第37話 薫陶②


「うわあああああ」


なんだあれ、ここは日本の筈だろ。

せっかく時間を掛けてそろそろと降りてきた山道を、俺は死に物狂いでまた駆け登っていた。


「……くそっ」


静脈のように山肌をうねうねと波打つ木の根や砂利に、足が取られて思うように走れない。

思いつきとはいえ、革靴で来てしまった自分の浅はかさに毒づく。


背後から、自分を追ってくる気配を感じて、ワイシャツの下で肌が粟立った。


手に持つ鞄はずしりと重く、最早その辺に投げ捨てたい程だったが、顧客に渡す大事な資料が入っていて無下にもできなかった。


……ふーっ、ふーっ。


生温かい息が、首の後ろをなぞる。


「……っ」


弾かれたように、振り向く。


黄金色に、黒の縞模様が、視界を走った。


稲妻。


体が強張る。


そこには、ゆうに自分の倍はあるだろうか、大きな虎の顔があった。


何やら黒く澱んだ固まりをその口に咥えて。

大きな鋭い犬歯が覗き、荒い息が白く吐き出されている。


紫色を帯びた暗い青の二つの目が、俺をじっと見据えていた。





「ごめんごめん。逃げていく姿を見ると、つい追いかけたくなっちゃってさ」


ミスミは、悪びれた様子もなくあっけらかんとした口調で、とりあえずは謝った。


山の中を走りまくり逃げまくって、疲れ切っていた俺は答える気力もなく、息を整えるのに精一杯だった。


やっとの思いで鞄からお茶の入ったペットボトルを取り出すと、ごくごくと咽喉を鳴らして飲む。

ふうーっと深い溜息をついて、側にあった大きな石の上に腰掛けた。


「それにしても、随分と場違いな恰好しているのね」


そう言って大きな杉の木に寄り掛かりながら、俺の頭の上から爪先までまじまじと目を走らせるミスミは大分身軽で、確かにこの場所にしっくりと馴染んでいた。


胸から上がベージュ、下が黒のバイカラーの、ジップアップの厚手のスウェット。

細身の黒のレギンスのサイドには、白のストライプが二本走っている。


ソールが厚く、ボリュームのあるトレッキング用のハイカットスニーカーは白で、ちいさな頭に乗ったキャップの色と揃えられていた。


思い立ったらすぐにでもひゅんと、目の前の山道を軽々と登っていけそうな出で立ちだった。


「……俺だって、できるならそういう恰好で来たかったよ」


一息ついてやっと、言葉が追いついてくるようになった。


ふうん、とミスミは不思議そうに首を傾げる。

キャップの下で、肩につくかつかないかで切り揃えられた、おかっぱの黒い髪が揺れた。


「逆に、君はそんな薄着で、寒くないわけ?」


こっちはスーツの上にダウンコート、首にはマフラーを巻いて、防寒対策はばっちりだ。


立春を迎えても、まだまだ寒さはしぶとく居座っていいた。

ましてや山となれば関東とはいえ、いまだ冬将軍の厳しい支配下にある。


「全然。あたし暑がりだから。動いてると、上着なんてすぐにいらなくなっちゃうの」


ミスミは肩を軽く回した。


どちらかというと小柄で華奢な体型だが、しっかり筋肉がついているのだろう。

運動している人特有の、重心が上半身にあるような、弾むような身の軽さが伝わってくる。


俺だって、学生の頃は。

ふと、遠い自分の姿が脳裏を掠めて、ぎくりとする。


「……で、俺に、何の用っすか」


その残像をかき消すように、わざとぞんざいな物言いで尋ねた。


ミスミは、ああ、とたいして気にも留めない様子で、思い出したように口を開いた。


「頼まれて、あんたに喝……、いや、活を入れにきました」

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