五の一 経歴



 昔、一匹の妖が居た。

 燃え盛る炎の中で生まれた。此処よりずっと南の、火の山脈。あまりにも昔の事だから、覚えている事は殆ど無い。ただその頃は灰すら灼き尽くされてもっと身体が白かった事、花鳥風月など何処にも無い、烈しい光の中で生きていた事だけが、瞳の奥に残っている。

 旅に出た。北へと向かう旅だ。

 本当の所、行く先など何処でも構わなかった。ただ飽いていただけだ。火の中で生まれ、燃え盛るままに生きる。しかし妖は強く、大いなる者であり、燃え尽きる事を知らない。ただ焔として生き続けるには、その一生はあまりに長かった。

 長い道を歩いた。長い海を渡った。そして再び山の中に分け入ったが、既にそれは火の山ではなかった。緑ばかりで、火の熱は疾うの昔に地中深くで眠りに就いていた。遥かなる山河の広がる大地。不思議と、火の国と違って何処まで行っても突き当たる事が無かった。あまりにも大きな陸の地。大陸。本当にそう呼ばれている事を知った時には、少しばかり笑った。そしてその日から妖は、自らを『火鼠』と名乗る事にした。名は在りのままで構わない、と分かったから。

 人はあまりに多く、王が四度立ち、四度滅ぶのを見た。火ではない者共もまた、焔の様に燃え尽きるまでを生きる。大陸を縦横に走る威容の河は流れに流れ、そして同じ流れは二度とは現れない。全ての時は飛沫を上げて消え果る。長い歳月を行き、様々な者と時に語らい、時に争った。人も居れば、妖も居た。鳥も居れば四つ足も、無足の類は魚も蛇も、多足の類は虫も蜘蛛も。

 その日々の最中に、彼女と出逢った。

 花は火に似ていると、それで知った。

 何処の山だったのかは覚えていない。少なくとも町の近くでなかったのは確かだ。森の中を何日と歩き通したか分からない。その頃には『腹が減る』という事もすっかり忘れ去っていたものだから、ひょっとすると何年も歩いていたのかもしれない。

 初めに訪れたのは、香りだった。

 甘い様な、透き通る様な、不思議な匂いが風に香った。水にしては濃すぎたし、果実にしては淡すぎる。花だ、と分かった。一片の花弁が流れて来るのを見ればいよいよ気分を擽られて、長命の者らしい悠長さで、匂いのする方へと向かって行った。

 あの色をどう表せばいいものか、未だに分からない。

 呼ぶならば白だろう。けれどあの時あの色は、それ以上の物だった。

 山の中の、不意に開けた場所だった。下草が僅かに生えていただけで、後は遮る物は何もない。昼。最も明るい時間。洞窟の果てに光の差し込む様に、陽光が降り注いで、彼女を照らす。

 無数の花を付けた一本の樹が、其処に在った。

 目を奪われた。決して、燃える様な熱は其処には無い。火の山とは比べ物にならない程に涼やかで、けれど何かがその奥底に灯っている。光に当てれば向こう岸が透けてしまう、薄い身体のほんの僅かな隙間に、それは在る。

 火だ。

 決して熱を発する訳でも、燃え盛る訳でなくとも――この世の果ての、明かりの極みの如く光を放つそれは、真っ白な花は、火だった。

「だれ」

 声がした。

 もう、旅慣れていた彼女にはそれだけで分かった。一本の美しい樹。その周りで聞こえた声。相場は決まっている。花の妖。花精。

 静かで、美しい声だったから。

 花であるにも関わらず、一目見て火と分かるであろう自分を前に、怯えたところも諂ったところも、何処にも無かったから。

 だから火鼠は、言ったのだと思う。

「あたしと来いよ。この世の何処にだって連れてってやる」

 もう一度彼女が海を渡って東の地に着いたのは、それから四百年程が経ってからの事だった。



 面白くもない話だ、と言って語り出した火鼠のその話は、レキにとっては酷く興味深い物だった。何せ想像も付かない。高々十数年しか生きていないのだ。封印されて三百年、封印されるまでも数百年、合わせて千年近くも前の話なんて、頭の中に思い描いた事すら無かった。

「都の辺りを適当に騒ぎ散らかしたり何だり。鬼神の雷落としの辺りで武者も術士も急に気を入れて軍勢を組み始めたから、こりゃ暫く居ると本気の戦になると思ってな。更に東に下る事にした」

 再び通されたのは、先程霊宝を回収しに行くより前に、レキがソウジンと交渉をした一室だった。レキは入り口の辺りに少し足を崩して座り、一方で火鼠は窓台に横向きに腰掛けて、半ば外を振り向く様な形で片足を畳んで、もう片足を放り出している。

 夕風に彼女の髪が揺れている。

 火の煤けた匂いが、レキの鼻先に香った。

「んで海に行き着いて、聞けば向こう岸に渡った奴がかつて居ねえ。先陣を切るのも悪くはねえと思ったが、花精が『少し落ち着きたい』って言うもんだから、そんなもんかと思って海沿いを行く事にした。ちょっと南に行ったらすぐ突き当たったから、その後は北。長閑なとこだったが、夏の風が冷たくて飢えが兆してた。そうしたら其処の長者が……何て言ったかな」

「……央扇?」

「ああ、そうだ。そんな名だった。そいつがあたしと花精に力を貸してくれってさ。祀るとまで言われれば、なんて花精が乗り気になったから、それも良いかと思ってあたしも手伝ってやった。……後の事は、もう知らねえ。その祭祀の日に背中から刺されて、封印されて、」

 終わりだ、と火鼠は拳を握って、パッと開く。

 吹っ切れた、とは程遠い声色だった。

「てことで、悪いな。あんたが知りたがってる様な事は、あたしも何も知らない。強いて言うなら、あんたらの言う『花神』様が昔は大陸に居た花の精だって事くらいか」

「いや、悪いって事は無いんだけど」

「けど?」

「その……驚いて」

 恋人だったの、という言葉は、口にしたのだかしなかったのだか、自分でも分からない様な小さな声としてしか生まれなかった。だから掻き消す様にして、次の言葉をレキは紡ぐ。

「三妖とは? 大陸から?」

「いや。彼奴らはこの島に来てから拾った」

「島……?」

「この国がすっぽり入ってる土地丸ごとの事。都で遊んでる時にくっついてきた奴らだ。あたしは如何でも良かったんだが、ほら、収まりが良いだろ」

「…………?」

「あんたは歌詠みって風情でも無えか。大陸じゃ『雪月花』だったんだが、此方の島じゃよく花と鳥、風と月が歌に詠まれる。縁起が良いって気に入って、花精が引き入れたんだよ」

 随分と、とレキは思う。

 聞いていれば、全ての道筋が『花精』の主導だ。大いなる妖、火鼠が此処までふらふらと自ら何を決める事も無く、手綱を明け渡すが如く世を渡っていたのは、意外な事に思えた。

 惚れた弱み、という言葉は浮かんだけれど。

 それを使いこなすには己の生きた時間は如何にも短すぎる気がして、黙っている内に、火鼠が「ただ、」と言って言葉を継いだ。

「『月』だけは別だ。彼奴は都に居た事は無え……らしい」

「らしい?」

「彼奴が自分で言ってるだけの事だから、確かか如何か分からねえって事だ。曰く、『自分は逆の方、北から回ってきた』『大陸のずっと北の方を回って、平原を越えてこの島まで来た』って事だったが、如何だか」

 しかし幾らかレキが訊ねれば、本当に大陸の北側には平原がある事、何度か言葉を交わせば火鼠の見聞とかなり似通った知識を彼も持っていて、少なくともそうと騙るに十分なだけの見識は在ったという事が知れて、さらに重ねて、

「三妖の中で、彼奴だけは少しばかり格が違う。あんたも、対峙したら気を付けな。どうも彼奴は当時、大分弱ってた節がある。本来はあたし……はともかくとして、花精と同格くらいの力が有ってもおかしくはねえ」

「弱ってた? 誰か、別の妖と争ってたの?」

「少なくとも、あたしがこの地に着いた時点では其処までの妖は住み着いてなかったけどな。大陸で手負いになってから此処まで渡ってきたか、そうじゃなきゃ……まあ、何でもいい。ただの忠告だ。気を付けとけ」

 気を付けとけと言われても、とレキは思う。『月』が別格だの何だのと言われても、そもそも火鼠が居なければ『風』にも『鳥』にも敵わないのだ。まして花神と同格等と言われても、自分には如何しようも無い。

「う、うん。ありがとう」

 しかし折角の言葉に何も応えないのも、と思って形ばかりの返事をすれば、ぐるりと首を回して火鼠が此方を見た。

「そう言えば、あたしも気になってる事が有ったんだ」

「何? 答えられる事なら……」

「あんたの方の経歴だよ」

 む、と口を噤んだのは不機嫌ではなく、単なる驚きの為だった。

 気にしているらしい素振りは、これまでにも幾度も有った。けれど、本当に気にしているのか。火鼠が。隔絶した大妖が。自分如きの事を。

 其処まで思ってから、ふと気付く。先程の大陸を歩き回っていた話。そもそも彼女は懐っこい性格をしているのかもしれない、なんて――、

「はっきり言やあ、術士にゃ向いてねえよ。だが武者としちゃかなりの物を持ってる。それが何だって花精――国主だろ。それの葬式から外されて、こんな所で鼠の世話をしてんだ」

 思っていれば、答え難い事をずばりと訊ねかけられる。

 暫し、レキは迷った。しかしそれを伝える事で、具体的に何の不都合が有る訳でも無い。聞かれたら答えるべき事だ。そう思うから。

 何処から話した物か、と思いながら、まずは彼女は、

「話せば長く――」

「レキ殿、火鼠殿。霊宝の準備が」

 整いました、とガラリ、戸を開けてソウジンが入ってきた。

 煤けたままの顔である。手には霊宝『燕の子安貝』。そのままでは持ち運びにくかろうと、いざという時にレキの『その手腕』では手間取る事だろうと、多少扱いやすくする為の術を掛けてくれていた。穢れを水で清める暇も取らず、次の速やかな出発の為に、一心に。

 その彼が、今。

 何を急に入って来たのか、とばかりに四つの目から視線を浴びせられて、「へ」とたじろいで、たたらを踏んでいる。

「あ、何か、間が悪かったでしょうか。失礼しました」

「い、いえいえ!」

 彼の感じているばつの悪さに気付いて、レキは立ち上がった。気にし過ぎだろうとは思ったが、先程までの話の流れから火鼠に背を向けるのは何かの裏切りの様に感じて、少し半身になって、不自然な体勢を取りながらソウジンの隣に立つ。

「助かりました、ソウジン殿。先程の通り、私は術が苦手なものですから」

「ええ、はい。……と言って良いかは分かりませんが。一先ずこれで『命を懸けて』解放する様な事は無くなるかと思います。ただ、向こうの妖にとっても多少扱い易くなっていますから、奪われない様にお気を付けて」

 ソウジン本人は、この地に残る事となった。

 共に来てくれた方が、正直な所レキには有難い。単純な対峙であるならともかく、霊術を用いる要の有る時には如何しても、己の腕では心許ない。しかし彼も西原の留守を預かっている身。そして彼の匿う人々の安否を思えば、強く頼む事は出来なかった。

「火鼠殿も、感謝致します。火焔結界、確かに」

「気にすんな。それより悪い事したな。結局、寺は焦がしちまって」

 ひょい、と窓台から降りて火鼠の二人の傍へ。

 ああいえとんでもない、あれ位なら、とソウジンが言う。あたしの結界も暫くすると燃え出すから、あんたが様子を見てくれよ、と火鼠が言う。二人の間に挟まれて、ちらりちらりとレキは火鼠に視線を送る。目が合う。だから、そのまま瞳だけで伝える。

 後で話します、と。

 ぱちり、と少しだけ長く、火鼠が瞬きをした。

「んじゃ、次の霊宝を取りに行くか。今から出りゃ明日の夜には着く……あんた、体力は大丈夫か」

「平気。そうだ、ソウジン殿。馬を借りる事は出来ますか。私達に付き合ってくれたのは、流石にもう疲れている様で」

「構いませんよ。ただ、あまり此方の逃げ足が無くなっても困るので、二頭だけで宜しければ」

 十分、と火鼠が言う。となれば二人で一頭に乗り込んで、疲れが見えればもう一頭に乗る形になるのだろう。多少なり眠る事が出来れば良いが、と訪れるであろう旅の苦労に思いを馳せつつ、レキは、

「それでは、参りましょうか」

「待て待て。その前に次の行き先だろ」

 火鼠の言うのに、不思議がって、

「……? 自分で言わなかった? 東西に狭い土地だから、南の先取りは一旦諦める。東に急ぐって」

「その東の霊宝の在処だよ。次は何奴に訊ねるか、もう当たりは付いてるのか」

 付いてないんだったら此処で聞いていった方が良いんじゃないか、と火鼠はソウジンを見る。まさか知らない事は無いでしょう、とソウジンはレキを見る。ああ、そういう事だったのか、とレキは火鼠を見て、

「付いてるよ。東流の一門」

 有名だから、と何の疑いもないまま、口にする。

「川の畔に社があるから、辿って行けば迷わずに着くと思う」

 げえ、という顔を、火鼠がした。


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