欠落
冷たい風が吹きぬけた。乾いた頬をさらってゆく。くすんだ空を雲は流れ、薄くたなびき光を遮る。海は黒く染まっていた。なにもかも、この世界にあるもの全てを飲みつくそうとするかのように、激しいうねりを見せつける。水しぶきが一つ、暗く埋もれた遠い波間に、上がった。飛散する水滴たちは寒色の空に輝きもせず、黒い世界へ消えてゆく。つづけて二つ三つ、同じ場所で水面は乱れた。
左頬には星を、右目のまわりに月を白くいぬいた、モノトーンのピエロはただよう。海水を含み、その衣装は濃く染め抜かれる。白の右手が上でもがけば、黒の左手は下へと沈む。めちゃくちゃに両腕を振り回すまで、そう時間はかからなかった。呼吸はリズムを刻まない。掠れた音を鳴らしつつ、ただひたすらに空気を求める。大きく開いた口からは海水が流れこむばかりで。一際高い波が襲う。喰らいつくして去りゆけば、なんの姿もありえなかった。不規則だけが消え果てて、動きながらに静止する――。
ふと、平らかな面は小さな変化を見せる。時間を空けて、もう一度水面は乱れた。一回、二回、三回……だんだんとその感覚は短くなっていく。白い手袋が現れた。黒い顔はふたたび灰色の海に浮き上がる。一瞬の後、道化師は口を精一杯に広く開けると、叫んだ。そして力の全てを失っていた。抵抗を示すこともなく、肩が消え、口が消え、鼻が消え、左目が消え、右目が消え、帽子が消えて――唯一残った右腕さえも、冷たい海に喰らわれる。微かな泡が生まれ、あっけなくもはじけた。空と海との境界などない。灰色一色きりの世界はずっと同じく揺れている。
何をするでもなく、何ができないわけでもなく、僕は茫漠とその光景を眺めた。コンクリートの地面にいやけがさす。そっときびすをかえした。
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