二の三 死体



 それは、異界の様に映った。

 森の奥の、低い山の、その中のたかが一点の筈である――しかしたったのそれだけの場所が、黄泉の果ての様に隔絶している。

 あれだけ視界を遮っていた樹々は、今、レキが踏み出した先には他の一本も生えていない。どころか下草の一つもない。誰かの手によってそうと決められたかの様に、その場所をぐるりと引き囲み、主に仕える従者の様に、その場を整えている。

 月が輝いていた。金色に、煌々と。

 その月の周りを巡る様に、遥か上空を鳥が一羽飛んでいた。

 その鳥の羽ばたきが地上まで降りてきたかの様に、一陣の風がざあ、と吹いて、月よりも明るく輝く、それを揺らした。

 桜の樹。

 あまりにも白く、美しく、それ自体が光を放っているかの様に。

 この世のものとは思えない程に――夜半の、或いは死の淵に触れた、ただ一時の幻視の様に、美しく咲き誇っていた。

「ひひ」

「――っ」

「御苦労、人間。やっぱり在った、見つけたぞ……」

 振り向けば当然、其処にいる。

 悪風。此処までレキを追い立ててきた大妖。その分け身。風が小さな竜巻となって、草葉と土を巻き上げて、中身の無い人形の様にその身を象って、其処に。

「『花精』の隠した、霊宝……ひひ、いひひいいひひ……オレが、一番乗りだ……」

「――何者、だ。お前は」

 口にしたのは、決して対話で解決する事を期待した訳ではない。

 そもそも分け身を相手に交渉を試みたところで無意味だ――結界が完全に解けてしまえば、これよりも遥かに賢く狡猾な本体が姿を現す。この場で如何なる合意を取ろうと、さしたる意味は無い。

 だからレキが腰の刀を抜き放ちながら、それでも掠れた声で訊ねたのには、もっと別の目論見がある。

「ひ、ひひひひひひ。知って、どうする。名を知った所で、手前如きじゃ何もできやしねえ」

「…………」

 一つは今、『悪風』が口にした通りの事。

 名の有る妖であれば、何らかの対処法が確立されている望みがある。狐狸の類が犬を嫌う様に、何かしらの弱みが有るかもしれない。

 けれど目の前の分け身は如何やらその狙いを看破できる程度の賢さは既に備えているらしく、詰まるところ、それだけレキの張った結界は――、

「結界の張り方がなっちゃ、いねえ。都の術士どもとは比べ物にならねえよ。いひひ――雑魚、雑魚、雑魚、雑魚!」

「…………」

 それだけ、破壊されているという事。

 結界勝負は、少なくとも事前に入念な準備が出来るとう点において術士が有利――それでこの体たらくだ。申し開きも無い。明確に、レキの霊力は悪風の妖力に、遥かに劣っている。

「痛めつけて霊宝の在処を吐き出させて、やろうと思ったが……ひひ! 頭も悪ぃ!」

「…………」

 だから、もう一つの目論見は。

「手前が手前で、守る物の在処を教えちまうんだからな。ついでだ、人間。他の霊宝は何処に在る! もし知ってるなら、手足の一本くらいは恵んでやっても――」

「…………」

「――待て。手前、何を唱えてやがる」

 見破られた、と分かったからには。

「――〈四門ひち閉じ大柱あらわに〉――!」

 もはや、声を潜める必要は無かった。

「悪足掻きを、するんじゃねえよ!」

 風の刃が、レキを襲う。

 見えない。聞こえない。だから咄嗟に出来たのは、右の手に収まる退魔刀を目の前に掲げる事だけ。

「チッ、刀ばかりは兵ぶりやがる――」

「――〈地蓋に埋む、虚空天守の要石〉――」

 当然、それだけでは何らの攻めにもなりはしない。

 けれど真正面から突っ込む他に能の無い、分け身が相手の事だ。たったそれだけでも、向こうの突進の軌道を限定し、致命傷を避ける位の事は出来る。

 掲げた右手は裂傷に塗れ、だらだらと血は滴る。

 けれど要の脈も、神経も残っているから。そのまま刀を媒介に、レキは呪文を唱え、術に霊力を込めてゆく。

「――ひひ、なんだそりゃあ。それで如何にかなるってかあ?」

 悪風が、それを嘲笑った。

「自分の力も分からねえか、雑魚! 雑魚! 雑魚! 大方霊宝の力を吸い上げて封印術でも使う気だろうが、んなちんけな術じゃ捉えられやしねえよ!」

「っ、〈汝縛るは古き約定〉――」

「無駄だって言ってんだ!!」

 轟、と風が吹く。

 けれど、最早それは攻撃ではない。脅迫。あるいは嘲笑の延長。ただ、大熊が兎を吠え立てて、震えるのを笑うのと同じ事。

「いひひひひいいひひ……虎の子でも隠してんのかと思ったが、なんだその惨めったらしいぐずぐずの術は。昨日生まれた妖だって、もっとマシに力を練るぜ」

 悪風の、言う通りだった。

 対話の目論見は二つあった。一つは望み薄ながら、相手の弱みを探る事。もう一つは、その対話で稼いだ時間で以て、大霊術の準備をする事。

 レキは、悪風の指摘する通り、霊術の類が不得手である。

 当然、大霊術の行使など夢にも叶わない――少なくとも必要とされる霊力の量という、絶対的な枷がある限り。

 だから、霊宝の力を使うのだ。

「――〈鎖、紐、手、誓い――縛る物〉――」

 花城国全域を覆う国守結界、その四要の内の一を担うのがこの霊宝なのだ。当然レキでは到底及ばない、莫大な霊力を宿している。

 だから今、その霊宝を結界の役割から外し、大妖を討つ為の力へ転化する。

 当然、それを行えば国守結界は崩壊を免れないが――、

「ひひ……まあ、いい。早いか遅いかの違いでしかねえ」

 悪風の言わんとする所が、全てだった。

 敗れれば、解放した霊宝は間違いなく奪われる。しかし対峙するのは風の大妖。レキの結界の力から抜け出れば、即ち山野を駆け巡り、地を巻き上げて、無理矢理にでも霊宝を奪うであろう。

 ならば――何れにせよ、後は早いか遅いかの差異しか無く。

「〈鎖は錆びた。紐は、朽ちた〉――」

「万に一つの勝利に賭けるか。いひひ……いいぜ。やってやるよ。そっちの方が、オレだって手間が省けらあ」

 たった一つの、可能性。

 賭ける。霊宝の力を解放する。それを見届けて悪風が刃を放つ――それまでの、僅かな隙に、

「〈手指は朽ち果て、今は虚ろな契りのみ〉」

 封印術を叩き込む。

 己の命の、全てを賭して。

「〈故に、此処に言の葉奉り〉――」

 天に、月が輝いていた。

 夜空の遥か彼方で、鳥が啼いていた。

 目の前には荒々しく風が吹き荒れて。だから、花弁が瞳に映って。

 ふと顔を上げる。


 春だから、酷く綺麗に桜が咲いていた。


「――――〈汝の首より今、指を放そう〉」


 後の事は、ほんの一瞬の出来事だった。

 ひ、と悪風が嗤った。霊宝の封印が解ける。膨大な霊力が、その場に溢れて来るのがわかる。奔流。塗り替える様に。支配する様に。

 大霊術。霊宝の力をレキは手中に収めようとする。それよりも悪風の動く方がずっと疾い。風の刃が飛んで来る。読んでいる。大霊術を行使するまで息があればいい。致命の箇所は数あれど、即死と呼ぶに足る箇所はそれ程多くはない。右腕は捨てる。臓腑も捨てる。ただ頭と舌があれば良い――思って、再び刀を振り上げる。

 上がらない。

 悪風の気配が更に歪むのに、姦計を悟った。

 身体が思う通りに動かない――何らかの妖術を掛けられていた。時間稼ぎをしていたのは自分だけではなかった。侮っていた。問答の間、この大妖は抜け目なく、己が賢さを隠していた――目に見えぬ、正体あからさまならぬ遅効の妖術が、レキの身体を蝕んでいる。気付いても遅い。妖術の併用の為にその疾さが抑えられたか、あるいは死の淵に見る己が精神の加速の為か、風刃はレキの瞳に映り、動き続ける。

 鋭く空気を、舞う花弁を裂きながら、脳幹へと真っ直ぐに飛来する。如何にか数瞬だけでもと、瞳を揺らす。

 だから、レキはその瞳の中に視た。


 ぶわり、と花弁が燃え散った。


「――は、」

 どちらの声だったのか分からない。

 風刃が宙に失われたのを前にした悪風の物だったのか――それとも、その消失により命を取り留めたレキの物だったか。

 或いは。

 そのまま空気の中に燃え広がっていく焔を前にした二人、両方の物であったのか。

「な、」

「何だ、如何なってやがる……!」

 一息に、燃え広がってゆく。

 不可思議な炎だった――並大抵の灼け方ではない。舞い散る花弁に触れれば、そのただ一触で黒い炭すら残さない。けれど長く、長く長く、その火は残る。花弁という花弁が燃えて、土すらも、空すらも、夜すらも、その燃焼から逃れられない。

 火が。

 視界の全てを赤く、鮮やかに塗り替えてゆく。

 その時になって漸くレキは、気が付いた。

「どうして、妖力が――」

「火鼠の『皮衣』じゃなかったのか!? 如何なってる、手前まさか、三百年も経って――」

 これは、霊力ではない。

 この場を支配しているのは、この火を、炎を司るのは、霊宝『火鼠の皮衣』では、決してない。

 妖力。

 それを放つ者の呼び名は、既に定められていて。

「如何して、手前が生きてやがる――」

 その火の主の名を。

 こんな風に、悪風は呼んだ。


「――『花精』にぶち殺されたんじゃなかったのか、『火鼠』!!」

 そして独りの女が、其処には立っていた。


 炎の中に、ただ独り。

 レキに背を向けて。悪風との間に立つ様にして。元は何色だったのだろう、炭と灰に黒くした長い髪を、燃え盛る火の中に、赤く照らされて。

「…………何が如何なってんだか、知らねえけどよ」

 ぽつり、彼女は。

 低い声で、唸る様に呟いた。

「あたしは今、酷く腹が立ってる――其処にお前がいた。風の。あれから何年が経った?」

「――ッ」

「逃げられるわきゃねえだろ」

 ぐわ、と火の壁が、辺りを囲む様に広がった。

 更に空に蓋をする様に火は上る――最早レキの目には、悪風が何処に居るのかも分からない。逃亡を図ったのだろう、分かりやすい擬人の像は綻んで捉えられない。代わりにレキの瞳の中には、炎ばかりが揺らめいている。息は絶え絶え、溺れた様に頭は働かず、ただこの『火の女』の声だけが、夢際の啓示の様に響いている。

「ま、待てよ火鼠。あれは花精が――」

「んなこたあ如何だっていいんだよ。大事なのは、あの時お前が『月』だの『鳥』だのと連れ立ってあたしを陥れた事――そんでトドメを刺しもしねえで、恩讐そのまま蘇らせて、挙句の果てにあたしの前にノコノコ姿を現した事……如何なるかなんて、覚悟の上に決まってるよな」

「花精は死んだ!!」

 ぴたり、と『火の女』の動きが止まる。

「……あ?」

「死んだんだよ! あいつ、国を建てたらオレ等を平気で追い出して――」

「お前の都合なんざ訊いてねえよ。もっぺん言ってみろ。誰が、何したって?」

 だから、と焦った様な声で、悪風が、

「花精は死んだんだ、つってんだよ」

「…………」

「今は『月』と『鳥』と組んで、オレ等で国獲りを――」

「――もう、いい。喋んな」

 如何でもいい、と。

 低く低く、『火の女』は呟いた。

「待てよ。あの時は花精に唆されて――」

「もう一回言ってやろうか? お前の都合なんざ訊いてねえよ」

 俯いて、前髪を垂らして、瞳に影を差す様に。

 炎は炙る様に、燻る様に、その毛先をじりじりと揺らしている――それは全く『火の女』の意思その物を表している様で。

「火、鼠……」

 当てられて、譫言の様にレキがその名を呟けば。

 その時初めて、女が此方を振り向いた。

「おい」

 美しい女だった。

 ぼんやりした意識の中でそんな事を感じて、レキは自分を不思議に思う。いつもだったら、どんな顔立ちだって何も思わない。何を見てそう思ったのだろう。如何して今、そんな関係のない事を考えたのだろう。思考が茫洋として、纏まりが付かなくて――、

「一応訊いとく。此奴はぶち殺す。いいな?」

「な――待てよ! 話を……!」

 こくり、とレキは頷いて返す。

 ん、と短く一言、火鼠も返して。

「落ち着けって……もう三百年も前の事だろ!」

「あたしにとっちゃ昨日の事だ」

「オレだけじゃないぞ! 『月』も『鳥』も、お前に負けず劣らずの大妖に――」

「良い知らせだ。弱い者虐めは嫌いでね」

 ぱちぱちと、全ての物が燃えている。

 地も、空も……そして花も。あれだけこの場所に咲き誇っていた桜の樹も、今は半ばが燃え散って。

 風が、轟々と吹き荒れている。

 その燃え盛る炎を消さんとして、何処か遠くの場所へと追い遣らんとして――けれどそれは叶わず、故に、彼我の力の差は明らかで。

 だから最後は、悪風もまた、先程までのレキと同じ場所に追い詰められたのだと思う。

「う、うぉおおおおおおおおお!!!」

 地が、引っ繰り返る様な大風だった。

 この山ごと何処かへ運び去ろうとしているかの様な――そして実際に、如何ばかりかそれに敵う程の嵐が、其処に吹き渡った。

 妖力の奔流――捨て身。それが一斉に、ある一点へと向かい行く。

 その一点には二本の指を立てた、独りの妖が居て。

 彼女はこんな風に、術を唱えた。


「――――〈花鳥風月、一切灰燼〉」


 風が、燃え果てて行く。

 それ以外に、表現のしようがない。

「あ、あああああああ……!」

 火が、炎が、天まで焼き尽くさんとばかりに燃え盛る。すると先程まであれだけの力を持っていたはずの大風が、指に触れた灰の崩れる様に、何処かへと消え去って行く。燃えて、灰になって、消えてゆく。

 桜の樹も、同じくして。

 ただ無情なばかりに――形有る物も無き物も、変わらず消え失せると示すかの様に、全てが灰燼と化していく。

「許さ、ねえ、必ず仕、留めて――」

「分け身の分際で往生際が悪いんだよ。とっとと往ね」

「お、ぉおおおおおお……!」

 断末魔すらも燃え果てて。

 ぱちぱちと、山の燃える音だけが響いていた。月も無く、風も無く、鳥の啼く声も聞こえなければ、花はただ灼け落ちるのみ。あの恐るべき、禍々しき妖力は影も形も無くなって。

 火の夢の中に残されたのは、たったの二人。

 即ち。

「――術士。あんた、名は?」

 燃え盛る炎の中で問い掛けた、大妖と。

「…………レ、き」

 燃え盛る炎に答えた、少女。

 意識が薄れてゆくのは、血を失い過ぎたからか、霊力を使い果たしたからか、はたまたそれとも、燃え盛る火に当てられたものか――最早レキは、それを知る事も能わない。ただぐらりと揺れて、とす、と土の上に崩れ落ちる。

 最後に聞こえたのは。

 たったこれだけの、言葉だった。


「そうかい。ま、何かの縁だ。面倒見てやるよ。

 ――――こんな惨めな、死体で良ければな」


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