3、死にたい街
白い花びらが、絶え間なく降り注いでいる。
高く積み上げられた塀の向こう側から、白い花びらだけがわき上がってくる。まるで、煙のように。
見上げながら、旅人は手を開いた。手のひらに、白い花びらがのって、するりとすべり落ちていった。
「注意。ここから先は、死にたい者だけが行くこと」
目の前に現れた看板を読んで、旅人は首をひねる。
「どういうことだろう?」
黒猫の方を見ると、丁寧に前足をなめているところだった。
「ここから先にある街の名前は、死にたい街っていうのさ。入ったら最後、二度と出られない」
「そんなに恐ろしい街があるの?」
「街が恐ろしい訳じゃないよ。ここに入って行くやつらの方が、恐ろしいんだ」
黒猫は看板のその先を見つめた。幅の狭い道は、蛇行を繰り返して、まるで動かない蛇のよう。花も草もなく、白茶けた岩がゴロゴロと転がっているだけの、心細い道だ。道の先に、灰色の箱のようなものが見える。
「あれが、死にたい街」
黒猫が言った。
お腹の底がズンと重たくなった。見ているだけで、叫び出したくなるような、悲しくなるような気分に旅人はなった。
「街の中は、死想花っていう白い花が一面に咲いているらしい。その花が出す毒を吸うと、ゆっくり眠るように、死ねるらしい。苦しむことなく、ね」
灰色の塀に囲まれた、街の中を旅人は想像してみる。
殺風景な街の中で、唯一生きているのは死想花だけだ。白い花に埋もれて、夢を見るように死を選ぶ人たちが、横たわっている。
思わず旅人は、黒猫を抱き上げた。トクトクと心臓の音が、抱き上げた手から伝わってくる。
ため息をついて黒猫は、
「わかったら、先を行こう」
と気怠げに言った。
旅人がうなずいた時だった。腕に誰かがぶつかった。はずみで黒猫が飛び降りる。
すみません、とつぶやいて旅人は驚いた。
濁った瞳が、ぽっかりと力なく旅人を見つめていた。だらしなく開かれた口からは、よだれが垂れている。
旅人にぶつかってきたのは、老人だった。押せば倒れてしまいそうな細い体からは、ヒュー、ヒューと空気の抜けるような音が響く。老人は、無感動に旅人を一瞥すると、死にたい街へと踏み出した。
「待ってください」
旅人は老人の腕を掴んだ。そうしなければいけない気がしたからだ。けれども、老人は舌打ちをして、旅人の手を振り解いた。
「邪魔をするな! 偽善者が!」
つばを吐き散らかして、低い声で老人はわめき散らす。その言葉の迫力に、旅人は動けなくなってしまった。
チクリ、とした。
痛いと思った。
老人の腕を掴んでいた手を旅人は見つめたが、そこが痛い訳ではないようだ。なにかを言おうと口を開いて、なにも言えずに口を閉じた。
「気にすることないさ。あの人はさ、死にたいんだ。病いのにおいがプンプンするよ。死にたいやつなんか、放っておけよ」
小さくなっていく後ろ姿を見つめながら、黒猫はしっぽを一振り振った。
「あいつも覚悟してこの街へ来てんだ。邪魔してやるな」
「そういうもの、かな」
「そういうものさ」
開いたままの手のひらを、そっと握りしめた。
「偽善者って?」
「良い人のふりをするやつのことさ」
「そう」
まだ、チクリとどこかが痛かった。その痛みは、旅人を不安にさせる。離れていく老人の後ろ姿をもう一度見た。死にたい街にすがるように、体を斜めに傾けて、歩いていく。
「なあ、おいていくぞ」
死にたい街を背にして、黒猫は歩き始める。黒い毛並みが波打つのを見つめながら、旅人はボソッとつぶやいた。
「あの人は、死ぬべき人なのだろうか?」
ぴた、と立ち止まった黒猫は、迷惑そうな顔をして旅人を見上げた。
「逆に聞くけれど、死んでいい人なんているのかい?」
問われて、旅人は顔が熱くなるのを感じた。鼻の奥がチリチリと痛む。黒猫は、長くため息を吐いた。
「あのさ。お前が、あの人を助けたとして、その後はどうするんだい? ずっと、一緒にいてやれるのかい? そうでないなら、一時の感情で動かない方がいい。相手を不幸にするだけさ」
行くよ、と諭すように黒猫は言って歩き出す。うつむきながら、旅人も従った。
自分にはどうすることも出来ないと、旅人は思った。たぶん、黒猫の言うことは正しいのだろう。黒猫は旅人より多くのことを知っているのだから。
「そういうものなんだ……」
言い聞かせてみたが、それでも旅人の気持ちは、晴れなかった。胸の中には、重たい石がたくさん転がっているようだった。ゴロゴロと唸り声をあげて、ぶつかり合って、そのわだかまりは煙のように体を支配し始める。
もう一度、死にたい街を振り返った時、旅人のすぐ脇を誰かがすり抜けてかけて行った。まだ小さな女の子だった。向かう先は、死にたい街だ。
「追いかけるなよ」
背後から黒猫の鋭い声がした。旅人がぐっと足裏に力をこめると、砂利がいびつな音をたてた。
「黒猫」
振り返らず、旅人は言った。
「ぼくは、なにも知らないんだ」
目を伏せて、悲しみを吐き出すように続ける。
「この胸の重さも、痛さも、なにもわからない。だから、知りたいんだ」
旅人は走り出した。静止しようと口を開けた黒猫は、かけていく旅人の後ろ姿を見て、数回瞬きを繰り返した。弱々しく口を閉じて、後ろ足で耳を掻いた。
「お前といると、ぼくの寿命が縮みそうだよ」
耳を伏せて、肩を落とす。それから気を取り直して黒猫は、旅人を追いかけた。
「待って」
女の子にはすぐ追いついた。腕を掴むとその細さに驚く。さほど走っていないのに、女の子は全身を使って息をしていた。
「この先にある街は、死にたい人が行く街らしい。行ってはダメだよ」
「なんで?」
旅人が言うと、女の子は鋭い視線で旅人をにらみつけた。
「死にたいの、わたし」
一瞬ひるんだ旅人を置いて、女の子は再び歩き出す。細い後ろ姿が、先ほどの老人と重なった。
「……そういう、ものなの?」
低くつぶやいた言葉は、体の中で渦を呼び、呼吸を浅くさせる。めまいを感じて旅人は、首を大きく横に振った。まだ遠くに見える街を見つめてから、女の子の後ろをゆっくりついて行くことにした。
「どこか具合が悪いの?」
「どこも悪くない。ついてこないで」
「じゃあ、どうして?」
「どうでもいいでしょ」
跳ね返すような言葉に、旅人は目を瞬かせる。
「死んじゃうんだよ?」
ささやくように言うと、女の子は急に立ち止まり、旅人を見上げた。その瞳は、先ほどのまでのとはちがって、怒ってはいないようだった。地面に転がっている石に視線をうつして、じっと見つめている。やがて、遠慮がちに口を開いた。
「わたしの居場所なんて、どこにもないから」
「居場所?」
「わたしが、いていい場所」
旅人は改めて女の子を見た。よく見れば髪の毛はボサボサで、手も足もとても細い。顔や服からのぞかせている肌には、無数の傷やアザがあった。それが、どういう意味を持つのかを、旅人はまだ知らない。
「ねえ、ぼくに話してくれない?」
「……お兄さんは、誰?」
「ぼくは旅人。それから、こっちは黒猫」
後ろから追いかけてきた黒猫を見て、女の子は笑った。
「そのまんま」
声を出して笑う女の子は、無邪気そのもので、とてもこれから死にたい街へ行く人とは思えなかった。
「手を繋いでもいい?」
「手を?」
旅人が不思議そうに自分の手を見つめていると、その手を女の子が握った。
「手、繋いだことないの?」
「うん」
「実は、わたしも」
ぎこちなく手を握って、二人はゆっくり歩き始めた。死にたい街へ向かって。
歩きながら、女の子は教えてくれた。
二つ先の街からやって来たこと。
兄弟がいっぱいいること。
お酒のにおいのするお父さんが嫌いなこと。
お腹が空いて、水たまりの泥水を飲んだこと。
産まなきゃよかったと、お母さんがよく泣くこと。
その泣いた顔が、世界で一番嫌いなこと。
「死にたい街があるって言われたの。眠るように楽になれるって。わたしなんか、いない方がいいって」
「誰に言われたの?」
旅人は尋ねたが、女の子はまぶたを閉じて、ゆらゆら繋いだ手を揺らしただけだった。
「ねえ、ぼくたちと一緒に行かない?」
「一緒に?」
「黒猫が言っていた。お前の立っている場所は、ここだけじゃないよ、って」
そう告げた時、旅人と女の子の間に、白いものが降り注いできた。音も無く、不気味に美しく、空からやって来る。
それは、白い花びらだった。
女の子は、旅人から花びらへと視線を移す。それから、瞳を少しだけずらして、目の前にそびえ立つものを見た。
死にたい街へ続く門だった。
「旅人さんは、良い人ね」
「……ぼくは、良い人なのだろうか」
「良い人よ。手を繋いでくれたもの」
言って、女の子は繋いだ手を離す。あたたかさが、するりと手からこぼれ落ちた。
「行くの?」
尋ねると、女の子は返事の代わりに目を伏せた。「行かないで」という言葉が、のど元でひっかかっていた。先ほどの老人の言葉や黒猫の言葉が、何度も、何度も頭の中を巡る。それを伝えることが、悪いことなのかもしれないと、旅人は迷っていた。
「行くね」
女の子は言うと、笑った。雲間から差し込む、一筋の光のような笑顔だった。旅人は、なにも言えなかった。
死にたい街の方へ向かって、女の子は歩き出す。白い花びらがヒラヒラと舞い落ちて、時折、女の子の後ろ姿を隠してしまう。降り注ぐ花びらを旅人が手で払った時、女の子は正面から旅人を見ていた。
女の子の唇がわなわなと大きくゆがむ。こらえるように力をこめた後、大きく口が開いた。
旅人が息をのむ。
「愛されたかっただけなの」
死にたい街を背にして、女の子は言った。
「この街に行くことが、あの人のためになるから。……だから……」
その後の言葉は、旅人には届かなかった。女の子は言葉にしたのかもしれないし、言葉にしなかったのかもしれない。黒猫だけが、耳をぴくりと動かしただけだった。
なにかを言わなければと、旅人は言葉を必死に探した。けれども、言葉は浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返し、二人の間には、花びらの音だけが積もっていくばかりだった。
無垢なほど白くて、乾いた、かなしい音が。
「わたしの名前は、エマ」
はっとして、旅人は顔を上げた。
「忘れないで。わたしの名前は、エマ」
「……エマ」
つぶやいた名前は、エマには聞こえなかった。けれども、エマは満足そうに微笑んだ。その瞳が、きらりと輝いて、閉じられた。
エマは自分で、死にたい街の扉を開けた。扉の向こう側から激しく風が吹いて、白い花びらが旅人の顔を容赦なく叩きつける。
次に目を開いた時には、エマはもういなかった。
白い花びらが、絶え間なく降り注いでいた。
高く積み上げられた塀の向こう側から、白い花びらだけがわき上がってくる。まるで、消えてしまった魂の煙のように。
見上げながら、旅人は手を開いた。その手のひらに、白い花びらがそっと舞い降りた。
「重たい」
掴もうとした花びらは、するりと手のひらから、簡単に抜け落ちていった。
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