6、オレアリアの街
「「最悪だ!」」
黒猫と少年は同時に叫んだ。
少年がつまずいて、手にしていた大きな花瓶から花と水が散らばった。花をかぶるならまだよかったものの、黒猫がかぶってしまったのは大量の水だった。
「ぼくは水が嫌いなんだ!」と黒猫が悲鳴をあげて、
「ああ、大変だ! 奥様のお花が!」と少年が頭を抱えた。
双方がそれぞれの慌て方をするので、旅人は目をきょろきょろさせながら、困ってしまった。そうしているうちに、騒ぎを聞きつけたのか、少し離れた花屋から恰幅のいい女性が顔を出した。
「スターチス、またやらかしたね」
腰に巻いたエプロンで手を拭きながら、花屋のおばさんは少年の前まで歩いてくる。
「おばさん、すみません、すみません。すぐ花を拾いますから! すみませんが、花瓶に水を入れてもらえますか?」
スターチスと呼ばれた少年は、手を合わせて何度も頭を下げた。花屋のおばさんは花瓶を受け取りながら、あごで合図を送る。
「あたしはかまわないけどさ、そちらの猫さんに謝った方が、いいんじゃないのかい?」
言われて初めて、スターチスはずぶ濡れの黒猫に気がついたようだった。濡れた毛の間から、色違いの瞳がスターチスをじっとにらみつけている。
「うわあ! ごめんなさい、ごめんなさい」
慌てて自分のジャケットを脱ぎ、黒猫にかぶせてゴシゴシとふき始める。
「やめろ! 毛が乱れるだろう!」
黒猫が叫んで、スターチスは手を止める。濡れた毛がツンツンはねて、ボサボサのたわしみたいになった黒猫がジャケットの下から這い出てくる。
「最悪だよ、本当に」
つぶやいて、黒猫は自分の毛をなめ始めた。旅人がそばへ寄って、しゃがみこむ。
「大丈夫? 黒猫」
「これが大丈夫なように見える? あーあ、ぼくの毛が」
大きくため息をついた時、スターチスが黒猫の前で膝をついた。天を仰いでから、勢いよく地に頭をつける。
「猫様! ごめんなさい!」
これには、旅人も黒猫もギョッとしてしまった。
「本当にごめんなさい! ぼくは、失敗ばかりで……。ああ、でも時間が」
思い出したとばかりに、スターチスは頭を上げ、顔色を青くした。
「どうしよう、馬車に乗り遅れちゃう!」
喉をつぶしたような悲鳴をあげてから、スターチスは再び黒猫と旅人を見て、さらに声にならない悲鳴をあげる。
「どうしたらいいんだ!」
スターチスは混乱していた。頼まれていた花を持って帰らねばならないのに、粗相をしてしまった相手も放っておけない。
「そうだ! ぼくと一緒に来てください。お詫びにご馳走しますから!」
旅人と黒猫は目をぱちくりさせたが「いいじゃない」と言ったのは、花瓶に水を入れて戻ってきた花屋のおばさんだった。
「オレアリア様のお城に入れるなんて、一生に一度とないよ。あんた、水でもかぶってみるもんだね」
ムスッとした黒猫を見て、花屋のおばさんは軽快に笑い声をあげた。「持っていきな」とタオルを投げかけてくれる。それを、旅人が受け取った。
「そういうことですから、行きましょう!」
スターチスは大きな花瓶を抱えて、返事を待たずに先に歩き始めてしまった。
「どうする?」
旅人が黒猫に尋ねる。
「もちろん行くさ。ぼくの毛を濡らしたんだ、お腹いっぱいご馳走してもらわないと」
体をブルルと揺らして、黒猫はスターチスを追いかけたが、途中で立ち止まって、旅人が来るのを待った。
「悪いけど、そのタオルでぼくを包みこんでくれない? まだ毛の奥の方が濡れている気がしてさ」
旅人が黒猫の体をタオルで包みこむと、タオルは小さな楕円形になった。そこから頭をひょっこり出した黒猫の姿を見て、旅人は吹き出してしまった。
「変わった生き物みたいだ」
「笑うなよな、まったく」
大きく息をついて、黒猫がぼやいた。
旅人たちが追いついたころ、スターチスは馬車の荷台に花を載せているところだった。
「荷台で申し訳ありませんが、一緒に乗りましょう」
手をひかれて、旅人と黒猫は馬車に乗った。腰を下ろすとすぐに、馬車が出発する。初めての揺れに驚いて、旅人は腰を少しだけ浮かせた。
「スターチス、この人たちは?」
対面に座っている女の子が旅人たちを、疑わしそうな目で見ていた。その隣に、金髪の男の子が座っていて、彼らはみなスターチスと同じ、薄紫色のジャケットとズボンを着ている。
「ぼくが花瓶の水をこぼして、猫様をずぶ濡れにしてしまったから、お詫びにお城へ招待したんだ」
まあ、と女の子は目を大きく見開いて、スターチスを非難した。
「あなたって、本当になにかをしでかす天才ね」
「知らない者をお城へ招き入れるなんて。なにを考えているんだい」
男の子は前髪を手で払うと、大げさにため息をついてみせた。
「で、でも。ぼくが悪いことをしたのに、放っておくことは出来ないよ」
「それは、もちろんだとも。スターチスのせいで、旦那様の名に傷がついてしまうことは避けなければならない!」
そう言って、金髪の男の子は改めて旅人と黒猫を見据えて、大げさにあごを引き上げてみせた。
「旅の方とお見うけする。どこの街から来た?」
「煙の街です」
旅人が言うと、金髪の男の子は「そうか」とうなずいてから視線をずらし、隣に座る女の子へ耳打ちをした。
「煙の街って知っているか?」
「私に聞かないで! 知らないわよ! だって、私たち学がないもの!」
首を振って女の子は声を荒げた。
「もう、スターチスったら! えらい人の真似をするのはやめて! 私たち出来損ないスターチスなんだから。ああ、スターチスのせいで、私まで怒られるのは嫌よ!」
わっと顔を覆って女の子は泣き始めてしまった。
「なあ、喧嘩しているところ悪いんだけどさ。ぼくたち、お城とやらへ行っていいのか?」
黒猫が言うと、三人は勢いよく顔をあげて、
「もちろん!」と答えた。
「そうしてもらわなければならない」
「スターチスの行いは、旦那様の行いなのよ」
「オレアリア家に恥をかかせてはいけないんだ」
三人は自分たちに言い聞かせるように言うと、互いに顔を見合わせた。金髪の男の子が咳払いをして、たたずまいを直す。
「そういうわけですから、お客人。我々スターチスの部屋へご案内いたします。けれども! いいですか! 決して、他のスターチスに話しかけたり、他のスターチスについて行ったりしないこと」
いいですね、と金髪の男の子は念を押した。
「あのう、聞いてもいいですか?」
おずおずと旅人は小さく挙手する。
「なんですか? 人間の方のお客人」
「スターチスというのは、彼の名前ですよね?」
旅人は、最初に出会った少年を指し示した。
「話を聞いていると、スターチスという名前の人がいっぱいいるみたいに聞こえて」
「それとも、役職名かなにかなのかい?」
黒猫も疑問を口にした。三人が驚いて顔を見合わせたので、旅人は言い間違えてしまったのかと、困って苦笑いを浮かべた。
「そうか、お客人は知らないのだな」
金髪の男の子がそう言ってうなずいた時、大きくて真っ白な城門が見えてきた。女の子がハッとして声を落とす。
「話しは後よ。とにかく、見つからないように、私たちの部屋へ。スターチス、花は私たちが運ぶから、あなたはお客様をご案内して。絶対、へましないでよね!」
「わ、わかったよ」
スターチスが何度もうなずく。馬車は城門をくぐらず、城壁に沿って細い道を行く。高い壁の向こう側には、薄い緑色に雪をまぶしたような色合いの屋根が見え隠れしている。城の一番高い塔を見上げると、太陽の光に反射してチラチラと光が旅人の目をさした。手をかざして、それがなにかを確かめようとすると、スターチスが察したように言った。
「オレアリアの鐘ですよ」
「鐘?」
旅人が聞き返すと、スターチスは誇らしげにうなずいた。
「朝日が昇る時と太陽が真上にくる時、それから日が沈む時、あの鐘を鳴らすのです。オレアリア家とオレアリアの街の繁栄を祈って」
「私たち出来損ないスターチスの、一番誉れある仕事よ」
そう言って、女の子はうっとりと頬を赤く染めた。
馬車が大きく揺れ始めてガタガタと音がなる。石畳みの道から、地面のところどころに雑草が生えている道を通るようになった。
「もう少ししたら、我々スターチスの働く裏門に着きます。着いたら、ぼくから離れないようについてきて下さいね」
スターチスが言い終えるころ、石造りの門が見えてきた。その門を過ぎると、馬車は坂道を下って、建物の下へと入って行く。ぼんやりと薄く暗い場所で馬車は止まった。
「ぼくの手を離さないで。ついてきてください」
スターチスが小声で言って、旅人の手をとる。馬車の荷台から顔を出して、周りに誰もいないことを確かめると、スターチスは飛び出した。風のように素早く走って、さらに下へ続く階段を降りた。ひんやりと冷たく暗い廊下を走り、水の匂いが漂ってきたころ、スターチスは一つの木の扉を押し開けた。
「ふう。やっと着きました。ここが、ぼくらの部屋です」
スターチスは額の汗を拭うと、ランプに火を灯した。目が慣れてくると、そこは穴を掘ってくり抜いたような、まあるい部屋だった。
食器や鍋が乱雑に置いてある棚と、かまどのある台所。そして、古びた机があるだけの部屋だった。
「本当にご馳走が出てくるのが、ぼく心配になってきたよ」
黒猫が小さな声で独り言を言った。
「どうぞ、座ってください。今お茶をいれます。あ、猫様にはミルクを用意しますね」
タオルの中から出てきた黒猫は、もうすっかり毛が元通りになっていた。旅人が席につくと、黒猫は膝の上に座った。
旅人が首を巡らせて部屋を見回すと、一番高い位置に二つの肖像画が飾られていた。それは若い男女で、どちらも色白の肌に、銀髪のやさしそうな風貌で、深い緑色のスーツとドレスを身にまとっている。
「オレアリア様と奥様ですよ」
スターチスが旅人にハーブティーを、黒猫には温かいミルクを差し出しながら言った。
「オレアリアっていうのは、この街の名前でもあるよな」
黒猫が言うと、スターチスはうなずいた。
「オレアリア様が、この街をおつくりになったのです。何代も前のオレアリア様ですけれど。やせた、なにもない土地を開拓して、人が住めるようにしてくださったのです。街のみんなは、オレアリア様に感謝して、街の名をオレアリアの街と名付けたのです」
ふぅん、と気のない返事を返して、黒猫はミルクをなめる。
「このミルク、美味しいな」
黒猫が言うと、スターチスは嬉しそうにした。
「そうでしょう? 奥様が我々スターチスに良い食事を与えてくださるのです。ぼくは……スターチスになれてよかったのかも」
「その、スターチスというのは」
旅人が尋ねた時、後ろの扉が開いて、先程の女の子と金髪の男の子が入ってきた。
「スターチスというのは、ぼくたちの名前です」
スターチスが言うと、金髪の男の子が旅人の隣に腰掛けて、自慢気に胸を張った。
「おれも、こいつらも、オレアリア家で働く者の名前は、みんなスターチスというのさ」
「みんな同じ名前、ということですか?」
旅人が首を傾げる。
「じゃあ、スターチスって呼んだら、全員振り返って返事をするわけ?」
黒猫が不快そうな顔をした。
「名前が同じだなんて、他人と区別がつかないじゃないか。それじゃあ、まるで一つの兵隊みたいだ」
なんだと、と金髪のスターチスが体をそらせて眉間にしわをよせた。
「猫の方のお客人は失礼だな」
「そうよ。私たちはスターチスと名付けられたことに誇りを持っているわ。生まれる前から、オレアリア様に選ばれて、名前を授かったのよ。これほど名誉なことはないって、母さん泣いて喜んでいたわ」
口をへの字に曲げて、涙をにじませた瞳で女の子のスターチスは黒猫をにらんだ。
嫌な沈黙が流れた。互いに譲らないものが、見えない重たい空気となって、触れば弾けてしまいそうにその場を支配している。
コトンと陶器の音がした。
「マフィンをどうぞ」
スターチスがテーブルの上に、人数分のマフィンがのった皿を置いた。甘いキャラメルの香りがふわりと広がる。その瞬間、張りつめていた空気がすっと去っていくのを旅人は感じた。
「ところで、まだお名前を聞いていませんでしたね」
にこやかにスターチスが旅人に話しかける。気を遣ってくれたのだと、旅人は理解すると黒猫の頭に手を置いて、つとめて明るく答えた。
「ぼくは、旅人。こっちは、黒猫」
予想外の答えにスターチスは眉を上げて、それから困ったように笑った。
「それが、名前ですか?」
「名前は、これから見つける予定です」
旅人が言うと、金髪のスターチスが鼻で笑った。
「なんだそれ。お客人は名前がないのか? それこそ、自分がないじゃないか」
「や、やめようよ、スターチス」
スターチスが場をなだめようとする。女の子のスターチスが興味津々に口を挟んだ。
「名前を見つけるって、どうやって? どこかに落ちているわけじゃないでしょう?」
旅人は斜め上を見上げて考えた。
言われてみれば、確かに名前をどうやって探すのか、考えたことがなかった。旅をしていれば、おのずと名前が見つかるのでは、と漠然とした考えしか持っていなかったのだ。
そんな旅人を察したのか、女の子のスターチスはマフィンを一口ほおばってから、提案した。
「それなら、自分で名前をつければいいじゃない」
「自分で? 考えたことなかった」
「私たち以外の人は、親に名前をつけてもらうって聞いたわ。名前をつけてくれる人がいないのなら、自分でつけてしまえばいいのよ」
「そういうものか」
真新しい提案に、旅人はすっかり感心してしまった。けれども、考えても名前が思い浮かばない。
「名前を考えるって、難しいね。今まで聞いた名前を、ぼくにあてはめても、どれもぼくじゃないみたいだ」
スターチスたちもいくつか名前を挙げて、旅人に協力してくれたが、これと思う名前は見つからなかった。
「名前って、こんなにもいっぱいあるんだね。名前の数だけ、人がいるんだ。それとも、人の数だけ、名前があるのかな? 不思議だね」
圧倒されたように呆然と旅人がつぶやくと黒猫が、くすりと笑った。
「なあ。お前たちも、お互いを呼び合う時に、自分でつけた名前で呼びあったらどうかな? お互いにスターチスだとややこしいだろ?」
黒猫が言うと、二人のスターチスは顔色を変えた。
「嫌だね。オレアリア様からいただいた名前だ。おれは、この名前以外の何者でもない」
「そうよ。それに、今さら別の誰かになるなんて……怖いわ。私はスターチス。スターチスなんだから」
拒絶する二人を見て、旅人はそっと自分の首の後ろに触れた。その時「あっ!」とスターチスが大きな声を上げた。
「なに? 今度はなにをやらかしたの?」
女の子のスターチスが悲鳴をあげる。
「もう、夕暮れ時だ! ぼく、鐘を鳴らす当番だった」
慌てるスターチスに、金髪のスターチスが呆れたようにため息をついた。
「まだ日が落ちるまでに、時間は充分にあるだろう? 今から向かえば、間に合うさ」
そうだね、とスターチスがうなずいたところで、旅人は黒猫を抱いて立ち上がった。
「では、ぼくたちはこれで」
「ぼくがお見送りします」
来た時と同じように、スターチスが旅人の手をひく。馬車を用意しようかというスターチスの提案を、旅人は丁寧に辞退した。
「裏門のところまでで、大丈夫です。ぼくたち、時間はたっぷりあるし、急ぐ必要はありませんから」
そう伝えると、スターチスはさみしそうに眉を下げる。
「今日は、すみませんでした。水をかけちゃったし、無理にお城までついてきてもらいました。それに……二人のスターチスが嫌なことを言って、すみませんでした」
突然、立ち止まってスターチスが頭を下げたので、旅人と黒猫はスターチスより二歩ほど先に進んでしまった。
「でも、悪い人ではないんですよ。二人とも、本当はやさしくて、仕事熱心で」
「わかってるよ」
答えたのは、黒猫だった。
「ぼくも、悪かったよ。君たちの名前のこと、口出しして、悪かったよ」
スターチスは首を横に振る。
「いいえ。実はぼくも、自分の名前があったらなって思うことがあるのです」
言ってからスターチスはごまかすように、笑った。
「スターチスって名前があるのに、おかしいですよね、ぼく」
再び歩き出したスターチスが、旅人と黒猫の横に並ぶ。風が吹いて、旅人とスターチスの髪を揺らしていった。
「おかしく、ないと思います。ぼくも、少し前まで、名前らしきものが、ありましたから」
旅人は慎重に、言葉を選びながら言った。吹く風の中に、夜の匂いが混ざっている。目を閉じて、旅人はあの街を思い出す。
「No,426ab3―F。これが、ぼくの名前だと思っていました。けれど、これはぼくの名前ではなかった。不安になりました。ぼくは、今ここに確かに存在しているのに、ぼくが溶けて、消えてしまったようで、怖かったです」
だから、と旅人はスターチスの手をとった。
「少しだけ、あなたたちの気持ちがわかるような気がするのです。上手く、言えませんけれど。わかる気が、するのです」
繋いだ手を、スターチスはぐっと握り返して、微笑んだ。
「ありがとうございます。あの、旅人さん。ぼくの、秘密を見てもらってもいいですか? 他の人には見せてはいけないと、言われたのですけれど。旅人さんになら、見せてもいいかなって、今思って」
スターチスはシャツの一番上のボタンを外して、ロケットペンダントを取り出した。長円形のチャームを開くと、中に文字が書いてあった。
「旅人さんは、字が読めますか? ぼくたちは、読めなくて」
近づいて、旅人はチャームをのぞきこむ。はっと息をのんだ。
短い文章が、細い繊細な字で書かれていた。
「あなたの名前は、リュウール」
旅人は顔をあげて、スターチスと視線を合わせた。興奮を抑えるように、ゆっくりと、もう一度旅人は言った。
「『あなたの名前は、リュウール』と書いてあります」
スターチス──リュウール──は、初め、口を開けたままぼんやりとしていた。けれども、すぐに目をパチパチと素早く瞬かせた。
「家を出る時、母さんが、くれたのです」
リュウールは、読めない文字を何度も何度も指でなぞっていた。
「ぼくの名前は……リュウール」
リュウールは笑った。笑っているのに、目からは涙がこぼれ落ちた。ごまかすように瞬きを繰り返すけれど、涙は次々とあふれてくる。
「旅人さん、お願いがあります」
「はい」
「ぼくの、名前を呼んでくれますか?」
「もちろん」
旅人は、リュウールの手をとった。まだ空にいる太陽が、今日最後の輝きを、リュウールの茶色の髪と青い瞳に注いだ。
「リュウール」
「はい」
「君は、リュウール」
「はい。ぼくは、リュウール」
「君は、リュウール」
「ぼくは……リュウール」
最後の名前は、涙で消えた。リュウールは肩をふるわせて涙を流した。
「旅人さん。ごめんなさい。泣くだなんて思わなかった。母さん、ぼくのことずっとスターチスって呼んでいたから。ぼくたちは生まれる前からスターチスだから。なのに。ぼくにもちゃんと、名前が──」
旅人はリュウールの背中をそっとなでてやった。
「リュウールが名前を見つけられて、ぼくは心から嬉しい」
綺麗だと、旅人は思った。青い草原に風がサッと吹いて、広い空へとかけていったように、本当の名前を見つけたリュウールは、背筋がすっと伸びて、瞳は星のように輝き、彼自身が光を放っているようだった。
「あの、旅人さん。もう一つだけ、お願いをしていいでしょうか?」
旅人と黒猫は、走っていた。
もう消えてしまいそうな太陽をなだめながら、走っていた。
「まったく、人使いが荒いんだから」
黒猫はそうぼやいたが、表情は明るかった。旅人も息をきらしながら、何度も手で握りしめているものを確認する。
「あそこの家だよ!」
先を行く黒猫が叫んだ。街の外れの森の中、レンガ色の屋根の家。
「時間は?」旅人が空を仰ぐ。
「あと少し!」黒猫が太陽を確認する。
弾む息を整えながら、迷うことなく旅人は家の扉をノックした。
「どなたですか?」
現れたのは、リュウールと同じ茶色の髪と青い瞳の女性だった。
「あの、あなた宛ての手紙を預かってきました。書いたのは、ぼくですけれど……。日が沈む前に読んで下さい」
旅人は返事を聞かずに、女性に手紙を押し付けた。「ちょっと」と女性が言うのを無視して、旅人と黒猫は走り去る。途中、思い出したように旅人は立ち止まって振り返る。軽くお辞儀をし、逃げるように走り去った。
「これで、大丈夫かな?」
旅人はくすりと笑った。いたずらをしているような気分になって、自然と笑い声がもれた。
「大丈夫だろ。あとは、あいつが失敗しないかが問題だけれど」
黒猫は水をかぶったことを思い出して、毛をブルルと揺らした。
見知らぬ人と猫が、走り去ってからマルゴは手元にある手紙に視線を落とした。
「いったい、なんだったのかしらねぇ」
握りしめたあとがくっきり残っている手紙をのばして、開いた時、マルゴは立っていることが出来なくなった。
『母さんへ
元気ですか? ぼくは元気です。
この手紙は、ぼくの新しい友人に書いてもらっています。
オレアリア家の人たちや、仲間のスターチスはとても良い人ばかりです。仕事は失敗ばかりだけれど、楽しく過ごしていますから、心配しないでください。
ぼくは、お遣いで街の花屋によく行きます。母さんに似合う花は何色かなって、考えたりしています。
これから文字を勉強しようと思います。読み書きが出来れば、母さんとこうして手紙のやりとりが出来るでしょう?
あと、ぼくはオレアリアの鐘を鳴らす仕事もしています。ぼくの自慢の仕事です。
今日の日が沈む時に鳴らす鐘は、ぼくが当番です。今日は、母さんを思って鐘を鳴らしますから、耳を澄ませてくださいね。
あなたのリュウールより』
最後の文章を読み終えると、マルゴは口元を手で覆った。ふるえる指で、リュウールの名を丁寧になぞった。
リュウールがまだお腹にいる時、突然オレアリアの城の者がやって来て言った「お腹の子は、スターチスに選ばれた」と。スターチスに選ばれることは、この街では栄誉であり、誇りであった。だがマルゴは手放して、喜ぶことが出来なかった。この街で生まれて育ったマルゴが初めて、オレアリア家対して疑問を持ってしまった。
このお腹の子は、スターチスではない。自分の手で、自分の足で、自分の望む場所で生きるべき子だと。けれども、マルゴは異議を唱えることが出来なかった。異議を唱えれば、この街では暮らせなくなるだろうし、それに周りからの視線も恐ろしかった。だから、誰にも知られず、生まれた子に名前をつけた。マルゴだけが知る、子どもの名を。
読み書きを教えなかったのは、文字が読めないとわかれば、早々にオレアリア家から出されるのではないかと期待したからだ。
「……ごめんなさい、リュウール」
手紙を抱き寄せた時、鐘の音が鳴った。
勢いよくマルゴは扉を開けて、外へ飛び出した。
「リュウール!」
街中に響きわたる、澄んだ鐘の音がもう一度、マルゴに応えるように強く鳴った。
儚い黄昏時の中に、マルゴは立っていた。
手を大きく広げて、金の音を一つももらさないように抱き寄せる。腕の中に、幼い頃のリュウールがいるような気がした。
ああ、あの子は大きく成長したのね。
もう、大丈夫。あの子は、もう大丈夫。
記憶の中のリュウールを思い描き、マルゴはそっと子どもの背を押した。
太陽がいなくなり、薄紫色の空が現れたころ、マルゴは同じようにオレアリアの城を見つめている二つの影を見つけた。先ほどの青年と猫だった。手紙を胸に抱いたまま、マルゴはその影に向かって深くお辞儀をした。
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