祈りを

 出会いは偶然だった。ありふれたはじまりか、それでもいい、それでいい。同じクラス、別段関心があったわけではなかった。けれど席がえ、ぼくのとなりに彼女がやってきて、そしてそのとき、ありていに言ってしまえば、惚れた。なに、それは小学生の時分のことだもの、惚れたのなんだの恋愛的要素は正直なところなかった。でもそれがやはりぼくと彼女との邂逅だったわけだし、ふりかえってみればそうした要素がまじっていたことだろうと思う、そのころのぼくには理解できなかったとしても。彼女のなにかにぼくは衝撃を受け、そしてひかれていった。たぶんそれは彼女も同じだった、のだと思う。もちろんそのまま一直線にふたりは恋人関係になったわけではないさ。紆余曲折いろいろあった。けれどもそれらのほとんどはぼくかあるいは彼女かの、想い、のようなものでなんとかなったものだし、そんなふうにすくなくともぼくは信じている。同じ中学に行き、高校では別れたけれど、大学で再会して、ぼくから告白してつきあうようになって、卒業、ふたりとも就職して交際はつづけていって、プロポーズ、彼女はぼくを受け入れてくれて、結婚した。もう一度言う、何度でも言う、言葉にすれば簡単に流れていってしまうものだけれど、ぼくたちはいくつもの障害を越えてここまでやってきた。ただ偶然にまかされた出会いの部分だけをのぞいて。偶然、それだ、またしてもそれなんだ、そいつがぼくのぼくたちの人生には入り混じってくる、必然として。事故だった。誰かが特別に不注意だったわけでもなくて。せめようと思えば法律は確かに過失を分配するだろうけど。いやとにかくぼくからしてみれば特定の誰かの意図のもとそれは発生したわけではなかったのだ。責任があるだのないだのどうでもいいことだった。どこかよそのところで別の、ぼくでない人が勝手にやればいいことだった。彼女は今眠っている、それがぼくにとってのすべての事実だ。それは目覚める確証のない眠り。医者は長々となにかを語っていた、彼女の状態であるとか今後の回復の見込みであるとか、曖昧な言い回しだったけれどそれはつまり目覚めることはほとんどありえないそう言っていた。だからひたすらぼくは祈ることにした。なに恋愛なんて馬鹿らしいものだ出会う人間の中から適当に選んだだけじゃないかといったのはだれだったか、そんなもん知るかよ。ぼくには彼女しかいない彼女以外にはありえない。偶然がふたりを出会わせた、そしてまた別の偶然がふたりを引き裂こうとしている。ぼくは信じる、ぼくと彼女とを結びつけたその偶然こそがもっとも強いものであると。まったく気まぐれな事故などはねとばしてしまうぐらいに、強大なエネルギーであると。彼女は絶対に目覚める、どれだけ低い確率であっても。この広い世界で出会った、ぼくと彼女との間にはそれだけの引力があるのだから。祈りを――。

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