四の三 知った様な口



「あはは! 如何した火鼠! 老いて熱気を失くしたかい!」

「ぴーちくぱーちく、相も変わらず喧しい女だな!」

 素っ気無いながらも整っていた寺院の前庭は、今や荒れ果てていた。

 本堂の入り口には無数の破壊痕が残る。敷き詰められていた砂利は雨の日の川飛沫の様に飛び散って、参道の畳は巨人の指を引っ掛けられたかの様に捲り上げられている。塀までがガラガラと崩れ落ちて瓦礫を晒しているのは、その上をひょいひょいと火鼠が跳び回っていて、

「ほらほら! 落としちゃうよお!」

「チッ――」

 それを襲うが為に、ガン、と。

 虎の突進が、爪が、硬い頭が、乾いた土塊を叩くかの様に容易く破壊しているからに他ならなかった。

 ひょい、と宙返りをして火鼠は別の塀の上へ。方角は本堂が在るのとは逆。とうとう正門まで後退を余儀なくされ、と、と軽々飛び乗った足取りとは裏腹に、髪の隙間から覗く火鼠の目には焦りの色――、

「そんな演技に今更掛かる女に見える?」

 そんな『鳥』の声が響けば、すぐさまそれは消え失せた。

「ちったあ知恵を付けたじゃねえか。昔のお前だったら、一目散に襲い掛かってきたぜ。目の前に餌ぁぶら下げられた鶏みたいにな」

「誰も彼もが何時までも幼いままでいるわけじゃない――貴方や『風』と違ってね」

「知った様な口を叩きやがる」

 眼下には、幾頭もの虎が群がっていた。

 四頭どころではない。初めこそたったのそれだけだった。けれど暫くこうして逃げ回っている内に、ごそごそと増え回った。何処から、何時の間に――火鼠を以てしても、それは判然としない。ただ闇の中に予め引かれていた墨字が不意に目に入った様に、それは自然に、意識の外側から其処に現れた。

 術か、と火鼠は呟く。

 それは断定の口調ではない。疑問。疑念。彼女の頭の中には、もう一つの可能性も過っているからだ。即ち、三百年前に『鳥』と名乗っていた事すらもまやかしで、これこそが彼女の妖としての『本領』なのではないかという事。流石にあの時点の彼女に其処までの狡猾さは無かった様に思うが、しかし――、

「哀れね、貴方」

『鳥』が言った。

「あ?」

「花精に裏切られて、どんな気持ちだった?」

 駆け引きか、と悟れば火鼠は口を噤む。誘いを掛けてくるのは駆け切り、引き切る自信があるからだ。わざわざ乗ってやるだけの親切さは無い。

「貴方は今こう思ってる――『此奴は本当はどんな妖なんだ?』『どうすれば自分は相手の正体を見破る事ができるんだ?』『焼き殺して、それで終わりに出来る物なのか?』」

「…………」

「昔の貴方なら、もっと簡単に私を焼き切った」

 本心から、哀れんでいる様な声色だった。

 それが『様な』物なのか、それとも『その物』なのか、火鼠には分からないし、如何だって良いと思っている。重要なのは視線の先。十数頭の虎。その向こうの本堂。二人の術士が入って行って、まだ出て来ない、その先。

「鼠に虎は相性が悪い。でも、元々鳥とだって相性が悪かったでしょうに。それが如何して、今はそうやって迷っているのか。あの無謀で傲慢な大妖は、三百年の間に如何してこんなに衰えてしまったのか」

「…………」

「裏切りが、貴方を怯えさせている。もう昔程、貴方は自分を信じられなくなっている……一番信じていた者に、裏切られたから」

『鳥』の声は、酒気の様に辺りに漂っていた。

 ぐらぐらと、くらくらと、嗅いだだけで前後を忘れる様な悪い酒の香り。言葉からそれは漂い、姿を見せないままに彼女は右へ左へ上へ下へ。その『場所』すらも酔い染めて、天地は上下を失くし、東西は鏡の中に迷い込む。

 瞼を閉じた。

「その上、何? 私を相手に後退り。冗談でしょ?」

 止めろ、と火鼠は思う。

 口に出せば早まるだけだから、ただ強く心に思うだけ。

「強さを失くしたのに、甘さだけは残したまま。あんまり哀れで、涙が出る」

「……そうかい。乾かしてやろうか?」

「だって貴方、さっきから――」

 三つ数えれば、それで終わり。

 だからいい加減に火鼠も、肚を決めて。

「この建物の中の人間を気にして、一つも火を吐いていない」

 虎が、背を向けて駆け出した。

 チッ、と舌を打つ。妖力を右の手に込める。引き絞る。二十に及ぶだろうか、虎は本堂に向かって一目散に走り込む。

 露見していた――当然だ。対峙したのがそれなりの妖であれば勘付かれるに決まっている。炎を使えば本堂が燃える。霊宝の回収に向かった術士二人が命を落とす。だからこんな仕様も無い酔い飽きの戯言に付き合って時間稼ぎまでしていた。

「掠め取るのは、私の得意技――」

「小せえ奴だな、相も変わらず!」

 しかし最早これが限り。如何にか確実に虎だけを射抜いて、最小限の延焼に留めるべく――火鼠は引き絞った妖力を、放ち出す。

 その、直前。

「こ、」「――ソウジン殿、後ろに!」

 がらり、と本堂の戸が開き、二人の術士が現れて。

 目と目が。

 雷の様に、通い合ったものだから。

「レキ、防げ!」

 次の瞬間。

 炎の嵐が、吹き荒れた。


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