2、白の魔女の街

「お兄さんも、魔女様に会いに来たのかい?」

 話しかけられて、旅人は足を止めた。

「魔女様?」

「魔女様に護符をもらうんだろう? だって、あんた旅をする格好をしている」

 旅人は自分の体に手を当てた。

 あの日見た夜空みたいな色の長コートを羽織っている。首元には、ぐるぐると長いマフラーを巻き付けて、背中には月みたいな丸いリュックを背負っている。それから、短いブーツを履いていた。すっかり格好だけは、旅をする姿になった。

「なあ、この街には魔女がいんのかい?」

 黒猫が尋ねると、話しかけてきた男は嬉しそうに胸をはった。

「ああ、いるさ。白の魔女様が」

「ふうん」

 面白くなさそうに、黒猫は目を細めた。

「魔女の護符なんていらないさ。行こう、ぼくたちは先を急ぐんだ」

 そうかい、と言って男は手を振った。

「先を急ぐの?」

 旅人がつぶやくように尋ねる。

「ああ、この街は良くない。早く出よう」

 振り返らず、黒猫は小さな足をせわしなく動かして進む。旅人も少しばかり前のめりになって、早歩きで後を追った。

「魔女って、なに?」

「魔女ってやつらは、みんな性格が悪いのさ。天候を操ったり、人の心を読んだり、イタズラをすることが生きがいなやつらさ。この街は、あいつが庇護しているみたいだけれど、それもきっと遊びにすぎない。だから、魔女に会う前に──」

 そこで黒猫は、言葉を切った。どきりとして、後ろを振り返る。いたはずの旅人の姿が、こつぜんと消えていた。

「だから、嫌いなんだよ」

 一振りしっぽを振って、黒猫は大きなため息をもらした。



 一歩足を踏み出して、旅人は転びそうになるのを踏みとどまった。先ほどまで、石畳の道を歩いていたはずなのに、今はやわらかい草の上に立っている。

 見渡すと街はなく、森の中にいた。街の人も黒猫の姿もない。旅人が立っている場所だけ木々が開けており、太陽の光が静かに降り注いでいた。

「こっち」

 少女の声がして、旅人は首を巡らせる。けれども、声の主は見当たらない。

「下だよ」

 言われて足元を見ると、そこには手のひらくらいの大きさの白いネズミがいた。小さな後ろ足で、上手にバランスをとって、立ち上がる。

「白の魔女が呼んでいる。ついてきて」

 白ネズミはそう言うと、草をかき分けて森の中へと進んで行ってしまった。旅人はどうしようかと迷っていたが、黒猫が見当たらないので、仕方がなくついて行くことにした。

 森の中は、濃い緑の香りがたちこめていた。カサカサと音がするのは、白ネズミがどこか草の中を走っている音だろう。旅人は薄暗い森の中で目を凝らす。ネズミの白い毛並みはよく目立った。時々、旅人がついて来ているかを確認するために、またあの小さな後ろ足で立ち上がって、ヒゲを風にそよがせている。

 白ネズミのあとを追って、森の奥までたどり着いた時、旅人は足を止めて耳をすませた。鳥たちのさえずる声に混ざって、さあさあと雨が降るような心地の良い音が聞こえてきた。

「ここだよ」

 声がして、はっと我に返ると白ネズミが鼻先で上を見ろと合図を送っていた。目線を上にあげると、太くて大きな木が立っている。木の根元は大きく二つに分かれていて、その間を小さな小川が流れていた。苔や小さな花で埋めつくされている木の幹は、その木が何百年も前から森と共に生きてきたことを示しているようだった。

 苔に埋もれるように、木の幹をぐるりと巡らす階段らしきものが見える。白ネズミはそこを素早く上って行った。

 白ネズミを目で追って、旅人は思わず声をあげた。木の中ほどに、家がある。まるで、木が成長していくうちに、家を飲みこんでしまったような形をしていた。

 旅人は大きく息を吸いこんだ。森の香りが、体の中へ満ちていく。

「旅をするというのは、こういう気持ちなのかな」

 きゅっと口角を上げると、胸の奥でなにかが弾けた。

 旅人は白ネズミの後を追って階段を上る。手に触れる苔が、くすぐったく感じた。木を登ることも、木の間に家があるのを見るのも、初めてのことだった。

 旅人が思っていたより高い位置に、家はあった。朱色のドアが見えてくる。ドアをノックしようと手を伸ばした時、ドアが自然と開いた。

「おはいり」

 奥から声がした。女の子の声だった。長細い家は奥へと続いており、旅人のいる場所からは、声の主は見当たらない。旅人が家に入ると、足元の床がミシミシと音を立てた。家の中は明かりがない。けれども、暗くも明るくもなかった。夕暮れ時のように、落ち着く色をしている。天井には鮮やかな花や草が吊るされており、花の香りなのか、薬草の香りなのか、不思議な匂いが鼻腔をかすめた。

 少し進んで、旅人は足を止めた。濃い緑色のソファーに、女の子が足を組んで座っている。真っ白な長い髪を床まで垂らして、旅人を見つけるとツツと笑った。

 浅い緑色の瞳は、瞬きをする度に、別の色が混ざっていくように煌めいた。旅人がその瞳に見とれていると、

「あたし、性格悪くないから」

 白の魔女が言った。

「え?」

「あの子が言っていたでしょう? 魔女は性格が悪いって」

「はあ……」

 旅人はあごを指でなでた。そんなことを言っていたかもしれない。あの時は、黒猫を追いかけるので必死だったから、きちんと聞いていなかったのだ。

「君、煙の街から来たでしょう?」

 言われて旅人は驚いた。 

「どうして」

「わかるかって? だって、あたしは魔女だもの」

 うすら笑って、白の魔女は指先を前に突き出した。それからなにもない空中にクルクルと円を描く。すると、ティーポットとティーカップが、ゆらゆらとどこからともなく飛んできた。

「座って。名前のない君」

 コトコトと音がして、旅人が後ろを見ると、椅子が一脚歩いて来るところだった。それに座って、再び白の魔女に向かい合う。目の前に紅茶とクッキーが差し出されていた。正確には、旅人の前でティーカップとクッキーが三枚浮いていた。

「あの。あなたが白の魔女ですか?」

「そうだよ。この街を作って、この街を護っている白の魔女」

「白の魔女が、名前ですか?」

「ちがうね」

 旅人が口を開こうとすると、白の魔女が先に言葉を重ねた。

「教えないよ。あの子にも言われただろう?」

 ──名前を知らないやつに、教える名前はないのさ。

 黒猫の言葉を思い出して「そうか」と旅人はつぶやいた。

「ねえ、旅をしているでしょう? あたしが、護符を授けてあげようか」

 白の魔女が、ティーカップを空中に置く。それは、ふわりふわりと浮いたままで、白の魔女の周りをゆっくりと漂っていった。

「護符とは、どういうものですか?」

 そうだね、と言って瞳だけ動かして白の魔女は考えた。それから、思いついたとニヤリと笑みを浮かべる。

「名前をあげよう。あたしがつけてあげる。君の名前」

「ぼくの、名前を?」

「そうだよ。名前はあった方がいい。悪くない話だと思うな」

「そう……かも」

「じゃあ、決まり。君に名前をあげよう」

 そう言って、白の魔女がぴょんと立ち上がった時だった。黒い影が旅人の目の前をかすめた。

「おい! なに勝手に、こいつに話しかけているんだよ!」

 旅人と白の魔女の間に黒猫が降り立った。毛を逆立てて、キッと鋭い視線を向ける。

「やあ、久しぶりだね。今いいところなんだ、邪魔しないでくれる?」

 白の魔女は微笑んだ。鋭く研ぎ澄まされた氷のように、美しくて、人を寄せつけない微笑みだった。

「君の名前は──」

「よせ!」

 叫んだところで、黒猫の体が浮いた。そのまま白の魔女の腕の中に、すっぽりとおさまってしまう。

「うるさいなぁ。君はこの子の保護者かなにかなの? この子が欲しいって言ったんだ。この子が決めることだよ」

 なにか言いたそうな黒猫の頭を、しっとりと白の魔女の指が這っていく。

「ここで黙って見ていなよ」

 さあ、と白の魔女は旅人に近づく。一歩、旅人は後退る。何故だか、胸がザワザワした。首の後ろを軽く触れる。

 これは、ぼくの名前ではない。

 後ろに下がった足を戻して、旅人は白の魔女の目を真正面から見た。

「やっぱりいらないです。名前」

「え?」

 目を見開いて、白の魔女は言う。

「どうして? 欲しいでしょ。あたしがつけてあげるんだから。こんな簡単な方法はないよ」

「やっぱり、ちがう気がするから」

「ちがう? なにがちがうのさ」

「もし、あなたに名前をつけてもらったとしても、黒猫はぼくに、自分の名前を教えてくれなさそうだから」

 小さい声で、けれどもはっきりと旅人は言った。白の魔女は初め、面食らった表情をしていた。けれども次の瞬間には、ぷっと吹き出して笑い始めた。

「つまんないの」

 笑いながら、ぱっと両手を離す。黒猫が音もなく床に下りた。

「名前をつけて、遊び相手になってもらおうと思ったのにさ」

 残念、と言った白の魔女は、言葉とは裏腹に愉快そうであった。

「いいよ、旅を続けなよ」

 白の魔女は、旅人の隣にやって来る。指先をくるくると動かし、空になにかを描いた。小さな丸い光がいくつも、いくつも集まってきて、握りこぶしくらいの大きさになった。すると、光の玉は旅人の背後に吸い込まれるように飛んでいった。旅人が慌てて振り返ると、澄み渡った音が鳴った。見ると、リュックに小さな白い鈴がついている。

「あげるよ。あたしは、君が気に入ったからね」

 リュックについた鈴を、白の魔女は指で揺らして鳴らす。

「他の魔女に、とられないようにしないとね」

 白の魔女は片目をぱちりとつむってみせた。

「ところで、保護者君。君はここに残ってあたしのペットになるかい?」

「前にも言ったけど、お断りだよ」

「つれないねぇ。その毛並みを真っ白に変えてあげるって言うのにさ」

 そう言って、白の魔女がまた指先でなにかを描こうとしたので、旅人は慌てて黒猫を抱き上げた。それを見て、白の魔女が再び笑う。

「わかったよ。ほら、早く行きな」

 指をパチンと弾くと、玄関のドアが開いて、爽やかな風が家の中を通り抜けた。黒猫を抱いたまま出ようとして、旅人はもう一度、白の魔女を見た。

 白の魔女はソファーに腰をかけて、涼しげにお茶を飲んでいるところだった。

「ありがとうございました」

 旅人が言うと、白の魔女は一瞬驚いた顔を見せた。それから、にっこりと笑って、印象的な色の瞳を光らせた。

「十二月の街を訪れてみるといい」

 旅人は首を傾げた。

「君の探しているものが、見つかるはずだよ。名前なんかより、もっとすごいものさ」

 そう言って、白の魔女は手を振った。旅人がお辞儀をしてドアの外に出ると、そこは森の中ではなく街だった。

 耳に街の喧騒が戻ってくる。振り返っても、森も木の家も、白の魔女の姿もどこにもなかった。

「おい、いい加減下ろせよ。ぼくを猫扱いするな」

 ぷりぷり怒って、黒猫は手足をバタバタさせた。

 猫じゃないか、という台詞を旅人は言わないでおいた。

「さっきは、ありがとう」

 そっと、黒猫を地面に下ろした。色違いの瞳を細めて、黒猫はなにか言いたそうな顔をする。

「行こう。ぼくの自慢の毛を、白色にされちゃ困るからね」

 先を歩く黒猫を、旅人はゆっくりと追いかけた。リュックについている鈴が、チリンと出発を告げるように鳴った。


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