1、煙の街

 彼はいつも通り、決められた時間に起床し、決められた朝食をとり、決められた場所へ向かい、そして決められた仕事をこなす。

『No,426ab3―F』

 それが、彼の名前だった。

 彼が生きるこの街の名前は、煙の街。いくつもそびえ立つ長細い煙突が、モクモクと暗くて不気味な煙を吐き続けている。

 世界の産業を全て、煙の街が請け負っていた。工場の火は一日も止められることもなく燃え続け、煙突は煙を吐き出し続ける。空も、川も、土も、なにもかもが煙のように、灰色だった。だから、この街は煙の街と呼ばれている。

「No,426ab3―F」

 呼ばれて彼は手を止める。顔をあげると、そこには見慣れた顔があった。

「作業場の変更を伝える。東の門へ行くように」

 うなずくと、声をかけてきた主は、くるりと向きを変え、自分の持ち場へと帰って行った。その首にも、文字が刻まれている。

『No,f5deb3―B』

 それが、あの人の名前。

 彼はゆっくりと立ち上がり、言われた通り、東の門へと向かう。東の門へ行くには、今いる場所からさらに地下へともぐらなければならなかった。

 ひんやりと静かで、長く、ほこりっぽい廊下を歩く。壁や天井には、何本ものダクトがうごめく生物のようにはりついている。

 廊下の先には、トンネルのように狭くて、暗い階段があった。そこをぐるぐると彼はのぼっていく。いくつめかの階段に足をかけた時、金属がこすれる音が聞こえてきた。東の塔にたどり着いたのだ。

 作業場を通り過ぎると、何人かの同僚の姿が見えた。みな、自分に与えられた作業を行なっている。話し声は一つも聞こえない。金属がこすれる音と、時々伝達の声が聞こえてくるだけだ。

 彼は何人もの同僚とすれ違った。

 彼と同じ黒い髪。

 彼と同じ灰色の瞳。

 そして、彼と同じ顔。

 煙の街を端から端まで歩き回ったとしても、同じ顔の、同じ人間にしか会えないだろう。この街は、一人の人間が分裂を繰り返したように、同じ人間しかいないのだから。

 けれども、彼らは少しばかりのちがいを身につけている。それは能力であった。AからFの記号で、彼らはラベリングされていた。例えば、Aは力仕事に秀でた能力を持っていること。Bは頭脳の優れた能力を持っている、などである。全ては世界の産業を回すためだけに、彼らはその能力を与えられた。

 そして、彼はFであった。

 特別な能力はない。ただ、数が多くいるだけである。命じられたことを、ただこなしていくのが彼の役割であった。

「交替します」

 東の塔の一番端に、東の門がある。たどりついた彼は、同僚へ声をかけた。うなずいて、同僚は去って行く。彼は先程まで同僚が立っていた場所に、足をそろえて行儀良く立った。まだ客は来ていないようだった。音のない部屋を見渡して彼は、小さな息をほうっと漏らした。

 東の門に来るのは、初めてだった。狭くて薄暗いこの部屋は、客が外からやってくるための扉と、彼の目の前にある白い受付台だけがある。

 錠が外れる音がして、扉が開く。彼は背筋を少しだけ伸ばした。

「すぐに終わるから、お前たちは外で待っていなさい」

 扉から入って来た大柄の男は、背後を気にしながら言った。

「いや、パパといっしょがいい」

「パパといっしょじゃなきゃ、いや」

 べそをかきながら双子の女の子が、父親を追いかけて入ってきた。すぐその後を、母親が血相を変えてかけつけてくる。

「ダメよ。マスクをして! ここの空気を吸ってはダメ」

 子どもたちを追いかける母親と泣き始める子どもたち。それをいら立ちながら父親は眺めている。

 そんな騒がしい光景を前にしても、普段の彼なら全く心が揺れ動かなかっただろう。騒ぎが静まるのを待ち、自分に与えられた仕事をこなすだけだ。

 けれども、その時はちがった。

 彼は薄く口を開けて、初めて見る景色に心を奪われていた。視線の先は、開け放たれたままの扉の向こう側。

 やさしく明るい陽射しが、さっと差しこんだ。

 風がビュウっと彼の顔に吹きつける。思わず目を細め、それから大きく見開いた。

 灰色しかなかったその世界に、一筋の鮮やかな青が垣間見えた。それは、まるで別世界のように、美しい青であった。

「空が。青い」

 つぶやいた彼の声は、すぐにイライラした男の声で、かき消されてしまった。

「急いでいるんだ! 早く荷物をくれないか」

 はっと我に返った時はすでに、扉はゆっくりと閉まり、薄暗い部屋に戻っていた。

 途端、子どもたちの泣き声が耳に響いた。

「子どもたちを連れてくるつもりはなかったのだがね。これから休暇でね」

 男は、受付台を爪で弾きながら言った。彼は黙って、男宛の荷物を渡した。ひったくるように男は荷物を受け取ると「早く行くぞ」と、またいら立ちながら、誰よりも先に扉から出て行ってしまった。

 母親が、二人の子どもの手を引いて急かしている。泣きながら去ろうとする、親子の後ろ姿を眺めて、彼は気がついた。

 床に本が落ちていた。拾い上げて親子に近づく。

「あの」

 彼が言うと、母親は体をふるわせた。彼を見て、そして顔を青くした。

「近寄らないで!」

 言われた通り、彼はその場で立ち止まった。

「子どもに感染したら、どうするつもりなの?」

 母親は慌てて子どもを外に押し出す。にらみつけられた理由がわからない彼は、ただ首を傾げた。

 母親の言うことはよくわからなかったが、外からの物を置いておくのは禁止されていた。だから、ありったけ腕を伸ばして、本を差し出した。

「うちのじゃないわ」

 言うなり、母親は音を立てて扉を閉めた。

 外の空気が扉によって閉ざされ、残された新鮮な空気は風となって、彼の頬をなでて消えた。光をなくした部屋で、彼は絵本を抱えたまま立ちつくしていた。

 手元に残った本に、視線をうつす。

 表紙には、猫の絵が描かれている。青よりも深い色の猫。そして、

『十二月のラピスラズリ 作:アウィン』

 と書かれている。

 普段の彼なら、拾ったものを報告に行っただろう。そうすることが、ここの決まりで、彼の役割だから。けれども、彼はその本を隠すように、服の中にしまいこんでしまった。

 何故そうしたのか、彼自身も不思議であった。

 仕事が終わって部屋に戻った時、彼は改めて本を眺めた。

 その本は、絵本だった。ページをめくると、弾けるような鮮やかな色がたくさん目に飛びこんできた。深い青色の猫が、絵本の中から彼をじっと見つめている。

 猫の名前は、ラピスラズリ。

 毛の色が、ラピスラズリという宝石と同じ色で、光があたるとキラキラと毛が輝くことから名付けられたという。


 ラピスラズリは、旅をする。

 気が向くまま、足の向く方へ。

 やがて、自分の居場所を見つける。

 あたたかくて、屋根のある小さな家。

 旅の途中で出会った、白い猫と一緒に暮らすのだ。


 本を閉じた時、胸がざわついた。飛び跳ねるような揺らぎを、初めて感じていた。彼は自分の胸に手を当てて、呼吸を整えようとした。

「これは、一体、なんだろう?」

 身体が壊れてしまったのだろうか? 

 彼は目を瞬いて、自分の身体を注意深く観察した。悪い感じはしない。

 もう一度、絵本に触れてみる。

 知りたい!

 彼は胸の奥底が、どんどん熱くなるのを感じた。

 この色鮮やかな気持ちを、なんと呼ぶのだろう?

 旅をするって、どんな感じだろう?

 今日見た空の色を、もう一度見てみたい!

「ねえ、外の世界へ出ようと思わないの?」

 頭上から声が降ってきて、見上げた彼は目を瞬いた。その瞳に光が宿る。

「……ラピスラズリ」

「なんだって?」

 声の主は、彼の足元へ音もなく飛び降りてきた。ラピスラズリのような猫だった。ただ、毛の色はラピスラズリとちがって、黒色だった。

「これ。君みたいだ」

 彼は絵本に描かれている猫を指差す。黒猫は鼻で笑って「ぼくの方が、かっこいい」と言った。

「ねえ、外の世界へ出ようと思わないの?」

 再び黒猫が同じ質問をすると、彼は首を傾げた。

「考えたことなかった」

「どうして」

「どうしてだろう?」

 彼は黒猫をじっと見つめた。左右で違う瞳の色が、真正面から見返してくる。東の門で見たような光の色と、ラピスラズリのような深い青い色。

「なあ、お前の名前は?」

「No,426ab3―F」

「それは、製造番号だろ」

「せいぞうばんごう?」

「名前だよ。お前にしかない、お前だけのもの」

 彼は黙ってしまった。「No,426ab3―F」その名前以外になにがあるというのだろう。

「じゃあ、君の名前は?」

「教えない」

 黒猫は、後ろ足で耳をかきながら言った。

「どうして?」

「名前を知らないやつに、教える名前はないのさ」

「そういうものなんだ」

 つぶやくと、何故だか妙に納得してしまった。

 首の後ろを触れてみる。冷たい感触と微かな凹凸が指に伝わる。そこにある記号を、指の腹でなぞった。

 これは、ぼくの名前ではない。

 そう思ったら、お腹の底がぎゅっと重たくなって、両肩を誰かに引っ張られているような、不安定な気持ちになった。

「では、ぼくの名前はなんだろう?」

 つぶやいて、黒猫の瞳をのぞきこんだ。答えを求めるように。

「見つけに行くかい?」

 黒猫の瞳が、にやりと笑った気がした。彼は、ラピスラズリの絵本をちらりと見た。

 ラピスラズリは、旅をする。

 気が向くまま、足の向く方へ。

「ここを出て、大丈夫だろうか?」

 彼は尋ねたが、心はすでに決まっていた。

「お前の立っている場所は、ここだけじゃないよ」

 黒猫は言った。彼は初めて、微笑みを返した。しゃがみこんで、黒猫と視線を合わせる。そっと、手を差し出した。

「外の世界へ、行ってみる」

「あいよ」

 黒猫は小さな丸い手を、彼の手のひらにちょこんとのせた。

「先に言っておくけど、外は寒いよ」

 言われて、自分の格好と部屋の中を見渡して彼は、苦笑した。持ち物はほとんど無かったからだ。それを知って、黒猫は毛を揺らして笑った。

 その夜、彼は旅人となった。

 煙の街を抜けると、冷たい風が吹きつけた。耳がジンジンとする。見上げると、群青色の夜空が、ふわりとシーツを広げた時のように、なめらかに空を覆っていた。初めて見る星が、チカチカと明滅を繰り返している。

「綺麗だ」 

 旅人の言葉は、白い息となって空へと昇っていった。たった一つの持ち物を、ぎゅっと胸に抱き寄せる。

『十二月のラピスラズリ』

 その絵本の猫のように、美しい空が先へ、先へと続いている。

「これからどこへ行こうか」

 黒猫が尋ねる。

「どこへでも。気が向く方へ。足の向く方へ」

 旅人は黒猫に笑いかけた。ぴんと長いしっぽを夜空に向けて、黒猫は旅人の前に進み出る。振り返って、

「これから、よろしくな。相棒」

 と、にやりと笑って言った。

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