全てを埋めている。疎らに立ち並ぶはずの樹々は、手で触れられる様な近くに現れるまでは、其処に在る事が分からない。
目を凝らせばきっと、暗い闇の中に巨大な人の様な、一層濃い影が在るのだろう。しかし馬の足元に火鼠の灯した妖火がちらちらと揺れるから、瞳は一向闇に慣れる事無く、山と空の区別も付かない。
瞼を瞑った様な旅路。遠く夜花が香り、蹄の鳴る音に合わせて、馬上に身体は揺れる。
しゃん、と羽が水面を叩く音がした。
「川」
一言告げれば、こくり、と火鼠が頷く気配がする。
「取り敢えず、こいつを辿って行けばいいんだな?」
うん、とレキも頷いた。
「流石に、夜の間はどの道を行けば良いか分からないから。戻れるだけを戻って、朝が来てから南前に向かうのがいいと思う」
言えば、それを機会にぽつりぽつりと互いの口から言葉が零れ始めた。春の夜に、白い花の降り散る様に。
「あの家は」
「うん」
「二本柱だな」
「……二本柱?」
「あのセッカって女と、名目の当主とだよ」
上手い事やるな、と本当に感心の色が滲んだ声で彼女は言う。
「当主は城に居るんだろ。国が人の手に戻れば、そいつを実際の当主にもするつもりだ」
「戻らなければ戻らないで、セッカ殿を頭にしてやっていくって事?」
「だろうな。何方に転んでも家は続く様に組んである」
言われてレキも、思い当たった。セッカの言ったあの言葉。後悔は無いのかと訊ねられて、「家としては、何も」と。その裏側にあった事情と謀。自分の目には見えない物が、火鼠には見えている。それは、今に始まった事では無いのかもしれないが。
「……そんなに、上手くいくのかな」
「上手くやる自信が有るからあの態度なんだろ。霊妖術は守戦が有利だ」
何も返す言葉が見当たらなくなった。そっか、と声にした。言葉ではなくただの音だったと、レキは思う。
「人間は、」
だから次の言葉は、火鼠が言った。
「自分以外の為に死ぬのが、好きだな」
辛うじて、「そう?」と返す事が出来た。自然だったかまでは、よく分からない。
セッカの事を言っているのだろう、と思う。このまま火鼠が三妖を討ち倒して城を奪還すれば、先程彼女が言及した通りセッカの姪――東流タツセが一門の名実の当主となる。その時、セッカの居場所は恐らく其処に無い。この世にも、恐らくは。
「そうさ。何が楽しいもんかね。そんな事ばっかりして」
「楽しい訳じゃ、無いんじゃない」
ふうん、と火鼠が言った。先を促す様な声。そして此処からは、とレキは自分で分かる。
「ただ、他に如何したらいいか、分からないから」
セッカの話ではなく、自分の話で。
この戦いが始まってからずっと――ずっと、思っていた事だった。
「如何するって」
思いの外、戸惑った様に火鼠は返した。
「如何とだって出来るだろ。そりゃ、あたしには及ばないが霊力は大したもんだ。何処でだって生きていける」
「何処?」
思い出すのは、西原から東流へと向かう道中での事だった。
レキは火鼠に語った。彼女が訊ねた身の上の事。楽しい事も無ければ、面白い事も無い。一つの小さな村で生まれた。滅び掛けていると、南前の一門がやって来た。残った者共は花城国に併合され、己は霊術の才が有るとして、南前の一門の末に組み込まれた、と。
全てを聞いて、それから火鼠はこう言った。
――どれだけ頑張ったところで、立身出世も望めないんだろ。何であんた、そんなに身体張ってんだ。
そして何も、レキは言い次げなかった。
何の答えも、持っていなかったから。
「此処以外の場所は、何処も知らない」
ぽつり、馬の上でレキは溢す。独り言の様にも、語りの様にも聞こえる声。何方なのか、発している彼女すらも分からないまま。
「何処が在るの、他に」
手綱を強く握れば、震えているのは己の指先だったか。
ずっと抱えていた――『風』の大妖に出逢ってから、三妖と対決する運びになってから……或いは村を出たあの日から、ずっと抱えていた。その想いが今、胃腑の奥、呑み込んだ夜冷えの石の様に、冷たさを放っている。
如何して自分は、こんな事をしているのだろう。
如何して自分は、此処に居るのだろう。
思っていた。これまでの狩りとは、争いとは訳が違う。明確に相手は自分よりも強い。対すれば其処に、必ず死が視える。それでいて何故、こうして戦っているのか。
東流セッカは、「戦わない」と言った。
ならば自分は何故、「戦わない」と言わないのだろう。
『要と不要を己で判断し、好きに動け』――そう言い渡されて、今、自分は。
自分は今、何を欲して。
何を求めて、此処に居るのだろう。
馬は、静寂の中を旅人の様に歩いていた。物憂げに、首を下にもたげて。何時の間にかもう一頭の馬の姿は辺りに見えなくなっていた。憂鬱は賢明を振り払い、孤独の道に深く、深く入り込んでゆく。
「歩いてれば、何処かには着くだろ」
その馬の目の先をちらちらと、鼠の火が照らしていた。
「そんなに難しい事じゃない。ただ、足を動かせばいいだけだ」
「…………」
「あんたさ、」
そっと。
手綱を握る手の甲に、手の平が被せられる。温かかった。
「……いや」
けれど、それは直ぐに離れて行って、
「あたしが言う事じゃないか。ま、好きにしろよ」
それが一番だ、と彼女は笑い飛ばす様に言った。
手は離れても、背中はまだ引っ付いている。気にしていなかったそれが、今になって妙にはっきりと感じられる様になった。春の夜はまだ寒い。冬の名残こそもっとずっと北の方へ押し遣られてしまったけれど、それでも花に霜降らす様な冴えばかりは、月の光に紛れて地上に注ぎ、漂っている。
胃腑もまた、思い耽れば尚冷たく――けれど。
背中ばかりが、温かい。
うん、と小さく言って、レキは返した。言葉だったのか、音だったのかは分からない。ただ「この妖は本当に、花神様の恋人だったのだろう」という直感だけが、妙にはっきりと手の甲に残った。
その時もう一度、しゃん、と羽が水面を叩く音がする。
だから気付いたのは、殆ど同時の事だった。
「――火鼠」
言ってレキが首をもたげれば、その頭の上で火鼠がチッと短く舌を打つ。
「気付くのが遅れたな」
切っ掛けこそ有ったが、それが原因で分かった訳では無かった。
聞き澄ましても、それは水鳥の羽の音の他、何にも聞こえなかったと思う。だから少なくともレキが気付いたのは、「何か奇妙な感じがする」という曖昧な、単なる経験と勘。
そしてその曖昧な勘が、時として妖を相手にする際、刃以上に命を救う物となる。
「迷わされてる……?」
迷い路の妖術。
それに己等は囚われているのではないか、と気が付いた。
「悪い。あたしも闇の中で見えなかった――照らすぞ」
ばっ、と袖の翻る音がする。
すると辺り一面が、昼の様に明るく変わった。鼠の火。夕日色が見渡す限りに散り広げられて、闇の中に隠れていた真実の景色を映し出す。
あれだけ歩いた筈なのに、東流の屋敷がまだ見える。
後方に小さくぽつんと取り残された、もう一頭の馬の姿も。明らかなのは、思った様な距離を歩けていないという事。そして川沿いに真っ直ぐ進んだのであれば、同じ場所をぐるぐると回る様な羽目になる筈も無い。
妖術に囚われていたのは、明らかで。
そしてその妖術の仕手の心当たりと言えば、それは必ず。
「三妖、」
呟けば、「だろうな」と火鼠も返す。
言葉にすればそれを切っ掛けに、これから至る先もたった一つに定まった。
「此方が気付いたって事は、」
向こうも、と彼女は馬から飛び降りる。構える。それと何方が早いか、彼女が口を開いて、
「――来るぞ!」
叫んだと同時、レキは手綱を強く握って、その場を駆け出す。
嵐の様な風が、襲い掛かって来た。
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