一の二 段取り
「お前が行け」
というのが、つい一昨日に少女が言い渡された事だった。
場は花城国が中央。まさにその名を国に冠する花の城。かつては央扇の一族が建立し、後には流れ着いた『花神』によって改築され、治められた花城国の本拠。その一室。
だだ広い畳敷きの部屋だった。
けれど落ち着いて座るは少女ばかりで、対坐する筈の長髪の男は落ち着き無く上段の間から立ち上がり、うろうろと、障子戸の枠にかつかつと爪を立てている。長身ゆえにその影は畳の上に細く伸び、しかし神経質そうな顔立ちは決してその影を見る事はない。代わりにそれは開け放たれた戸の向こう、春色の鮮やかな光に向けられていた。
「南前の主だった術士は全て、花神様の御葬儀に回す。かの方の御威光にあやかる最後の機会だ。他の一族も必ず此処には抱えの術士を回してくる。故にこの妖退治の陳情、お前が当たれ」
「は。承知しました」
間髪入れずに少女が答えれば、男の爪の先は僅か、息継ぎする様にその動きを止めた。
「訊かんのか。なぜか、と」
はあ、と。
顔を向けられる事も無いままの問い掛けに、少女は気のない声で返した。
「御葬儀は勿論、霊的儀式ですから。南前の一門が出るのは当然の事かと」
「その頭数に自分が含まれない事もか」
「はい。特段」
男は黙る。少女は気遣った様に、「まして、シオウ殿の命ですから。否とは申しません」と添え告げる。
南前シオウ。
花城国の退魔の術士を取りまとめる南前の一門――その若き当主が、少女の目の前に立つ、この男だった。
「花神様の御葬儀は、この国の術士にとっては一舞台。それに参加出来ない事にも、不服は無いか」
「特には」
「それがお前の実力如何による物ではなく、出自を考慮した物であってもか」
「最初から、そういう話だったのでは」
暫しの沈黙が在り。
独り言の様にシオウが呟く。そうだな。そうだった。……それから彼は、ようやっと少女の方に向き直って、
「花城国が術士、レキ」
彼女の名を、呼んだ。
「北片の村から陳情の有った蜘蛛妖の退治。お前に任せる。花神様の御逝去に乗じた蛮行者、花城の術士としての責任で以て、必ず討ち取れ」
「は。承りました」
「それから、もう一つ」
小さく少女が――レキが上体を傾ければ、シオウは長い歩幅でずかずかと彼女の目の前まで歩んで、ざっ、と大して音を立てるでも無く、畳の上に腰を下ろす。
それから一枚の紙切れを、彼女に広げて見せた。
「地図、ですか?」
「そうだ。退治のついでに、『霊宝』の様子も見てこい」
霊宝、とレキは口の中で、知らない言葉の様に繰り返した。
「この北片の村に、保管されているのですか」
「正確に言うなら、村の周りの森の中だ。花神様が国守結界のために四方に埋めたる霊的秘宝……お前、この辺りの話はされた事が有るか」
「国守結界の事だけは。ただ、霊宝の正確な場所までは」
それなら良い、とシオウは頷く。
「本来、霊宝の周囲は結界が最も濃くなる。しかしながらその北片の森で妖退治の陳情だ。花神様の御逝去に伴う一時的な乱れなら良いが、万一霊宝自体に問題が有れば対処の必要がある。退治のついでに、確認をして来てくれ」
「問題とは、私が見てわかるものでしょうか。あまり目には自信が……」
さてな、とシオウは、大して深刻振るでもなく返して、
「分からないなら分からないでも構わん。お前より明確に霊力が高い術士は、そう容易く動かせる物ではないのだ」
ああ、とそれでレキは、肩の力を抜いた。
「斥候ですか。私で済むなら私で済ませて――」
「済まない様であれば、誰に如何するの頭を俺が悩ます事になる。お前の見込みの通りだ」
「承知しました。そういう事であれば、一先ず此方で善処します」
これは頂いても、と訊けばシオウが頷くので、レキはその紙の墨が乾いているのを確かめてから、そっと、丁寧に丸めて膝の上に留め置いた。
「では北片の森、蜘蛛の妖退治に霊宝の確認ですね。行くのに二日、帰るのに二日。それだけで合わせて四日ですので、六日、余裕を見て七日ほど頂きます」
「構わん。細かい事はお前に任せる。どうせ俺の……」
其処で不意に、言葉は途切れて。
シオウはぴたり、と固まっている。固まったまま部屋の隅を見上げる様にしている――レキも釣られた様に、同じ方を見る。何が有る訳でも無い。天井。それから梁。酷く臆病な性質であれば、その天井板の模様の中に、人の顔の一つくらいは見つけられたかもしれないが。
「俺の方も忙しい。国の術士は御葬儀に掛かり切りで、手も口も動かせん。指図も出来ん。よってこの件はお前に一任する。要と不要を己で判断し、好きに動け」
「は。かしこまりました」
「念の為もう一度言っておく。要と不要を己で判断し、好きに動け」
「は、」
二度目の相槌は、単なる承諾のそれではない。
レキはシオウの顔を見詰めている――その復唱の真意を探る様に。如何いう意味でしょうか、と訊ねたがって。けれどシオウはただ見詰め返してくるばかりだったから、彼女は、
「承知しました。要と不要を己で判断し、好きに動きます」
同じく、復唱する事を選んだらしい。
うむ、とシオウは頷いた。するとその時丁度、部屋の外からだすだすと足音が聞こえて来る――ひょい、とレキとそれほど変わらない服装をした男が、「シオウ殿」と言って顔を覗かせる。レキの方まで目線が滑って、一瞬怯んだ様な顔をする。
「如何した。何か用か」
「東流の御当主が到着されました。御葬儀の段取りについて直接相談したい事が有る、と」
「姪の方か。面倒な細かいのが……」
「お忙しい様でしたら、一旦待って頂きますか」
「いや、いい。用事も済んだ所だ。タツセ殿は何処に居る。三階か?」
「ええ。いつもの部屋にお通ししてあります」
分かった今行く、とシオウは立ち上がる。さっ、と衣の裾を翻して、廊下の向こうに消えていく。伝言に来ていた男も、慌てた様子でその背を追って去って行く。
誰も居なくなった部屋で。
レキだけが一人、城の上部も上部、日の光を誰より近くから浴びて、白く輝きながら。受け取った地図を静かに開いて、確かめている。
其処には流れる様な字で、こんな言葉が書いてある。
『火鼠の皮衣』
❀
ぱちり、と目を覚ましたのはひょっとすると、記憶の中のその日の明かりが眩しかったからだろうか。
分からないが、とにかくレキは眠りの淵から現の岸に流れ着いた。暗い。空気の沈み様。冷たさ。湿り気。未だ夜明けは遠かろう事が分かる、些細な春の夜。もう一度目を閉じる。十を数えて、ず、と床を擦る様に彼女は起き出した。
眠くはない。
のは、恐らく昼の切った張ったの為に気が張り詰めているからであろう、と己で思う。
静かに彼女は立ち上がった。板張りの、冷たい床である。周囲には誰の姿も無い。まさか術士殿を同じ部屋に寝かせるわけには、というのが村長夫妻の言い分で、夕餉を終えるや不自然な位に何も置かれていないこの部屋に案内をされた。少しばかり漂う木屑の香り、ささくれの一つもない床を見れば、何か別の用途のあった部屋を無理矢理片付けて、客に供したのではないかと想像も付く。
「…………ん、」
ゆっくりと、レキは背伸びをしてから。
その床の上を差し足する様に、滑る様に歩き、向かって行く。窓。月明かりが手招きする様に差し込んでくる、その場所へ。昼の装いとまるで変わらず、青く色変わった術士の装束に身を包んだまま、彼女は其処に立った。
格子の枠にちょい、と手を掛けて少し押す。けれどその少しの力では開かぬと知るや、彼女は直ぐにそれを諦めた。代わりにその窓に背を預ける様にして寄り掛かり、懐から一枚の、小さく畳まれた紙を取り出す。
月光に照らされて、それは。
「……『火鼠の皮衣』か」
見た事が無い、と彼女は思っている。
けれど、聞いた事が無い、とは思わなかった。
花城国。ほんの少し前まで、『花神』と呼ばれる人ならざる者の手によって治められたいた一つの国。その国を守る為にと『花神』が施した結界。その依代。媒介。支柱。古きと遠きの神秘を宿した五つの霊的秘宝の、その内が一。
巨大な霊力を秘めている、と。
そしてそれは、とても自分如き術士の手に負えるものではないだろう、と。
その程度の事を、レキは知っている。
じっと、夜に目を凝らして地図を見ていた。それ程詳細な物ではない。村を表す三角形、家の絵図。此処に至るまでに馬で渡った二つの小川が、墨の縦に溢れた様にひょろひょろと。山と森の形に至ってはわしゃわしゃと、まるで幼子が筆を乱暴に押し付けた様にしか見えない。お世辞にも絵心がある者が描いた物とは言えない……が、小川と村の位置だけを見れば、概ねの方角程度は分かる。
レキは首を傾げながら、同じく地図も傾けていく。頭の中にある地理と、目の前のこの字ばかりが流麗で、他は半ば落書き染みたそれを、重ね合わせていく。
そして彼女の視線は、窓の外に真っ直ぐに吸い込まれて行った。
「此方、かな」
丁度だったのだ。
丁度この部屋のこの窓から見える先が、言われていた北片の森――『火鼠の皮衣』が眠るとされる場所だった。
月明かりの眩しい夜である。
だから、視線の先まで、明るく照らされて見えた。
家々が数軒並んでいる。道が細く続いて行く。田植えの前の土地が青白く広がって、其処から先は森の中。歩いてみればそれ程の起伏も感じなかったあの低山は、しかし夜の底を下から支える様で、殆どは影を張り付けた様に黒く、暗い。レキと同じく現の岸に乗り上げた鳥がいたのだろうか、影から一羽が飛び立って、月に照らされた夜空の高くに背を残す。そしてそれも、遠くに消えて行く。
浅く息をする。
木屑の匂いに混じって、風に導かれて来たのだろうか、少しだけ春の花の香りがした。
「……考えても、仕方無いか」
何にせよ明日だ、と。
眠気が無いからと言って眠らずに動いていては、何時までも休む事は出来ない。用事を済ませれば直ぐさま馬に乗って、城に戻るつもりでいるのだ。徒に気力体力を目減りさせる事は、決して己を楽にはしない。何らその気が無かったとしても床に就き、目を瞑っているべきであろう――彼女は再び紙を畳む。懐にしまい直す。
窓から離れて、ゆっくりと床に腰を下ろす。
其処で、
「んえ、」
と、声がした。
見れば、戸が開いていた。声の主が其処に立っていた。小さい。座り込んだレキと変わらぬ程度の背丈しかない。幼子。夕餉の頃にはもうすっかり寝こけてしまっていた、村長夫妻の子。目を擦りながら彼女は、きょろきょろと辺りを見回している。
「あれ、」
そう言って首を傾げるから、レキにも分かった。
「此方の部屋じゃないよ」
「ん……?」
ああ、寝ぼけているのだ、と。
そもそも幼子というのがそういう物なのか……つまり寝ぼけてはふらふらと徘徊する生き物なのか。或いは自分を泊めた事で寝床が変わって混乱しているのか。何れかは分からないが、其処まで分かれば寝床まで導く位の事は出来る。
もう一度、レキは立ち上がった。少しずつ目を大きく開き始めた幼子に近寄るべく、一歩を踏み出して、
「ほら、」
一緒に、と続けようと、息を吸い込んで。
ごぽり、と前触れもなく、血を吐いた。
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