ステップイン/ステップアウト
キリサは一歩、たった一歩だけ前へと踏み込んだ。それによって彼女の世界はまったく姿を変えていた。見える。相手、そうだ、すでに敵ではない単純な相手にすぎない、その動きが見えている、捉えられる。わかってしまう、相手が何を感じ何を思い何を考えているか。おそらく、二人のあいだの距離がそうさせるのだろう。だがしかし、対面する相手はといえば見えていまい、キリサのことが。それが世界のことわりだ。距離はみずから踏みこんでゆくものでなければ決して縮まるものではない。ひどく単純な事実。
もう一歩ゆくか。それは無理だ。無謀というもの。恐怖がからだをすくませる。けれどキリサにはそれが自らの弱さとは思えない。まだある、次がある、もっと高く高くわたしは飛ぶことができる。その可能性の証左。こころがはずんだ。まったくこんなにもおもしろいことだったなんて。知らなかった。自分は今まで何をしていたのか。まるでわかっていなかった。眠っていたようなものだ。筋肉という筋肉が躍り上がる。骨がきしみをあげた。とりあえず今日のところは、これで終わり。
一本のナイフをさしだす、まっすぐに日常的な動作でもって。たしかにそれはキリサにとってなんということのない動き。けれどもそこにはすでに別の意味がこもっている、今この時この瞬間から。あっさりと心臓に突き刺さった感触、そして朱があたりにとびちって、転がっているのはつまらない肉の塊ひとつきりで、それはもうキリサの興味をかきたてるものではなくて、年のころは十をいくつかこえたぐらいの細身の少女は、腰まである長い銀髪をなびかせ、颯爽として路地裏を去っていった。そこにみずからの手による死体が転がっている、そんな事実をまったく忘れたような足どりで。
特別にそこには理由というものは存在しない。最地下領域で生き残るために手段の選択はありえない、それだけの話だ。明確に自分と他人とが区別される。いや人類やら同胞やらそんな概念すらないのかもしれない。わたしがただ一つの個体であってただその他にそれ以外の生物がある、非常に明確な、明確すぎるほどの世界観。まったくの疑いはないだろう。キリサは人を傷つけるとき殺すとき、彼女自身に痛みを感じないのだから。
裏を抜け表通りを歩いてゆく。表とはいうものの最地下領域自体が世界全体の裏側みたいなものだ。何一つ輝かしいものなどない、さびつきくすんでいる。すべてを奪われた敗者はたちつくしあるいはねそべり、ゆっくりと死が近づいてくるのを待っている。キリサの歩みはいつになく軽い。敗れたものは弱いものに等しい。かれらには視線もくれてはやらない。単なるつまらないオブジェ。この場所の風物詩のようなものだ。そんなただ生きているだけのものにいったい何を感じろというのだろう。
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