ニの一 新手



 ぱしゃ、と水を撒いた様な音がした。

 床に撒き散らされた真っ赤なそれは、それでも月明りに照らされれば青白く映る――まるで、昼に討ち取った蜘蛛のそれの様に。

「な、」

 何が、と。

 言葉にするよりも先に、考えるよりも先に、口から、鼻から、その血液が昇って来るよりも先に――答えは、出た。

 結界が、攻撃されている。

 しかも術だけではとても抑え切れず、その仕手である己までもがこうして痛みに貫かれる程の烈しさで。

「――――ッ」

「わえっ」

 ダンダン、と大きく音を立てて、レキは床を踏み鳴らした。

 目の前の子が驚いた様に、怯えた様に身を飛び上がらせる――吐血を見せない様、服の袖で口元を隠す。まだ誰も部屋に来ない。だからもう二度三度、床を踏む。痛みに耐えながら壁まで動く。壁を叩く。どたどた、とそれから漸く、足音が駆け付けてくる。

「おまっ、こっちには行くなってあれだけ……術士様、済みま――」

「ちょっと! 如何したのそれ!」

 二人分。

 一人は村長の男。彼はまず己の子を抱き寄せて、それから絶句して。

 もう一人はその妻の女。彼女は酷く慌てて、ただ一人の、己より年若い少女を気遣う様に近付いて来る。

「避難、して」

 けれど、それを願ってレキは彼らを呼んだ訳ではないのだ。

 溺れた様に、声は濁っている。はあ、と息を継ぐ音にすら血臭が混じっている。涼やかな春の夜に彼女だけが凄惨で、その凄惨が風に乗って、この家と村に滲む様に広がり始めている。

 それを抑え込む為に、彼女は声を紡ぐのだ。

「妖、です。新手の」

「あ……出戻りってのですかい!? 今日の今日で!」

 動揺する男に、しかしレキはそれを和らげるだけの、適切な言葉選びは出来そうにない。ただ首を小さく横に振って、言える事だけを簡潔に、

「蜘蛛とは、格が……。大妖、私じゃ、無理……」

「んな――」

 ごぼっ、と咳き込んだ。

 それと一緒に、またもぴしゃりと血が飛んだ。

 ぜえぜえと呼吸が乱れる。痛い――と言葉にする事で余裕が生まれるならば、何度でもしただろう。身を切る様な烈しさ。全身の生皮を剥がれて、強い風に吹き付けられている様な――。

「村の人を集めて、森とは逆へ……。陳情に、『国落とし』と――」

「わ、分かった! 全員叩き起こして今直ぐに村を出る!」

「ちょっと、それじゃ術士様はどうすんのさ!」

 男が言うのに、頷いて。

 女が言うのに、レキは。

「留まり、ます」

「なっ――」

 首を横に振った。

 あまり多くを語りたくはない――体力に余裕がない。口中から溢れる血を、袖に吸わせて、

「時を、稼ぎます。保って一晩。出来るだけ、遠くに」

「そんな! 一晩じゃ、城からの応援だって――」

 いいから、と。

 後はダン、ともう一度、壁を叩いて促すだけ。

 なおも女は言い募ろうとした――が、その肩を男が掴む。何も言わずに、目線だけが通う。それで、後は村長の家として何をやるべきなのかを決めたのだろう。お互いに一言だけを残して、子を抱えるとその場を慌ただしく後にして行った。

 恩に着る、と。

 御無事で、の一言ずつを。

「…………っ」

 助かった、の一言も口にする余裕も無いままで。

 ずるずると、レキは壁に寄り掛かる様に――或いは縋り付く様にして、地べたに伏して行った。

 残るの残らないの、そんなやり取りを長々とやる余裕は無かった。

 蜘蛛妖を討つより先に、こうした事態の想定についてしっかりと話し合っていたのが良かったのだと思う。お陰であの二人は自分たちの役割を自覚して、直ぐさま行動に移ってくれた。

 これだけで、随分気が楽になった。

 壁に背を預ける。出来るだけ身体から力を抜きたくて、少しだけ座り直す。何処が傷付いているのだろう、その背を少し伸ばしただけで強い痛みが走る。表情が歪む。思わず目を閉じて、すると村中を人々が駆け回り、どんどんと戸を叩いて未だ眠る者共を起こして回る音が、耳に届いてくる。

 そしてその他は、何の音も無い。

 春虫の、蛙の、一つ残らず死んでしまった様な、不気味な沈黙だった。

「……何故……」

 こんな所に、と。

 次にはレキは、考え始めている。

 まず以て、恐るべき妖力である――結界は簡易。けれど己の霊力を以てすれば、大抵の妖は忌避して遠回る、その程度の物は敷けている筈だった。まさかたかが一触でこれだけの傷を負うとは、負わせる様な相手が何の前触れもなく現れるとは、思いもしなかった。

 大妖、と。

 国落とし、と。

 先程村長に伝えたのは、何らの誇張もなく、感じるところをそのまま表した言葉だ。大いなる妖。結界の内に引き込んですら未だその明確な像を捉えられぬ、恐るべき化生。己の力ではとても討ち取れはしまい。そして或いは、国の術士の総力を挙げねば……少なくとも術士の長である南前シオウの力が無ければ、誰にも止められない。

 国一つを、落としてしまいかねない大妖怪。

 まさかこんな所で出会うとは、と。

「術士様!」

 思っていれば、声がした。

 まさかもう家の中から響いてきたものではない――ただ、村の何処かから。大声だったけれど、それでも万一にも聞き逃さぬ様にと、レキは億劫な身体を如何にか引き起こした。窓の格子に手をかけて、耳を澄ます。

「人は皆揃えた! 言われた通りに全員逃がすぜ! 後は心配すんな!」

 よし、と小さく零した。

 それから、ぐ、と格子を握る力を強くして、結界を締め付ける。声に反応して妖の力が烈しくなった――が、初めの不意討ちに耐えてしまえば、後は多少の構えも出来る。拮抗と呼ぶには烏滸がましくとも、しかしそう易々と力負けしない程度に押し返す。

 未だ、伝わってくるのは妖力ばかりで、妖その物の姿は捉えられない。

 けれどこうして結界に絡め取っている間は、他に何をする事も出来ない筈だから。

「必ず助けを連れて戻ってくるからね! 死ぬんじゃないよ!」

「…………」

 女の叫ぶのを聞きながら。

 そして足音のぞろぞろと連れ立って遠ざかって行くのを聞きながら……レキは、安堵の息を吐いた。

 目的の第一は、これで達した。

 幾らか妖力の起伏があった――それをまた、此方も霊力を込めて抑え込む。力の差は明らか。だが、事前に時間を掛けて準備した分だけ此方に有利。懸念の一つが無くなって、どんどん思考は冴えてくる……それとも、近付く死の冷たさがそうさせるのか。

「…………よ、し」

 もう一度呟いたのは、逃げ行く者達を追う気配が、妖から感じられなかったからである。

 目的の第二も、これで達した。この大妖は妖力を結界の全体に引き延ばし、時折、それを破らんとして力を込めて来る。単純で効果的ではあるが、しかしそれは逃げ出した者への執着を感じさせる手管ではなかった。断言できる物ではないが、それでも己の死の後、逃げた者達に危害が及ぶ可能性は低いと見える。

 であれば、後は時間の問題だった。南前シオウにまで報告が行けば、彼が自分の言葉を信じたならば、討伐隊が組まれて此処に送られて来る事だろう。何せ城には丁度良く、国中の術士が集結しているのだ。出立の前にああは言っていたが、序列やら貸し借りやらで頭を悩ます事はあれど、いざとなって手の弱さに歯嚙みする様な事は起こるまい。

 そう思えば。

 後はこの僅かばかりの命、神妙に受け入れようと。

「ごほっ、げっ――」

 血咳を吐く。

 胸を押さえて、だからその時、くしゃり、と音がした。

 何の音、と記憶を探るまでも無い。つい先程取って見て、それから入れ直したではないか。地図。妖退治の他の、もう一つの任務。突然の大妖の現われに果たせず終いにはなってしまったが、ああ、そうだ。その事も伝えた方がいいか。あるいはこの地図は誰にも見せぬよう、死ぬ前に焼いてしまった方がいいか――。

 その時、レキは思い当たった。

「……霊、宝」

 この唐突に現れた大妖が――しかし村の人間を襲う気配を見せもしない妖が。

 何の為に、此処に来たのか。

「奪、いに……?」

 力を込める。

 死ぬ前にもう一度立ち上がらねばならない理由を、見付けたから。


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