二の二 帳を開く



「はあ、あっ……」

 足も碌に上がらないまま、村の真中の道を突っ切って、レキは走っていた。

 方角は、おおよその所しか定まっていない。あの寝所から見えていた道の向こう。田畑を突っ切って、森へ、低山へと抜けて、その先。

 桜の樹が在る、と教えられた場所。

 考えてみれば、それでぴったりと辻褄は合ってしまうのだ。

 これ程の……己を歯牙にもかけぬ程の大妖が、この辺境に現れた理由。飢えているのではない。肉を追う素振りがない。であるなら、後は何を目的と見る事が出来るか。それが、つまり。

「渡す、訳には……」

 火鼠の皮衣。

 五つの霊宝の内の一。この花城国を守る結界の、要石。

 それがどれだけ妖にとって重要なものであるのか。レキは残念ながら、はっきりとは理解しかねる。しかし霊力と妖力に本質的な違いはなく、術に長けた者であれば容易く転化出来るとは、あの南前シオウがかつて言った事だ。ならば、と悪い想像も容易に浮かぶ。

 強大な霊力を宿したそれを。

 我が物にせんとして、この大妖は現れたのではないか、と。

「げほっ、が――」

 もはや吐き飛ばすだけの血も、気力も残っていない。ただ喉を裂くだけの空咳。こんなに血潮が温かったとは――それを失った身体がこれほど冷たい物とは、知らずにいた。

 それでもレキは、なお進むのだ。

 探さねばならない――この手に、収めなければならない。

 もしもこの大妖が、火鼠の皮衣を得る事で大きな謀をするつもりなのであれば。ただでさえ国落としの力を持つ大妖に、そんな物が渡ってしまえば。

 手の施し様が無くなる。己だけでは無い。花城国の術士をどれだけ動員しても決して討ち取る事叶わぬ、途方も無い怪異と化すかもしれないのだ。何とか此処で、それだけは阻止しなければならない。

 けれど……月明かりの儚い光を頼りにも夜山は暗く、まして未だその在処の目星も碌に付いていないとなれば、その望みは薄い物と思われて。

 ばちん、と眉間の裏で一本、管が弾けた様な音がした。

「ま、」

 咄嗟に跳んだ。

 次に起きた事は、目で捉えるには暗すぎて、また、速すぎた。

 レキの履物の裏――僅かに地と離れたその底を、削る様にして何かが通り過ぎていった。視界にある木の陰が、上と下とに二つに分かれた。ぱん、と耳の奥がはたかれた様に痛んだ。

「――きひ、きいひひひいひひひひいひ」

 そして、突風が。

 轟、と山の全てを揺らす様にして、吹き荒れた。

「結界、を――」

 それで、分かった。

 結界を、妖が抜けて来たのだ。

 全てではない。大妖の全てが、この場所まで抜けてきた訳では決してない――そうであったなら、今の一瞬で己の命は無くなっている。分け身。未だ結界の中に囚われた大妖は、それでも強大な妖力の一部を切り離し、式神が如く此方に放ってきた。

 一瞬の攻め手を見れば、その力の類も知れた。

 風を操る妖――言うなれば、『悪風』。

「ひひ、ひいきいいいうぅおおおおおおおおおおおお」

「く――」

 葉が風に擦れて、叫びの様に鳴っていた。流れは砂を巻き上げて空へ。形なき洞穴に音が通って、巨大で虚ろな獣の如き咆哮が、夜を裂く。

 姿は見えない――けれど、対峙している。

 樹々の裏々。流れる様に希薄で、しかし鋭い。

 悪風が今、レキに刃を向けていた。

「ひぃいあああっ!」

「――ッ!」

 転がり込んだ。

 己の身体にまだこれほどの力が残っていた事に、自ら驚かざるを得ない――或いは文字通りの風前の灯火か。通り過ぎて行った風刃は背中の皮を一枚裂いて行くに留まって、更なる追撃はない。行き過ぎた道を戻る様に、バキバキと、樹々を薙ぎ倒して旋回する音が響く。

「――そうか、」

 それで、二つの事に気が付いた。

 一つは、この妖が己の力を制御出来ていない事。分け身で在る為に、力の使い方が粗い。だからレキには、後先も考えずに転がした身体を立ち上げて、再びの突進に備えるだけの猶予が与えられている。

 もう一つは。

「ひゃおおっ!!」

「ふ――」

 もっと決定的で、勝算までをも照らす物。

 ほんの僅か。損ねれば半身を引き千切られても不思議の無い、一寸の見切り。それで以てレキは風を引き付けて、右の足を半分引いて、

「――――〈導導、失せ霊、帳を開く〉」

 二本の指を、屹と立てて。

 その気付きに賭けて、その呪文を唱える。

「ひ、き、ききいぃいいいいいいいきききき!」

「――此方だ!」

 駆け出した。

 至極単純な理屈である――この悪風は、自分よりも遥かに速く動く。大部分を結界に閉じ込めてこそいるが、分け身を用いる事で或る程度自由に活動する事も出来る。

 だというのに、何故こんな脆弱な人間を捨て置かず、執拗に襲い来るのか。

 換言して、何故自分を置き去って、目的であろう霊宝の在処まで、一直線に向かわずにいるのか。

 答えは単純。

 この妖もまた、霊宝の在処を知らないのだ。

 風の妖が、己の速さを以てしても辿り着けない場所――それは、霊術を用いて隠された場所に他ならない。

 更には秘匿破りの呪文を唱えた途端、目の前に現れた道を行けば。

 それが正しかった、と知る事も出来る。

「は、は――」

「ひひ、ひひいひ、逃げろ、逃げろ――!」

 めりめりと、村に残した結界は綻びつつあった。

 分け身は力を増し、狡猾さもまた同じくして、人の言葉を操り出す。こうして己の背を追い掛ける時間すらも、ほんの束の間の事だろう。本体が解き放たれれば、辺境の低き山など更地と変えて、力尽くに霊宝を探し出してしまうに違いない。そう思うから、レキは。

 走る。駆ける。枝を、樹々を、草を折り。皮を、肉を抉られて。夜露に傷を晒されて。しかしそれでも果たすべき務めのために、一心に。

 風に荒れ散る山野を抜けて。

 最善の全てを尽くして、懸命の思いで、漸く。


「あ――、」

 その桜の樹の下に、辿り着いた。


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