烏の三ツ足は水母の骨を攫む

根來久野

第1話 祝福①

手の込んだ、複雑な料理は食べたくないの。


食べたら、頭と身体が今以上に複雑になる気がしてしまうから。

私がもっとばらばらになって、もっと自分が分からなくなる気がしてしまうから。


ひと思いにそう伝えると、彼はキッチンから覗かせていた顔をほんの少し右に傾けて、そのまましばらくのあいだ私を見つめていた。


その姿はまるで、昔実家で飼っていた小犬のようだと、頭の端でぼんやりと思った。


銀色の毛が艶々と光るその小犬は、話しかけると彼のように頭を少しだけ傾けて、私をじっと見つめていた。


何を言っているのか、分からないけれど。

何を言っているのか、懸命に理解しようとするように。


いじらしいあの子は、私が就職のために上京して、そう時を置かずに逝ってしまった。


「君はいま、シンプルに生きていたいんだね」


え?


想像もしていなかった言葉を返されて、思わずぽかんと彼を見つめる。


こんなこと言ったら、引かれて、そのまま流されて終わるものだと思っていた。


「食べることは、生きることだからさ」


気の抜けたような私の顔を見て、彼は笑った。


「道理で、生活感のないキッチンな訳だ」


モデルルームさながら、ほとんど物の無い、しんと静まりかえったキッチンを見やる。


以前使っていた調理器具や、調味料は目につかないところへ仕舞い込んでいた。


「冷蔵庫には水と果物が少しだけ。僕は昨日、うさぎか栗鼠の家にでもやって来たのかと思った」


もらうよ、と彼は冷蔵庫を開ける。

ぱくん、と乾いた音がした。

中から水のペットボトルと梨をひとつ取り出す。

コポコポと、水をグラスに注ぐ音が聞こえた。


梨を洗い、水切りラックに立ててあった果物ナイフと、グラスを器用に両手で持ってやってくる。


「新聞はどこ?」


取っていないと伝えると、今どきの若者は、と大袈裟に肩をすくめる。


あなたも私とそう変わらないでしょうに。

彼はそうかな、と小さく笑った。


テーブルにグラスを置きながら、私の隣に座る。

そういえば。

春に買ってそのまま、捨てそびれていたファッション誌があったのを思い出す。

表紙が、好きな女優で思わず買ってしまった雑誌。

本棚から引っ張り出し、適当なページを開いて彼に渡す。


紙面には、首の長い、美しい外国人モデルが、咲き乱れる花々を背景にこちらを見ていた。


「綺麗だね。花は好きだ」


彼はそう言って、梨を剥いていく。

皮に付いていた水滴がぽたぽたと、音を立てて花の上に落ちていった。


彼の細くて長い指が、梨をくるくると小気味よく回していく。


次第に白い肌を覗かせていく梨はつるりと瑞々しく、仄かに甘い香りを漂わせた。

その香りをそっと胸に吸い込みながら、私は彼と初めて出会った、昨日の夜のことを思い出していた。

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