第6話 祝福⑥完結

「お疲れ様」


早朝の朝靄が煙る中、一人の男が、十字路の交差点の真ん中に立つ男に声を掛けた。


交差点の男が振り返る。


振り返ったその顔は、声を掛けた男と瓜二つだった。


二重の綺麗な目も、すっと通った鼻筋も、柔らかな微笑みをたたえたような口許も。

寸分違わない。


交差点の男は、無言でうなずいた。

静かにその瞳を閉じる。

長身のその身体を、まるで重力など感じさせないかのように、柔らかく後方に捻って地を蹴る。


頭が落ちて、蹴った足がくるりと天に向いたその瞬間。


男は、一匹の蝶にその身を変えた。


「まったく、俺の姿を借りるとはな」


声を掛けた男は呆れたように、蝶を見やった。

蝶はひらひらと男の周りを舞うと、その肩に止まる。


「まぁ、お前は他の者と比べたらまだ日が浅いしなあ。しょうがないか」


男の肩に止まる蝶の翅は、光の加減で黒にも、深い碧にも見えた。

前翅にビロード状に生えた毛は滑らかで、透明な朝陽を受けて艶々しかった。


「お前も、俺と同じ名を持っているから真似やすかったか。俺より背が高いところは、しゃくに触るが」


蝶はゆっくりと、その美しい翅を上下に揺らす。


「まあな。依頼人も喜んでいたよ。あのお嬢さんのこと、めちゃくちゃ心配してたから。安心してた」


男は、肩に止まる蝶にうなずいた。


「ああ。依頼はまた、どんどん来ている。今月は彼岸と此岸が一番近くなる月だからな。皆、いつもより、出来ることが増えるから」


蝶が男の肩から舞い上がった。


「うん? まだいい、せっかくだからこの機会に故郷の山、覗いてくれば」


男が蝶を見上げる。


「仲間が減ってきていると聞いている。お前も心配だったろう。今ならまだ、お前の好きな百合の花も咲いている」


蝶はしばらく、男の周りを舞っていたが、つと上に飛び立った。


烏揚羽からすあげは


その後ろ姿に向かって、男が声を掛ける。


「初仕事、よくやった。帰ってきたら一杯やろう。上手い酒を用意しておく」


蝶は一度、円を描くようにくるりと舞った。

そして白い靄の中、遠くに霞んで見える山へとその翅を広げ、飛び去っていった。


それを見届けると、男はふーっと、深く息を吐いた。

首を回しながら白いシャツの袖を捲り上げ、腕をゆっくりと、頭の上に伸ばす。


そのままぐっと、身体を後ろに反らせた。

その弾みで細身のパンツのポケットから、何か固いものが、からん、と音を立てて落ちた。


それは、一見その身に似つかわしくない、古めかしい木札だった。


将棋の駒のような形をしたそれは、男の手のひらほどの大きさで、濡羽色に染め上げられていた。


木札の上部には丸い穴が穿たれていて、黒と赤の二色が鎖状に編まれた、固い組紐が通されている。


「おっと」


男は慌てて拾い上げる。


木札には、〈冥府 御門鑑おもんかん〉と、大きく焼印が押されてあった。


「また無くしたら、姉さんに怒られる」


表についた土埃を払って、男は木札をひっくり返す。


木札の裏にも、同じように焼印が押してあった。


黒母衣衆くろほろしゅう 四ノ隊 烏丸〉


烏丸は木札を無造作にパンツのポケットに捩じ込むと、おもむろに歩き出した。


ポケットからはみ出た、黒と赤の組紐がゆらゆらと揺れる。


朝靄が、交差点から歩き出した烏丸を覆い尽くすかのように、いっそう濃くなった。


その姿は靄の白に滲んで、一瞬、大きな翼のような黒い影が広がった。

それも束の間、白い闇の中で烏丸はゆるゆると見えなくなっていく。


程なくして、朝靄と共に彼は消えていった。


靄が晴れた後、それまで鳴りを潜めていた信号機が首をもたげて、緩慢に点滅をし始めた。


交差点の向こうから、車のエンジン音が聞こえてくる。


自転車のベルの音。

耳を澄ませば、学校へ向かう子ども達だろうか、心地良く五月蝿い、はしゃいだ声も近づいてくる。


烏は去り、小鳥達の声が空に響く。


朝の街は、いつも通りの喧騒を、静かに取り戻していく。

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