第53話 薫陶⑱

舞台に二人の男が立ち、何ごとかを談じていた。


『その気にならないのなら、おやめなさい。みながこちらに来るのをとどめて、殿下のお具合が悪いと伝えてきます』


そう言って、気遣わし気に見つめる黒服の男のことを、向かい合っている背の高い男が毅然とした態度ではねのけた。


『やめてくれ。縁起担ぎは、なしだ。雀一羽落ちるのにも神の摂理がある。無常の風は、いずれ吹く。今吹くなら、あとでは吹かぬ。あとで吹かぬのなら、今吹く。今でなくとも、いずれは吹く』


背の高い男は、そこで言葉を切るとふうっと息を吸い込み、客席にその力強い光を宿した目を向けた。


『覚悟がすべてだ』


美墨の隣に座った、黒髪の男が微かに息を呑む音がした。


『生き残した人生など誰にもわからぬのだから、早めに消えたところでどうということはない。なるようになればよい』


美墨は面白そうにふうんと、口の端を上げた。


と、その時、劇場内にラッパと太鼓の演奏が鳴り響いた。


舞台袖から、まずは物々しい雰囲気の武官たちが出て来る。

ほんのすこし間を置いてから、異国の王族の衣装に身を包み、頭上には冠を載せた男と女が一人ずつ、豪奢な衣をはためかせながら登場した。

その後には一人の剣士と、宮仕えの者や従者たちが続く。


載冠した初老の男は、劇中で舞台となっている国の王だ。

さて、ここから本格的にこの男が画策した暗殺計画の幕開きである。

王は剣士を連れて、背の高い男の前まで来るとその名を呼び、そして命じた。


『さあ、ハムレット、さあ、この手をとれ』


暗く血生臭いたくらみを抱く者が二人の若者の間に入ると、ハムレットの手と剣士の手を結ばせる。


ハムレットは眉根に皴を寄せて、悲痛な面持ちで口を開いた。


『許してくれ。君には悪いことをした。しかし、男らしく許してくれ。ここにいるみなも知っているように、そして君も聞き及んでいるだろうが、私はひどい精神錯乱に悩まされている。私がしたことで、君の心も名誉も傷つき、嫌な思いをしたかもしれぬが』


ハムレットは苦し気に、その後の言葉を絞り出した。


『それはみな狂気のため』


狂気。

美墨は、そっと口の中で繰り返した。


『レアティーズにひどいことをしたのはハムレットか。決してハムレットではない。ハムレットが自分を失い、我を忘れてレアティーズにひどいことをしたのなら、それはハムレットの仕業ではない。ハムレットは否定する』


ハムレットは目の前の、互いの右手で握り合い、繋がり合う剣士・レアティーズに、さながら神に赦しを乞うかのような切なる眼差しを向けながら、その左手を彼の右手に沿わせた。


『では誰の仕業か。ハムレットの狂気だ。

もしそうならば、ハムレットは被害者の側におり、その狂気こそ、哀れなハムレットの敵なのだ』


ふと、花の匂いがした。


美墨がちらりと右に目を走らせれば、隣の男は静かにその頬に一筋の雫を落としていた。


『どうか、こうしてみなの前で、悪意はなかったという私の弁明を君の寛容さで受け入れて、私を解放してくれたまえ。わたしは屋根越しに矢を放って、兄弟を傷つけてしまったのだから』


美墨は、その香りをそっと吸い込みながら舞台の上のハムレット──タカシナをじっと見つめていた。





※本稿の『』内における『ハムレット』引用文献は以下の通りです。

シェイクスピア 河合祥一郎=訳 『新訳 ハムレット』株式会社角川書店、平成24年、二○八頁、二○九頁、二一○頁

 

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