第5話 文字愛サイコ

 運と取引により進学を許された大学時代、亜美は水を得た魚だった。

 必修を振り替えてまでロシア語を第二外国語に選んだ為、不思議文字をでていても不審ふしんには思われない。三学年以降で履修可能になる古典ギリシャ語をるのを楽しみに、ギリシャ文字の替え歌は『ちょうちょう』が合う、などと歌っていても大学では誰も気にしなかった。

 サンスクリット、アラビア語、ミャンマー語、どんな字を見ていても「何、それ?」で済む大学は素晴らしい。


 このまま、大人しく学問していれば良かったのだが、亜美はまたしてもマニアックな文字にハマる。

 それは点字だった。

 今はレゴで点字を覚える等、垣根かきねが低くなったが、当時、一般人にそれは無縁だったろう。亜美は小学校へ上がる頃には街で見る点字を読めるようになりたい、と思ったが、兄弟や従兄弟いとこに同類はいなかった。祖父が点字を習得していないことも影響したかもしれない。身近に視覚障碍者しょうがいしゃがいても簡単に学べる状況ではなかった。


 しかし、亜美の大学では点字サークルがかなりの規模で活動していたのである。喜んで部室へ行き、体験させてもらった。

 点字器てんじきに用紙をはさみ、点筆てんぴつにぎり、見本を見ながらあつをかける。厚紙を押す感触は柔らかく亜美には心地良かった。力を入れ過ぎると突起とっきは破れてしまう。とても繊細せんさいで優しい文字だと思った。


 そして、打ち上がった紙を外して見て、点字の美しさに亜美はれ込む。

 白地に白の星はほのかな温かみを持つ不思議な宇宙を見るようであり、シルクの白地に白糸で刺繡をほどこすのにも似ていた。


 当時は名称がなかったが、亜美は集合体恐怖症トライポフォビアで特に整頓された小さな正円の集合で鳥肌が立ち、その鳥肌を見て更に震える。

 しかし、何故か凸面とつめん方向から見る点字はその症状が軽く、美しさの感覚が上回った。


 点字サークルに所属したかった亜美にはまた家の方針が立ちはだかる。

 課外活動は親の了承なしにできなかった。門限が基本17時なのである。中高の部活動の退校時刻が18時、大学の五限の終了時刻が17時50分でも千秋は17時を過ぎて連絡なく亜美が帰ったなら、怒る正当な理由があると思っていたようだ。それも明確な門限はなく、彼女の気分により運用される為、安全圏がない。都度、千秋の承諾が要る。

 そして、「普通」に憧れた千秋の家に障碍の話を持ち込むのはタブーに近い。実際、チラシの束を見ながら、点字サークルなんてある、と試しにつぶやいただけで彼女は怒った。


 サークルから自宅に勧誘電話のある時代だった為、亜美は事情を話し、入会しない、電話をしないで欲しい、と部室へ謝罪に行く。

 すると、了解した先輩が点字の五十音一覧のコピーを亜美にくれた。


 点字用具はないが、ペンで点字の仮名を書いて打ち方を覚えた。

 ペンで書いた点はいびつで配置も乱れており、整った正円の羅列られつより集合体恐怖症は出難い筈が、震えが全身を走る。それが辛かったが、亜美は諦められず体を震わせながら、その作業を試みた。


 ある時、亜美は入会したサークルの部屋に誰もいない時、それをしていて突然、先輩が入って来る。

 彼は悲鳴を上げた。勢いよく扉を開けたら、震えてうなりながら意味不明な点を書く女がいたのだ。そうなるのは判る。


「怖ぇよ! 『エクソシスト』かよっ!」


 亜美はき物娘に逆戻りした。

 集合体恐怖症の言葉がない時代。点々に震えているのだ、という説明はなかなか通じず、ましてや自分でそれを書いているのだから他人には理解し難い。いや、亜美自身にも理解し難い行為ではあった。

 一件を聞いた臨床心理学を専攻する先輩にゼミの教授と話してみるよう勧められる。


 その様な経緯もあり、社会人になり点字用具を購入した亜美は様々な意味で嬉しかった。

 経済力を得て本も買えるようになると、亜美は興味ある言語のテキストや辞書を買い始める。そして、その複写等を一人暮らしの部屋のあちこちにった。覚える為に貼ったのだが、亜美にとっては好きな芸能人やキャラのポスターを貼るようなもので心地も良かったのだろう。

 しかし、客はそれを見て凍ることを亜美は知った。


「彼女の家、怪しい魔術部屋みたいなんだって」


 こんな噂も生まれる。

 どうやら他人は文字に快感を覚えず、自分は文字オタクなのだと明確に自覚したのはこの時だ。幼い時から、本の虫、読書好き、と言われていたので、それ以上は考えなかった。

 亜美はしばらく来客時に文字をタペストリーで隠すなどする。


 しかし、個人サイトを運営して数年。亜美はインターネットで再び得た二次元系オタク友とオフで会う等、交流を深め、二十代最後の記念にとうとうコスプレしてみることにした。すると、来客の文字への反応やうわさごときは何とも思わなくなる。オタクとして開き直ると気分は清々しかった。

 亜美の文字愛を最終的に解き放ったのはコスプレである。

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