なんでもない日

 水のにおいがした。もうすぐ雨がふるらしかった。

 幸運なことに、あるいは怠惰なことに? ぼくにはおき傘というものがあった。

 外にでたころすでにしゃらしゃらしゃらと雨は降りだしていた。

 みなれた風景にうすい斜線がかかる。 すこしだけかすむ。

 玄関からすぐのところに彼女はたたずんでいた。

 すらりとのびた長身に、黒くつややかなロングのストーレート、彼女のすがたは実のところどこにいても目だった。

 水崎彩那。

 特別に言葉をかわしたことはない。ただ同じ教室にいて彼女はつねに強烈な存在感をはなっていた。

 おそらく彼女のほうではぼくのことなど知らないだろう。

 無口な少女だった。だれかとしゃべっているところを見たことはなかった。

 じっと遠くをみつめていた、今も。

 生い茂った木々が雨にぬれ、てらてらといろあざやかにかがやいている。

 漆黒のするどい視線はどうやらそこにむけられているようでむけられてはいないようだった。

 ひとことでいえば、空虚。

 水崎彩那が本当に何を見ているのか、おそらく誰も知らない。

 みるとはなしにぼんやりと、ぼくは彼女に視線をあわせていた。そしてどうやらぼくはずいぶんと長いことそうしていたらしかった。

 不意に――くるりと、彼女は、ふりむいた。

 その、平坦な色合いをした、瞳は、まっすぐにぼくへとむけられていた。

 心臓をわしづかみにされたような、はげしい感情がぼくをおそう。

 それがいったいなんだったのかよくわからない。

 正直なところを言ってしまおう。

 すこしだけ、ほんのすこしだけなのだけれど、そこにはたしかに恐怖の感情がまじっていた。

 単純な話として、人間はよくわからないものをおそれるものだと思う。

 なぜか?

 それが闇に通じるからだ。そして闇の中では考えられる以上の最悪も簡単に起こりうる。

 いや何を言ったところでつまらないいいわけにすぎないのだろう。

 とにかくぼくは一瞬きりだったかもしれないけれど彼女にたいして恐怖の感情をいだいしてしまっていた。

 他者の表層に浮かびあがるもの、それについて少女は非常に敏感に反応する。

 ふたたび、きびすをかえす。今度はぼくに背中をむける。

 雨は依然としてふりつづいている。

 じゃあじゃあという規則ただしいノイズが耳にとどいている。

 白のブラウスに紺のスカートの少女は、まるでかまわないと

 かのように、斜線のなかへとふみこんでゆく。

 すべてはまったく日常の範囲にかぎられたできごとにすぎなかった。

 ぼくの感じたことを別としたならば――。

 水崎彩那は雨宿りをしていた。

 ぼくはそんな彼女をみとれた。

 彼女はぼくの視線に気づいた。

 視線が交差する。

 たがいよく見知った間柄でもなかった。もとよりなんのつながりもない二人は、あっさりとわかれていった。

 一度眠りにつけばわすれてしまうような事々。

 そういうわけだから、なにかが変わっていったとすればそれはぼくのほうにおおきな責任があるのかもしれない。

 責任だって? なんだか妙な言葉をつかってしまっている。

 とにかくぼくはみずから踏みだしてしまったのだということ。

「水崎さん」

 声をかける。

 走っていた、傘をとじたまま。

 彼女は立ち止まる。ぼくは容易にそこに追いつく。

 顔をあわせることも多くの言葉を交わすこともぼくにはできなかった。

 ほとんど押しつけるようなかたちで、ぼくは彼女に傘をさしだしていた。

「この傘、よかったら、つかって」

 そして、彼女が言葉を返すより先に、僕はつよくコンクリートをけっていた。

 速度を上げる、皮膚をはげしく雨粒がたたく。

 もしかするとぼくは逃げようとしていたのかもしれなかった。

 それでも決して逃げきることはかなわなかった。

 ぼくの眼の奥には水崎彩那の表情がくっきりと色濃い輪郭で刻まれている。

 今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 それが彼女の振り返る前、背を向ける直前、一瞬だけ垣間見えた感情だった。

 あるいはかんちがいなのかもしれなかった。

 けれどもぼくにはそれを錯覚として完全に否定しきることができなかった。

 現実としてたしかな質量をもって、ぼくの脳裏に入りこんできた。

 赤信号にぼくは停止を余儀なくされる。

 そのときになってはじめてぼくは寒さというものに気づく。

 ふりしきる雨にぼくのからだはまったくぬれそぼっている。

 なんだかよくわからないけれども、いやな気分だった。

 発光ダイオードの赤い光。それとぼくとを結ぶ直線のあいだを、つぎつぎと自動車は走りぬけてゆく。

 まったくもってぼくと彼らとはなんの関係もありえない。

 かれらがぼくをどう認識しているかといえば、それはせいぜい信号待ちの歩行者というそれぐらいのことだろう。

 目の前を通り過ぎてゆく車の数を僕は数えあげていった。

 四台……五台……六台……七台……八台……。

 その鋼鉄製の箱の中には、すくなくともひとりの人間が乗っているはずである。

 二人であってもいいし三人であってもいい。

 一日のうち、ぼくはどれだけの人々とすれちがうのだろうか?

 よくわからない。

 とおりゃんせの間のぬけた旋律が鳴っていた。

 顔をあげれば信号はとっくに青へと変わっていたみたいだった。

 あわててぼくは歩きはじめる。

 ガラスにさえぎられた、ぼくを見ているか見ていないのかけっして知れない、視線を気にしながら。

 ――なによりぼくにわからないことがあったとすれば、なぜこんなことを考えつづけているのかということだった。

「ありがとう」

 実にそっけない言葉だった。

 けれども、それだけの短い言葉に、すこしだけ震える語尾に、ぼくは彼女の心の片鱗をかぎとれたような気がした。

 まったくの思い違いというのは十分あり得ることだったけれど。

 とりあえずぼくがとうとつなそのイベントにおどろいているうちに、彼女はすでにぼくの前から立ち去っていた。

 翌日の出来事。

 机にたてかけられて一本の傘だけ残っている。

 水崎彩那はいない。

 なんだか無性に笑いたくてたまらなくなったけれども、ここは教室であってそれはまずいという判断ぐらいははたらいた。

 なにもかもがそう簡単に自動的にはすすんでゆかないということ。

 そのことが愉快に思えた。

 たくさんのクラスメイトのなか、ぼくは彼女のすがたを目で追っていた、自覚的に積極的に。

 ぼくが彼女にいだいている感情はなんなのだろうか?

 恋、ではない。興味という言葉ぐらいが一番ちかいような気がする。

 それだけのこと。それだけのことのはずなのに、こんなにもぼくは楽しくてたまらなかった。

 ただいま現在、水崎彩那の奥深い漆黒の瞳は、ぼくのほうにはむけらていない。窓の外はからりと晴れあがっている。

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