四の四 精々弱って
その真紅の火が迫り来るのを見て、最初にレキが思ったのは「無理だ」という事だった。
あまりにも速すぎるし、広大すぎる。これまで隣に居た時に感じていた火鼠の妖力は、空のほんの切れ端だけを眺めていた様な物だった。初めに出会った時よりも更に烈しい、術の奔流。火。一片も残さず焼き尽くそうとする、恐ろしく、そして美しくもある焔。
虎が、見えた。絵巻から飛び出してきた様な威容を放つそれらの輪郭はしかし朧で、ただ火鼠の放つ炎に照らし出される事で、辛うじてレキの瞳の中に映り込む。地上に十数頭。ひょっとすると、と期待する事が出来ない程度には、レキの霊眼も働いた。
「〈閉――、」
退魔刀を引き抜くのだけは、何とか間に合った。しかし炎は抜刀の双子の妹の様に、すぐさま追い掛けてくる。虎は焼かれる。術の威力が碌に減衰していない。霊眼に見た通りあれでは、あの程度の獣では、とてもこの火は受け止められない。
間に合わない。
死ぬ。
「レキ殿!」
声は後ろから。手のひらは、肩に触れて。
どう、と霊力を渡された心地がした。
「――じろ〉!」
青い霊力が己の手の内から放たれるのを、レキは見た。
信じられない思いだった。これだけ早く霊術を使えた事はこれまでに無い――その感傷に浸っている暇もない。
衝突。
結界の壁面が、真っ赤な焔に焼かれてゆく。
「ぼっ、僕が力を添えます、結界を!」
ソウジンの声が、耳元で響いた。
両肩を握られている。結界術の補助をされている。力が肩越しに流れ込んで来ている。それはどう考えても、一人の術士が供給できる量ではない。
霊宝『燕の子安貝』。
その力の一部を今、ソウジンが解放してこちらに受け渡しているのだ。
「む――あ、お……!」
「そのまま耐えてろ! 直ぐに済ます!」
術を放った当の妖は、理不尽な事に既に己の炎から自由になっているらしかった。レキは見た――火鼠が門の上から跳び出して、焼かれる虎の真ん中に、流星の様に音を立てて降り立つその様を。
彼女の長い髪が真っ赤に燃え立って、庭石すらも熔かし始めるその光景を。
「グォオオオ!!」
燃え盛る虎は、それでもまだ生きていた。
声というよりも、巨大な洞穴に響き渡る地鳴りの様な恐ろしい音を上げて、その獰猛な四つ脚をしならせて、三方から火鼠に飛び掛かる。
「煩え!」
そして、それもまるで問題にならない。
右方から飛び掛かる虎の横腹を、火鼠は右から回し蹴って吹き飛ばす。焔を放つ脚は火山からたった今引き抜かれた鉄の棒の様に赤熱し、たかが一撃で虎の胴体を半ばまで断ち切って、吹き飛んで、塀は崩れて二体目、背後から襲い掛かって来たそれを、振り向きもしない肘打ちで鼻を折って動きを止める。震脚に地が沈む。
そのまま首に指を掛ける。煮崩れた芋を掴んだ様にその指が食い込んで、ぶん、と振れば左方に吹き飛んでいく。更に二体。
「纏めて消し飛ばしてやらあ!」
防戦の時間は終わり、次は火鼠が暴れる番。
その暴れ回る内、結界を張りながら耐える内に、漸く最初の炎撃の威力も衰え始める。
「凄い……」
けれどまさか心にも無い事を言える程の余裕は無かったから、ソウジンの呟いたのは、心からの言葉だったのだと思う。
レキも同じ意見だった。放たれた妖術。虎をいなす体術。どちらを取ってもこれまでに見たどの妖とも、人間とも比べ物にならない。そして、『鼠』の身でありながら『虎』を屠るその光景の意味が、一体どれ程の――
殺気。
「!」
「わっ――」
感じ取るのと同時に動かなければ、全く間に合わなかった筈である。
肩に手を掛けていたソウジンを後ろ脚で蹴り飛ばした。その勢いで自分も前に転がった。二人が着地したのとそれとで、何方が早かったのか分からない。
ドドドドド、と矢の雨が降った様に、茶金色の羽根が地に突き立った。
「何が、」
「もう一体、いや――」
その羽根が火鼠の妖術の名残に燃え落ちて、煙が上る先。
きっ、と睨み上げれば、其処には女が浮かんでいた。
「……ふうん。今のを避けるの」
同じく茶金色の翼を広げた、金の髪の女である。
妖、と一目で分かる。鈍感のレキでも、その妖力の凄まじい事だって分かる。力が巨き過ぎるから、未熟な術士如きでは火鼠と何方が上かも分からない。それ程の妖が目の前にいて、此方を見定める様な目付きで睥睨している。
『鳥』だ、と見目で知れた。
「…………」
だからレキは、彼女から目を逸らさずにじっと機会を窺っている。鳥の妖であれば、手にある刀では分が悪い。一方で今、本堂へ続く階段に腰をへたり込ませているソウジンの背、無暗に立派なあの弓が有れば、それでも渡り合えるやも知れない。
鼠が猫を不得手とする様に。
鳥もまた、弓に掛かれば文字通り、一矢の望みを其処に残せる。相手がどれだけ強力な妖だとしても、多少力の差は詰まるはず。
故に、出方を窺っていた。
「――じゃあ、今日は止めておきましょうか」
けれど『鳥』があっけらかんとして言い出したのは、そんな事だった。
「……?」
「火鼠も本調子に戻っちゃったし。もう少し楽に霊宝が取れるなら良かったんだけど、貴方、人間にしては随分と『使える』みたいだし」
ああ嫌だ、武者はこれだから、と肩を竦めて『鳥』は。
そう言って、ふっと姿を消した。
妖術だ、とレキは分かる。分かるが、何処に消えたのかを知る術はない。縋ってソウジンに目を遣っても彼は呆けた顔で、背後では未だに火鼠の暴れ回る音が鳴り響いている。
「おいおい、鼠を相手に尻尾巻いて逃げる気かあ!?」
「当たり前。あの火鼠を向こうに回して一対三なんて莫迦のやる事でしょ。そして、私は莫迦じゃない」
「……く、声、が」
くらくらと眩暈を起こす様な『鳥』の声に、レキは頭を抱えた。
『風』を相手にしていた時ともまた違う。悪酔いした時の様な、三日も四日も眠らずに座っていた時の様な、目の奥がぐらぐらと回る様な感覚。これもまた妖術か、と耳を塞ごうとすれば、
「――嗚呼。そうそう」
耳の間近で、囁く声がした。
「貴方達のだーい好きな花神様って、本当に死んだと思う?」
「――――ッ」
退魔刀を振り抜いた時には、もう女の姿は無い。
「怖い怖い。貴方、本当に人間にしてはやる方ね」
「今のは、如何いう、」
「――聞き捨てならねえな」
低い声と、膨大な妖力。
思わずぎくりとレキの身体が固まる様なそれは、当然火鼠が放ったもので。
「何だ。結局、彼奴は今――」
「教える訳ないでしょ。動揺を誘うのが目的なんだから」
嘲笑う様な声色で、彼女は。
「期待しちゃうでしょ? 『昔の恋人にまた会えるかも』って」
火鼠は一点を見詰めている。其処に『鳥』が居るのか。目を凝らしてもレキの目には映らずに、再び声は気ままに、幾らでも居所を変えている。
「答えはお楽しみ。精々弱っておきなさいな」
そして、その一言を最後にきっぱりと妖力は消えた。
十を数える間、レキは周囲を眺めまわして、本当にもう二度と出て来る事は無いのかと警戒を続けていた。先程もまるで背後に回られた気配が無かった。ならばもう一度、そう思ったが結局何の気配も感じられず、やがて火鼠がどっかりと腰を下ろしたのを見て、彼女も退魔刀を鞘に納めた。
「ソウジン殿。大事有りませんか」
「え、ええ。しかし……」
へたり込んだソウジンに手を貸せば、案外と彼は立ち直り早く、身体を起こす。そして見るのは、火鼠の座り込んだ寺院の庭の景色。
惨状だった。塀は毀れ、参道は捲れ、石は潰れ、割れ、熔けている。ただ妖同士が一度牙を交えただけでこうなったとは、花城国の『併合二代目』以降の者であれば、目の当たりにしない限りはとても信じる事は出来なかっただろう。
「今の妖、花神様の事を……」
ええ、とレキは頷いた。確かにその事を、『鳥』は言ったのだ。
けれど、それが一体自分達にどんな意味を齎すのか。
「如何いう意味、なんでしょうか」
ソウジンが口にした言葉だったけれど。
本当にそれをこの場で一番強く思っているのは彼女なのではないかと、惨状の真ん中に佇む寂しげな背中を見ながら、レキは思った。
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