5、4月の街

 どうして、こうなったのだろう?

 旅人はひきつった笑顔を浮かべながら、紅茶を飲んでいた。もう三杯目になる。頼りの黒猫は、春の女神と呼ばれる人のところへ行ってしまっていない。

「さあ、どうぞ。焼きたてのクッキーですよ」

「十二月の街へ行くのならば、たくさん食べていかないと」

「あの街は、寒々しいところだと聞くからね」

 旅人の隣や前に座る、紳士や婦人が次々に話しかけてくる。口を挟むタイミングがわからないまま、旅人はずっと紅茶やお菓子を食べさせられ続けていた。

 そうだ、と旅人は逃げるように、テラスからの景色に視線をうつす。

 白の魔女に言われたことを思い出して、十二月の街を目指すことにしたのだった。その街へ行くには、この四月の街を通らなければならない。

「この街は一年中、春なのです」

 旅人の視線をたどって、隣に座る婦人が言った。ふわりと風が通って、婦人の小麦色の髪を揺らしていった。風の中に、水を含んだ土と花の香りがする。

「街を流れる小川に、咲きほこる桜が美しいでしょう? こんなに美しい街は他にはありません」

 婦人が言うと、対面に座る紳士が大きくうなずいた。

「桜が舞うこの美しい街。過ごしやすく暖かい気候。すべて春の女神様の恵さ。さあ、乾杯しよう」

 上品に笑い合って、彼らはティーカップを気持ち上にあげた。旅人も苦笑いしながら、それにならう。もう五回目の乾杯だった。

 再び彼らは、街がいかに美しいか、今淹れた紅茶の色が、なんて美しいのかと話し始める。そして、最後は女神への乾杯で終わるのだ。

 黒猫、早く戻ってきて。

 旅人は膨れていくお腹をさすりながら、小高い丘に視線をやった。



 やわらかな苔の上を、水が流れ落ちていく。雫がいくつも集まって、細い流れをつくり、街へたどり着くころには小川となる。

 黒猫は小川の上流へと登っていた。川はどんどん細くなり、いつの間にか川の道が無くなっている。苔を踏む感触が面白くて好きだったが、毛並みが濡れてしまうことだけが、この道の唯一の欠点だった。頭上には、覆い尽くすほどの春。桜に桃の花、薄紫色の藤が、黒猫の行く道を華やかに添えている。

 やがて見えてきた丘の頂には、大きな藤の木が一本ある。荒々しくうねる蔓が二つに分かれ、横に大きく手を広げている。その蔓に寝そべるように座っているのが、春の女神だ。

 妖精の羽のように繊細で薄く、花びらのようにやわらかなドレスを身にまとっている。藤の花を背景に、女神の周りには、絶えず花びらが舞っていた。くるくると舞う花びらは、地面にたどり着く前に、水の粒子へと変わり、苔の中へと吸い込まれていく。

 黒猫が足を踏み出すと、ぽとんと深い水の響きがした。女神が草原の色の瞳を上げる。黒猫に気がついて、春風になびく髪をおさえた。

「驚いた。もう来ないと思っていたのに」

 足を伸ばして、苔の地面に女神は降り立つ。慈愛深い瞳を黒猫に向けた。

「あの子は、どうしたの?」

「ああ、街に置いてきたよ」

 黒猫が言うと、女神は花の向こう側、丘の下をじっと見つめた。それから、目を伏せて首を振る。

「ちがうわ。この子じゃない。この前、連れてきた子の方」

 黒猫は答えずに、前足をなめた。ゆっくりと。甘い水の味が、舌から伝わって体に染みわたっていく。

「今日は予言をもらいに来たんだ」

 話題をそらされて、女神は傷ついたようにうつむく。

「また、十二月の街へ連れて行くのね」

「それが、ぼくの役割だからね」

 黒猫に背を向けて、女神は腕を空へ伸ばした。頭上にある藤の花を一房、手に取る。

「予言が欲しいのは、あなたが不安だから? 今の子を連れて来ないのは、真実を知られたくないから?」

 言われて黒猫は、目を細める。女神が悲しそうな顔をして、肩を落とした。

「今のは意地悪な言い方だったわね。ごめんなさい」

 ふっ、と藤の花に女神が息を吹きかけると、藤の花は光をまとって、ぐにゃりと形を変えた。

「この間の予言は、当たった?」

「まあね。悪魔だと言われたよ」

 クツクツと黒猫は笑う。女神は切なげに瞬いた。

「予言は、ただの予測。外れることもあるわ」

 藤の花は、女神の手の中で姿を変え、球体の水となっていた。それを女神は一瞥して、ため息をついた。息を吹きかけると、水は霧散していく。

「それで、どう?」

 黒猫が尋ねると、女神は元いた蔓へ腰をかけるところだった。

「『死と再生』そう出たわ」

「死と再生? ぼくは、死ぬのか?」 

「そうかもしれないし、あなたじゃないかもしれない」

「いつも不思議な予言だなぁ」

「それでも、あなたは予言を頼りにしたいのでしょう? 先に知っていれば、傷つかずにすむから」

 言われて、黒猫は女神をにらみつけた。けれども女神が、心の底から黒猫を案じてくれているのだとわかっていたので、静かにうめいた。

「思い出したくないんだ、あの子のことは。特にね」

 絞りだすようにそう言うと、女神は視線を外した。そして、黒猫の方を見ずに話題を変えた。

「今回の子は、どう? 何故、旅をしているの?」

「ああ。名前を、自分の名前を探すために旅をしているのさ」

「名前を?」

 目を大きく見開いて、それから女神は微笑んだ。

「面白い子ね」

「ぼくもそう思う。ぼくのこと、友達だって言ってくれたんだ」

「……そう」

「よく、ぼくを服の中にしまいこんじゃうんだ。困ったやつだよ」

 自慢するように旅人のことを話し始めた黒猫は、女神の反応を見て押し黙った。

 思い出さないように、何重にも紐をかけて、心の奥底に沈めたものを、自分の手で引き上げてしまったことに気がついて、愕然とした。

 肩を落として、しっぽを一振りする。

「それじゃ、ぼくはもう行くよ」

「待って、ラピスラズリ」

 はっとして、黒猫は振り返る。

「その名前は、呼ばないでくれよ」

 女神は自分の胸に、重ねた両手をそっとおいた。

「私は、あなたの旅が早く終わることを、いつも祈っていますよ」

 女神の背後で、花弁が雪のように降っている。

 あの日の雪みたいだ、と黒猫は遠い景色を思い出す。星明かりが雪に反射して、ほんのり明るくて、けれども、苦い記憶のあの日。何度も繰り返すこの運命。断ち切る方法は、とうの昔に放棄してしまった。

「もう、いいんだ」

 黒猫は口の中でつぶやいた。女神の方へ向き直り、黒猫は気を取り直す。

「ありがとう」

 手を振る代わりに、しっぽを大きく振った。それから振り返らずに、一気に丘をかけ下りていく。

 小さくなっていく黒猫の後ろ姿を見送りながら、女神は藤の花をやさしく叩いた。花たちが一斉に揺れて、花びらを散らす。黒猫の旅路を祈って、花びらは大きく渦を巻いて空を舞う。花びらの中心で、女神は誰にともなく、そっとつぶやいた。

「可哀想なラピスラズリ。誰よりも愛されたいのに、それを自分自身で拒んでいるのだもの」



 黒猫は走った。旅人の元へ。待っていろと言った場所で、旅人は素直に待ち続けていたようだ。テラスの上から黒猫を見つけて、立ち上がった姿が見えた。思わず笑みがこぼれる。

「馬鹿だなぁ」

 走って黒猫の元へやってくる旅人を見ながら、黒猫は言った。

 十二月の街は、あと少しの時間で着いてしまう。十二月の街へ着いたら、旅人はどんな反応をするだろうか。春の女神の予言のことも、考えなくてはいけない。けれど、と黒猫は思う。今は、旅人と過ごす時間を大切にしたいと思った。たとえ、その後になにが待ち受けているとしても。

「黒猫!」

 旅人が黒猫を抱き上げた。いつもは文句を言うところだけれど、黒猫は言わなかった。旅人と顔が近づいた時、黒猫は尋ねた。

「なあ、ぼくのこと好きか?」

「好き?」

 旅人が首を傾げると、動きにあわせて黒髪がサラサラと流れた。

「うん、好きだよ」

 旅人は、無邪気に笑いかけた。黒猫は微笑みを返さなかった。

「黒猫は? ぼくが好き?」

 聞かれて、黒猫は目をつむる。

「教えない」

「どうして?」

 答える代わりに、旅人の腕の中から逃げた。

「行こう。十二月の街は、すぐそこだ」

 黒猫は歩く。しっぽをぴんと立てて。旅人の方を見ずに、次の街へ歩き始めた。

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