桜の樹の下には死体が埋まっててラッキー

quiet

一の一 務め



 蜘蛛の血は青く、だから少女は真っ青に濡れて、その森から再び姿を現した。

「お――」

「ただいま戻りました。陳情のあった蜘蛛妖、この手で討ち取りましたので」

 証としてこれを、と。

 言って彼女が掲げたのは、その右の腕に抱えた蜘蛛の脚――半ばの辺りで断ち切られ、しかしそれでもその少女の上の半身よりは少しばかり、と見える程の大きさのそれだった。

 春草の匂いのきっぱりと濃い、昼の下がりの事である。

 少女が立っているのは小さな村の外れ。森の深きから離れた里山の、さらにその縁。振り向けば再び森へと分けて入り行く、獣道と呼ぶには踏み慣らされ過ぎた道が見える。振り向かなければそのまま、とてもやがては都に通ずるとは思われぬ寂れた村道と、茅葺の屋根々々――そして薄らと橙色の気配を滲ませ始めた春空が見える。

 少女に向き合って立っているのは、壮年の、髭面の男である。

 わなわなと男は、何か目に見えない物に触れようとする様に両の手を宙に漂わせる。それから何度も視線を行き来させる。

 少女の真っ青に濡れた、しかしそれに不釣り合いな微笑みと。

 その手に握られて真っ青を未だ滴らせる、蜘蛛の亡骸の一部との間で、何度も。

「ほ、本当に?」

「はい。丸ごと担いで此処まで戻って来るのは難しかったので、この通り一部だけですが。不安なら、明日の朝にでも山に入りますか。何人か手を借りれば、丸ごと持ち帰る事も出来ると思います」

「う、疑うなんてとんでもねえ! 有り難うございます、有り難うございます……」

「いえ、務めですから。……あの、すみません」

「は、はい?」

「幾らか、井戸の水を頂いても良いですか」

 少し生臭くて、と少女は身体を捻って己の身体を見下ろす。元の色も全く分からない程に青い血に塗れた衣服。肌。

 対峙した男は、暫しその意味する所を理解するのに間を空けてから、

「ええ、ええ!」

 しかし、理解してからは勢い込んで。

「幾らでもお使いくだせえ。井戸の場所まで案内を……」

「いえ。場所は大体分かっていますので、お構いなく。それより討伐の事を皆さんに伝えてあげて下さい。気が気でない様でしたし」

 こくこく、と童子の様に男――村長は頷くや、踵を返して村道を駆けて行く。

 その背が遠ざかって行くのに少女は手を振って、見えなくなれば、ふっ、と息を吐いて、肩の力も抜く。それからゆっくり、ざっ、ざっ、と履物の裏を擦る様にして、その頭の位置にも体軸にも僅かばかりの乱れも許さぬ見事な歩法で、男の行った道を追う様に歩いて行く。

 その足が、ひた、と止まった。

「…………」

 少女が覗き込んだのは、まさにその足元。己の今踏んでいる、地面の事。

 右の足を、手前に引いた。左の足を同じく微かに上げて、ぱたり、手前に下ろした。

 すると、見える。

 幾度も幾度も箒で掃き直されたかの様に、へこんだ土。その上にほんのひっそりと残る砂埃。

 顔を上げて、振り向けば。

 おおよそその立ち位置が、先程まで村長の居た場所だとも知れて。

 暫し、少女はそのまま立ち止まり続けた。森の奥へ視線を向けたまま――その奥に今は眠る、己の手で討ち果たした妖の事を考えているのか。それともその間此処で不安に耐えながら、土を均す程に足踏みを続けた村長の事を思っているのか。

 判然としない、無垢とも純朴とも、しかし冷静とも取れる表情のまま。不意に彼女は、右の手を挙げて。

 がぶり、と。

 その蜘蛛の脚に、噛り付く。

「…………不味」

 ようやっと彼女が動き出したのは、渋い顔のままその口に入れた肉を咀嚼して、嚥下し切って、小さく舌を出してからの事だった。



「よく入るなあ、術士様」

「大丈夫? お腹、はち切れちゃったりしませんか?」

「ははは……。すみません、大飯食らいで……」

 水を浴びて、幾つかの所用を済ませれば直ぐに夜が来た。

 りいりいと春虫が、があがあと田蛙の鳴く声が、家の中まで聞こえている。囲炉裏からは煙が細く、天井まで立ち上る。それを囲んでいるのは三人。一人は、椀に山の様に盛られた雑炊にざくざくと匙を切り込む少女。もう一人は先程少女と森の外れで再会した髭面の男――村長。そしてもう一人がその妻で、二人は感心半分、心配半分といった表情で、少女を覗き込んでいた。

 青血を拭った少女は、思いのほか清げな居住まいをしている。

 そう見せているのが簡素に結われた髪か、ぴんと張られた背筋か、あるいは明るげな顔立ちか、それとも村民等よりは余程しっかりとした生地の衣服によってなのか。判然としない程度には彼女は自然に、そうした居住まいを身に纏っていた。

「いや。だけどそんな細腕であんなおっそろしい妖を一刀両断だ。その位食っても不思議じゃねえよ。『花神』様のお陰で食い物には困ってねえんだ。幾らでもたらふく食ってくれ」

「あんた、そんな恩着せがましく言って。蔵が壊される前に駆け付けてくれなかったら、その食い物だって無くなってたでしょうが。……それより術士様。失礼かもしれませんが、そのお着物、そのままでも?」

「着物? ……ああ」

 言われて少女は、自らの右手を少し上げて、つ、と袖に目線を滑らせる。

 蜘蛛の血を浴びて、青い色に染まったそれに。

「一応乾かしたので、其処らに色移りはしないと思うんですが。済みません。気になりますか」

「いえ、私等は構わないんですけどね。ただ、洗いが足りなかったなら、貸して頂ければ明日の朝までには出来る限り色落としをしておきますよ。粗末で申し訳ないけど、寝て起きるだけなら、私の着物でも間に合うでしょうし」

「おお、そうだな。城には大手を振って戻るんだから、それで締りの無え恰好をしてたんじゃ――あだっ」

「あんたね。物には言い方ってもんが有んの。田舎者には分かんないかもしんないけどね」

 なんでえ、と村長は口を尖らせるが、どうも悪い気はしていないらしい。

 二人の間にある親密そうな空気――少女はその中に視線を遊ばせる様にしながら、着物の下、手の甲までを覆う黒い襦袢の先、伸びる細い指先で汁物の椀を包み込む。口元を隠す。

 下ろす。すると言い合いは一通り終わった様子で、少女は、

「いえ、このままで。妖の血で染まったものですから。これはこれで、価値が有るんです」

「あら。そうなの」

「はい。妖を斬ればただの鈍らが霊刀・妖刀に化ける事も有りますし……。これが霊衣にまで成っているかは、私には分からないんですが」

 もしそうであれば御当主がお使いになるかもしれませんし、と告げれば、ははあ、と対する二人は感じ入ったやら、呆然とするやら、入り混じった声を上げて、

「御当主ってえと……退魔の」

「南前様ですか?」

「ええ。花城国の術士の仕切りは南前の一門ですから。私も、形としては其処に」

「てことは、取られちまうんですか。その……ええと、霊衣、でしたっけ」

「価値が認められれば、まあ」

「何だい、そりゃあ」

「ちょっと、あんた」

「だってよう、おかしいだろう。退治してくれたのはこの術士様なのに、手柄は別の――」

 奴が、と言ったあたりで。

 村長は、目の前にいるのが如何いう人物で、『奴』と如何いう関係にあるのか、という事に思い至ったらしい。凍り付いた様な表情で、恐る恐ると口を開きかけたり、閉じかけたりして、

「お、おかしいだろう。俺達が危ないって駆け付けてくれたのも、正面切って妖に挑んでくれたのも、討ち取ってくれたのも、全部あんたなのに……」

 結局、言い切ってしまう。

 言い切った本人は夜の火明かりだけでも分かるくらいにはっきりと脂汗をかいていて、隣では頭を抱えている。

「はは……お気になさらず。務めですから」

 けれどそれを意にも介さない様に、あるいは少し困った様に、少女は、

「その日を満足に食べていくだけの払いは貰っています。後の事は、私は大して気になりません」

 さらり、と何処か他人事の様に言ってのけるものだから。

「……ははあ」

「お若いのに達観してらっしゃるねえ。術士様は」

「達観……。はは、あまり言われ慣れませんね」

 どの様に反応を返してよいか迷ったのだろう。暫く動いていたのは少女の匙だけだった。

 やがて村長が、恐る恐る「呑みやすか」とどぶろくを差し出す。「いえ、明日も早いですから」と少女は固辞する。会話が再び頻りになるのは、それが糸口になってから漸くの事。

「そうですよねえ。今頃お城では『花神』様の御葬儀ですから。南前様の所なんかは特にお役目でお忙しいでしょうし。本当に、重ね重ね済みません。こんな時に、うちみたいな小さな村までわざわざ……」

「いや、本当に。こればっかりは本当に」

 かたじけねえ、と何度目だろう。男が居住まいを正そうとするのを、そしてまた地を舐める様な勢いで頭を下げようとするのを、いえいえ、と少女は慌てた様に両手を振って制した。

「元々、私は御葬儀に関われる様な位の者ではないんです。忙しいのは南前殿とその一門、それから各地の……お歴々で。朝が早いのはその為ではなく、単純に此処を発つ前に確かめておきたい事が有るからです」

「確かめておきたい事……?」

 はい、と少女は頷いて。

 そうか今の内に訊いておけば良いのか、と独り言の様に呟いてから、

「この辺りに、大きな桜の樹はありませんか」

 訊けば、訊かれた二人は顔を見合わせて、

「桜の……」

「なあ。花神様が亡くなられた頃に……」

「枯れてしまいましたか」

 少女が言えば、大して迷いも無く首を縦に振った。

「ええ。この辺りのは大体。他の所も、特に桜はそうだって聞きますけど」

「山の奥にはまだ残ってるのも在るかもしれねえけど。何分あの妖が出てからは、山入りもとんと……。調べるなら、若いのを集めてお手伝いしやすが」

 申し出を、其処までは、と控えめに少女は断って、

「妖退治の他に、別の務めを言い渡されているんです。その目印が桜の樹だそうで。御存知ないなら、それはそれで構いません。明日、妖の出戻りが無いかの確認も兼ねて、山に入って自分で確かめてみます」

「出戻り……?」

「ええ。戻り蜂の様な……御存知ですか。巣を壊された蜂が一時逃げて、また戻って来る」

 ああ、と二人が頷くのに、少女も頷いた。

「それです。大物は討伐しましたし、一応結界も新しく張ってはおきましたが、念の為」

「あら、じゃあさっき村を回られていたのも……」

「結界の下拵えです。明日の確認が済めばまずもう討ち洩らしは無いと思いますが、もしまだ妖を見る様なら、その際はまた御陳情を。術士が到着するまでの時間稼ぎ位は、私の張った結界でも十分に足りると思いますので」

 あの蜘蛛位の話ですが、と謙遜する様に付け足せば。

 とうとう村長の夫妻は口を閉じられなくなっている。少女が淡々と椀を持ち、水を吸って太った雑穀に匙を入れる姿を見ながら、恐る恐るに、その閉じられなくなった口で、

「ひょっとして……術士様は、御高名な方で?」

「あんな恐ろしい蜘蛛の妖も、ちょいっと取っ払っちまって……」

 言うが、いえ、と少女はその問い掛けに正面から取り合うでもなかった。

「大した事は。結界は意外に単純な術ですし、術比べは守勢が有利なんです。私は術に関しては、何方かと言えば下手な方だと思いますよ。それこそ御高名な方々と比べては勿論、南前の一門の方々と比べても」

 からり、と匙を椀に置く。それからは、生温くなった汁物を両手で取って、少しずつ、啜る様にして。

「取り敢えず私の明日の予定は、山に入って、出て、城に戻る。そんな所です。もし何か他に気になる事があれば、気軽にお申し付け下さい。今更急ぐ事も有りませんし」

「あ、ああ。それはもう、ありがたく。……なんかあったか?」

 男が女に目配せをする。女は少しだけ考え込んで、「今の所は有りませんが、もし何か思い付きましたら、ぜひ御相談させて下さい」と言う。

「はい。ではその様に。皆さんの方が朝は早いでしょうから、上手く捕まえて下さい。出立の前に一応、こちらから一言挨拶させて貰うつもりでもいますが」

「ええ、よろしくお願いします」

「あいすいません。……ところで術士様はやっぱり、夜に掛けて起きるんですか」

「何を訊いてんだい、あんた」

「だってよう、こんな事でもなけりゃ術士様から話なんて聞けねえだろう。しかもこんな高名な方に」

 高名では、と少女が言う。それに殆ど被さる様に、女は少女の手元を見て「もうお椀が空っぽ」と呟いた。

「よそいますね」

「あ、いえ。もう本当に。何だかんだともう三杯も……」

「遠慮しねえでくれよ。折角村を助けてくれた城の術士様を空きっ腹で返すなんて、村の奴らに後から責められちまうぜ」

「あんた、言い方」

「……では、済みません。お言葉に甘えまして」

 はいはい、と女が嬉しそうに膝立ちになる。一歩踏み出して、少女の手から空の器を受け取って、その時、

「あら、」

 そう言って、何かまた別の物に気付いたらしく、まじまじと少女を見た。

 見詰められた彼女は心当たりが無いらしい。女の方にゆるりと視線を向ける。自然、顔が動く。髪が揺れる。

「あ、」

 それで、男の方も気付いたらしい。

「術士様、御髪が……」

「髪?」

 ええ、と女が頷く。火で変に見えてるのかと思ってたけど、と不思議そうな目で少女を見詰める。

「御髪まで、青くなっていますよ」

 言われて少女は、己の髪先を指に取って、顔の前に。

 それから小さく、「本当だ」と呟いた。


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