今はもういない彼女のこと

 怪談といえば怪談といえるかもしれない。だがしかし決して怖い話ではない。二十一世紀型青春神話怪談風味、そんな感じ。実に微妙な分類。僕がここで「これは怪談である、そうに違いない!」と力強く断言したなら、怪談としてみなすこともやぶさかではない、というかなんというか……そういう風に扱うことを、許してもらえるとは思う。少なくとも怪しい話であることは、保証できる。なんたって僕は幽霊と出会ったのだから。

 正確を期して言い直すなら、なんたって僕は幽霊と出会ったと言えるのかもしれないのだから。あらゆる文章は君に読まれることで、初めて意味を持つ。その君が幽霊というものを信じなければ、いくら僕が幽霊と出会ったなんてことを言ったところで、まったくのでたらめにしかなりようがない。僕の場合そもそもがあやふやで、本当に幽霊とあったのかどうかわからないのだけれど。うだうだと前置きをするのはこれくらいでいいだろう。あれはいつかの夏のことだ。

 林の中、夜の道、力強くペダルを踏み込む。前輪の錆びた中心軸が、鈍く軋んだ音をたてる。急な傾斜もあいまって、足裏に伝わる抵抗は大きい。誰もいない峠の静寂に、興奮を含んだ息の途切れが、はっきりと聞こえてくる。のぼりきってくだりに入れば、今度は肌の表面を冷たい風が撫でていった。

 秋は近い。どころか夏はもう、あと二時間も残されてはいない。八月三十一日、明確なる夏の終わり。とはいっても僕は大学生で、九月一日からすぐに講義があるというわけではない。休みがつづく。それでもこの八月の末日に、押し寄せる何かを感じてしまう。どうしてかはわからない。

 実際のところ確かに、僕は今あせっている。それも理由のないあせりだ。今日のうちに僕は何かをしなければならない。その何かが何であるかはわからない。その何かをしなければどうなってしまうのかも、勿論わからない。だというのに僕の心には歴然として、そのあせりというのが居座っている。

 記憶をたどれば、きっかけは明白だ。かといって納得はできない。昼過ぎのことだ、一人暮らしをしている僕のところへ、久しぶりに父さんから電話が掛かってきた。別段、なんの用事があったというわけではない。暇つぶしの会話の中で父さんはふと「そのこと」を教えてくれた。明確に意図して僕に、「そのこと」を伝えたわけではなかったろう。正直なところをいえば、「そのこと」は僕にとっても父さんにとっても、第三者的な事実でしかなかったから。

 彼女が死んだ。

 僕が幼かった頃、両親は僕を連れて、毎年田舎へと里帰りをしていた。日帰り、しかもなぜか決まって八月三十一日、二学期がはじまるギリギリ前という日程で。父さんか母さんか、それともあちら側の親戚の都合だったのか。僕の記憶では一度だってその日付が違った事はなかった。

 なぜ僕はそんなにも明確に、八月三十一日であることを覚えているのだろう? あの頃の僕には、長い休みが終わることと、宿題が少し残っていることと――子供ながらの夏休み特有な切迫を感じていた。それもあそこには日めくりカレンダーがかかっていて、「31」という数字をいつだって見せつけていたから。畳敷きの、ちゃぶ台もテレビもない六畳間、僕と彼女が顔を合わせるのはそこ以外にはなかった。

 くだりからのぼり、のぼりからくだり、その繰り返し。針葉樹林の合間をぬって、自転車は走り抜ける。僕はただ前だけを見据えている。木々は遠く彼方へと掻き消えてゆく。今になって始めて思い出しているくせに、映像はあまりにも鮮明だ。長い時間は不要な記録を、勝手に圧縮し破損させる。破壊の過程に取り残されて、その記憶だけがひっそりと眠っていたみたいだった。

 木造平屋に年に一回、親族一同が集まり酒を交えて、どんちゃん騒ぎ。場にそぐわない子供は子供で集められて、宴会から離れた部屋へと追いやられる。遠くに喧騒を聞きながら子供たちは、親たちが帰ろうというのを静かに待つ。顔ぶれは毎年変わり映えしない、カツ兄、シンちゃん、キョースケ、ハツミ……。今となっては彼らの顔は思い出せそうになくて、名前だけが宙を漂っている。

 自転車に乗れるの? ――僕はそれになんと答えたのだろう? 前後はよく覚えていないだけにはっきりと、彼女の言葉が自分の中を浮き上がってくる。彼女はいつも部屋の隅でじっとしていた。年齢は僕と同じか少し上ぐらい。毎年本を携えていて、僕が見たときはいつも、その本をじっと眺めていた。読んでいたのではないような気がする。彼女がその本に集中したり楽しんでいたりするようには、僕にはどうしても見えなかった。

 積極的でも外向的でもない僕でも、退屈さにたえかねて時々、彼女に話しかけることがあった。視線をあげることなく、けれど無視することもなく、彼女は言葉すくなにこたえを返す。僕の記憶する限りでは、彼女のほうから話しかけてきた事はない。僕の頭の中に浮かぶ彼女の姿形は、半そでの白いワンピースの、黒髪の長い、眼鏡をかけた、体育座りのうつむき加減な、虚像でしかない。活発に動いている彼女を、僕はうまく想像することができないでいる、今も。

 青黒い闇が森の中へと差し込んでくる。最後の木々の間を、自転車で一気に駆け抜けた。澄んだ空気に水と緑、絵に描いたような田舎の風景がある。いったい今は何時なのだろうか? 夜空を見上げて時間がわかるような専門的知識なんて、僕は持ち合わせていない。ただいつだって僕を駆り立てる時間というものが、ここではどこかに遊離して、綺麗に消えてしまっているようだった。

 右足でスタンドを蹴り立て、自転車から僕は手を離す。例の親戚の家がどこにあるか、だいたいわかる。長らく訪れてはいないものの、あちらも僕の顔を見れば、思い出してくれることとは思う。けれど、そこに足を向けるつもりはなかった。別に気持ちが鈍ったとか、そういうことじゃない。僕はなんの目的もなく、なんの目的があってかわからぬままに、ここにやってきた。衝動の中でぼんやりとだけれど、平屋を訪れるというのは違うような気がしている。

 父さんからの電話を切って、僕はまず愕然とした。次いで午後の間ずっと呆然としていた。ようやく自転車を引っ張り出したのは、すっかり日が沈んでからだ。飛び乗ったときには理解することはできなくても、どこに向かえばいいのか、僕の体は知っていた。通夜も葬式も、とうの昔に終わっている。もう彼女の形はこの世界にはない。それがどういうことか、僕は明瞭に理解している。僕と彼女はもう永遠にめぐり合うことはないということだ。

 夜空は僕をゆっくりと俯瞰する。動かしようのない事実にまきこまれて、僕という存在は静かに、矮小化の手続きを行う。小さな僕、大人と子供の間、非常に曖昧な存在。モラトリアムでは足りない、非現実的な何か。ありのままで剥き出しになった僕というものは、世界の隙間に落ち込んでしまった、不定形な靄に似ている。

 涼やかで純粋な、金属音が鳴り響く。導かれるように僕は歩き出す。石の階段を登ってゆく。朱色の門をくぐる。暗く冷たい淀みへと、僕の体は引きずり出される。ひらたく広がる境内へとたどり着く。僕は大きく深く息を吸い込み、肺のすみからすみまでそっくり空気を入れ替える。血液すらもなにか青いものへと更新される。

 少しずつ自分の体が、夜に近づいてゆくのがわかった。けれども僕は忘れられない。僕と僕以外のものの間には、明確な境界線がひかれていて、そのラインだけは絶対に割ることはできない。無限に接近することはできても、完全に一致することはありえない。あたかもそれはゼノンのいう、アキレスとカメの二つように。

 吹く風に葉はこすれあい、細かな音響を作り上げる。ホワイトノイズ、純粋な雑音。限りなく人工的。一瞬だけ僕は目を閉じた。開いたときそこに青白く透き通った彼女は――いない。僕の世界は極めて現実的で、それ以外のものの入り込む隙間を、なくしている。幽霊とかそういった類のものが、本当に存在しているとしても、僕の目にはおそらく映らない。

 ザ・ロケット・ペンシルズ、ファーストシングル、ロスト・パッセンジャー。彼女は取り残された最後の乗客。たった一人の彼女を乗せて僕は――何か――を走らせる。向かうべきは決まっている。彼女しかいないのに、それでもいつもと同じところへ進んでゆく。それは誰にも求められない。僕らは日常の中を動く。それとも日常の中でしか動けないのか?

 私はもうこの世の存在ではないけれども、それでも……。僕に君を弔えというのか? 何かをするということも、何かをしないということも、すべては貴方が選択することよ。その方法もまったく決定的ではない。私が生存し活動するということは、一個の現象でしかない。貴方の中には貴方の現象が渦を巻いている。要は如何にそれと折り合いをつけるのか。わからない。それは非常にひとりよがりで、独善的な態度なんじゃないかな? 決着は僕だけのものじゃないんだ。僕たちは死者を一方的に阻害しすぎている。それが正解にしろ不正解にしろ、死を動かすことは面倒なことよ。あらゆるすべては死に反発することで、その構造を作り上げている。それをわずかでもずらすということは、なにもかもを変容させるということになるでしょう? 君は自転車に乗れるの――わからない。その答えを僕は持っていない。だから、返ってこない。永久に。

 何かがむなしく崩れてゆくことを、僕は知っている。それが大切なものであるのかないのか、そんなことはわからない。僕は首を大きくふると、空を見上げた。澄み渡った空気と少ない明りに、星の輪郭がはっきりと映っている。夏の大三角形。そいつは僕のあとをずっとつけまわしていた。今もその形は変わっていない。この世界は一個のものだ、丁寧に繋がっている。彼女は八月三十一日だけ存在する存在ではないし、明確に消失したとすれば二度と現れることはない。

 煙草は吸わない。趣味じゃない。アルコールはたまに飲むが、そう都合よくポケットのなかに入っていたりはしない。自転車に乗ろう。

 僕は石段を一気に駆け下りた。興奮した細胞のまま、サドルに飛びのる。全体重を右足にかける。すべての細胞が同時に沸点に達する。僕の体は力強くはじけ飛ぶ。錆がこすれ落ちる。僕を妨げるものはもうない。違う、たくさんある。それでもそんなものを僕は気にしてやらない。振り返っても乗客はいなかった。一人の僕のボルテージは上がってゆく。林の中へと全力全開で突っ込んだ。スーパー・トライアングル! 何を叫んでいる? わからない、知らない。それはそれとして――僕はどこへだってゆけるのだ。

 これで僕の話は終わりだ。怪談であったかもしれないし、怪談ではなかったかもしれない。いずれにしろもう語り終えてしまった。物語は僕の手を離れ、どこか別の場所へと移ってゆく。それがどうなるかなんて知らない。ただ僕にはもうどうしようもない。言葉を君へとゆだねてしまったのだから。

 物語は物語であり、あくまで表面的なことでしかない。僕の中にはきちんと僕の記憶というものがあって、それだけは動かすことができない。ひょっとするとそいつを聖域と呼んだりするのかもしれない。それでも、表層と現実とは今、君という媒介を通して接触を持った。僕本来の物語は君本来の物語と繋がりをなした。リンクの反応は至る所で行われる。人々は物語を投げあいながら、緻密なネットワークを作り上げてゆく。そこには彼女の物語も含まれている、きっと。

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