四の二 心得



「――――、」

 二人が入ってから、三百を数えるか数えないかという辺りの事だった。

 砂利の上に屈み込んで本堂の前、門番をしていた火鼠が不意に立ち上がる。反り返る様にして空を見る。昼の日は未だ高く、陽光は眩しい。青い空に指先を翳す。春にしては柔い風だけが吹いていて、彼女の長い灰色の髪が僅かに揺れる。

「『鳥』か」

 それだけで彼女は、名前を呼んだ。

「あら、あらあらあらあら」

 広い境内の、其処かしこから声が聞こえてくる。火鼠を取り巻く様に、渦の様にぐるぐると声が巡り、響き渡る。

「覚えててくれたの、火鼠。三百年経っても色好みのままね」

「はっ。よく言うぜ、ちんちくりんの雛鳥が。いい加減ヨチヨチ歩きは上手くなったか?」

「それがねえ、中々……。ほら、貴方みたいな小鼠ちゃんと違って、私の身体って凄く立派だから。支える足も二本だけで、やけに長くてほっそりしているし」

 けらけらと嗤う声は、半分は揶揄いで、もう半分は親しみの様にも響いた。

 風に乗ったのか、何時の間にか青空には茶金色の羽根が無数に舞っている……それがある高さで、ぼうっ、と一斉に燃え落ちた。

 パチパチと火花が散る。それが火鼠の髪を赤く、黄色く照らす。焦げた匂いが辺りに立ち込めて、ぽつぽつと砂利の上に黒い染みを移していった。

「もうちょっと寝惚けていたら可愛げも有ったのに。可愛くないまま」

「寝惚けてこれだよ。お前の妖力がしょぼくれてんだ。三百年寝てたのか?」

 うふふ、と鳥の意地悪く笑う声が響き。

「勿論、寝ていた訳じゃない。例えば、そうね」

 こういうのは如何、と試す様に呟けば、どさどさどさ、と重々しく、砂利を潰す様な音が響いてくる。

 其処に、居たのは。

「……へえ。あたしの知らねえ間に、ちっとは鍛えたらしいな」

「ええ。『風』みたいなお坊ちゃんとは違って、私はほら、自分の力の限りってものをよく理解してるから」

 金色の毛並みに、黒の毛縞。太々とした四つ足に、鋭い爪。爛々と光る金の瞳。

 獲物の命を刈り取るべく突起した、鋭い牙。

「ヨチヨチ歩きは、止める事にしたの。ちゃんと貴方を、喰い殺せる様にね」

 虎。

 四頭が、火鼠を取り囲んでいた。



「ひょっとしてレキ殿は、物の怪使いの家の出なのですか」

 先を行くソウジンがそう言ったのはきっかり聞き取れていたが、思わず「え」と声は出た。

 火鼠と分かれて、本堂の中に踏み入ってからの事である。本堂の戸を開けてすぐさま霊宝が其処に、というのであれば話は早かった筈であるが、生憎とそうはいかなかった。ソウジンは「こちらです」と言って寺院の奥へ奥へと案内を始め、しかも進むにつれてどんどんと道は深く土の下まで伸びてゆく。開けた回廊を進んでいた筈が、今はすっぽり壁に覆われた空間を行く様になり、ソウジンが道の端の燭台を手に取ってぽっと火を点けた辺りになれば、これは中々の長旅になりそうだ、とレキも理解するに至っていた。

「いえ、そういう事は無い……と思いますが」

「そ、そうなんですね。てっきり、何某かの心得がある物かと」

 綺麗に張られていた材木は、何時の間にか壁から姿を消した。深い洞穴の様に土壁は続き、足元には山中の階の様に飛び飛びに板が渡されている。風はレキの背中を押す様に吹いて、時折ごお、と恐ろしい音を立ててもいた。

 けれど、ソウジンの背がぶるりと震えたのは、その音の恐ろしさの為ではなかったのだと思う。

「よく、あの様に話せますね。私は恐ろしくて堪らない。あの火鼠という妖、間近で見て猶更よく分かりました。あれは――」

 我等など容易く縊り殺せる者でしょう、と。

 心底の畏怖と共に、吐き出すものだから。

「だから、てっきりその様な心得があるのかと。レキ殿は、その――妖に、慣れておられるようで」

「ええ、まあ。それはそうだと思います。私の住む村が併合されたのは、ほんの三年前の事ですから」

「……というのは」

「それより以前は、国守結界の外に居たという事です。少なくともソウジン殿や他の方々よりかは、妖と接する機会は多かった様に思います」

 先程火鼠が自分の顔を見詰めてきたのも、恐らくそれが故だったのだろう、とレキは思っている。国守結界の生きている内は国内には碌に妖が出なかった。それなのに『風』の様な大妖を相手に曲がりなりにも生き長らえたのは、そして火鼠を相手にあんな口の利き方を出来るのは何故か。それを問い質したがっていたのだろう、と。

 訊ねられれば、答えても良かったはずだ。

 それでも知らぬ振りを通したのは、その事が『併合一代目』という己の身分に繋がる事を恐れたからだ――そんな風に、レキは自分を思っている。

「私も、恐ろしい事には恐ろしいですよ」

 言えば、意外そうな顔をしてソウジンが振り向く。

「火鼠の方が私よりもずっと格上です。恐ろしくない筈がない」

「しかし、そうは見えません」

「ただ、そう見えない様に努めているだけです。何も難しい事は有りません」

 ソウジンが何も言わないでいるので、そのままレキは、幾つかの言葉を付け足した。妖と対話する際のコツの様な物。向こうが此方を侮らない内は、此方も遜る必要はない。遜れば寧ろ均衡を欠き、後に悪い影響を残す。侮られた場合は、相手が格下か格上かで身の振り方を決めれば良い。格下ならば力を見せれば良い。幸いにして『侮る格上』に今日まで出会った事は無いが、もしその様な事があった場合には――、

「或いは、主として担ぎ上げる他ないのかもしれません。これもまた、相手の度量次第の話ではありますが」

「…………」

「しかし火鼠に関しては、今の所それ程の御懸念は要らないものかと思います。私の目から見てもあからさまな程、彼女は此方に気を遣っています。あれだけの力を持つ妖が、不思議な事ですが」

 ひょっとすると三百年前とやらに人里に紛れて暮らしていたのやもしれません、と締め括る。それでもソウジンは暫く無言のまま、先を歩いた。

 深くに進むにつれて陽光遠く、春の気配も消えていく。地下の深くは未だ冬の凍土を残しているかの如く冷たく、土壁は慣れない火に照らされて濡れた様に輝く。道幅が少しばかり広がって、風の少し戸惑った様な気配がしたと思えば、はたと其処でソウジンは足を止めた。

 寺院の広さに比して、案外と簡素な物だった。五段の祭壇があり、霊的な装飾は殆ど無い。代わりに質素な、如何にも神妙な空気を作り出す様にして、黒と白の飾りが付いている。

 一見すれば何の変哲もない場所。しかしレキのそれほど良くもない霊眼でも、暫く目を凝らせばはっきりと見える。

 霊宝『燕の子安貝』。

 それが、此処に在ると。

「正直に申し上げると、貴方の様な方が『併合一代目』として此処に居る事には、思う所が有ります」

 振り向かないままで、彼は言う。

「しかしそのお陰で貴方が城に囚われる事無く、あの大妖との折衝を担ってくれている事を思えば……情けなくも、安堵する気持ちも有るのです」

 随分と、とレキは思う。

 随分と正直な事を言う人だ、と。言わずに済ませても構わないだろう事までわざわざ口にする。或いはその正直さのお陰で、こうして大して揉める事も無いまま、霊宝の在処まで辿り着けたのかもしれないが。

 振り向いて、ソウジンは言う。

「貴方に託します。霊宝の封印を解き、三妖を打ち倒して下さい」

 真っ直ぐな瞳で、見詰められれば。

 こちらも真っ直ぐ、見詰め返して。

「は。承知しました」

「……あまりそう、畏まらず。貴方の方が、僕よりずっと優秀な術士でしょうから。封印の解除を手伝って頂けますか。僕一人では、少し難しそうだ」

「それは勿論。ですが……」

 封印を解くのを「少し難しそうだ」で済ませるソウジンが、自分より術が下手という事もあるまい。

 長々己の不出来を語るのも憚られる。しかし「ソウジン殿の方が遥かに優秀かと」等と口にしても「はは、構いません」と彼はお世辞と取って疑わない。余計な苦労を背負い込む前に勢い込んで説明しようとしたが、早くもソウジンは霊力を込め始めており、慌ててその力添えをしようと、レキはひとまず心を落ち着けて精神を澄ます所から取り掛かる。

 だから最初に気付いたのは、やはりソウジンだった。

「これは――、」

 彼は目を上げる。土壁の天井。その先。地上に向けて。遅れてレキも気付き、声を上げる。

「戦ってる。火鼠が」

 そして、しばらく地上に妖力の奔流が収まらぬところを見れば、やるべき事は直ぐに定まる。

 一刻も早く封印を解き、霊宝を持ってこの寺院から脱出するのだ。


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