三枚目
《幽霊小道》に着くと、とっぷり日が暮れていました。
「秋の日は鶴瓶落とし」というそうですが、実感したのは初めてです。
まさか明るいうちに着けないなんて。日本の秋、舐めてました。
「構わんよ。灯りは持ってきた。
それに実際の犯行時間を検証できるわけだし」
そう言って先生が取り出したのは、本格的なガソリンランタンです。先生はこれをお供に河原でキャンプをします。川辺の澄んだ空気が鼻にいいんだそうです。
先生がランタンをシュコシュコ(ポンピングというそうです)する間、私は
この辺は地方なので街灯のない道は珍しくありません。でも住宅街の真ん中で、この暗さはちょっと異常です。怪物のように繁茂した街路樹が完全に空を塞いでいて、まるで密林のよう。街灯は梢に隠れて、明りの役目を果たしていません。さほど長い道ではないはずなのに、道の終わりが見えない暗さです。
左右を挟む古い公団住宅は、どの窓も真っ暗。住人はいないか、ほぼいないかでしょう。一階フロアの常夜灯の光が、街路樹の間から小道に届いていますが、かろうじて足元がわかる程度。秋介さんの最後の表情が、よく見えなかったのも納得です。
そして、確かに独特の空気を感じます。野木さんがそわそわしているのは、この形容しづらい、馴染みのない香りが気になるからでしょう。
でもそれは、私には覚えのある香りでした。
「この街路樹、ユーカリですね。匂いでわかります」
「ユーカリって、コアラの食べる?」
「ですです。食べるのは五百種中の十種類くらいですが」
ユ-カリはオーストラリア原産、
「そう言えば昔、どこか外国との交流記念で作られた道だと聞きました」
きっとその頃は、公団住宅も賑わっていたのでしょう。
「ユーカリの樹はどれも成長が早くて、
虫がつかないので、手抜きされやすいんですよね」
ここのユーカリは高さ10メートルほど。道幅は5メートルほどと狭く、街路樹同士も近いことから、梢が天井化してしまったのでしょう。設計者がユーカリの生命力を甘く見ていたのは間違いありません。
「あっ、先生! 鼻は大丈夫ですか?」
「大丈夫。いつも通り、元気に詰まってるよ」
「なら平常運転ですね」
ユーカリ油は薬用の効果がありますが、効果が強すぎて致死例もあります。先生の鼻炎にも悪いかと思いましたが、毒にはならなかったようで何よりです。
「では、行こうか」
先生に促され、私たちは《幽霊小道》に踏み込みました。
古く、傷だらけの石畳が、かつかつと足音を響かせます。塞がれた空、連なる街路樹の幹は
「こ、この辺りです」
ランタンを持つ先生の足が止まりました。
「じゃあちょっと、再現してみよう」
「ひゃっ!」
いきなり明りを消されて、変な声が出ました。べ、別に怖かったわけじゃないですからね!
「ここでいいんだね?」
背格好の近い先生が、秋介さんが消えた場所に立ちました。
野木さんは記憶をたどりながら、それを目撃した場所に立ちます。
二人の間は約7メートル。常夜灯と石畳の照り返しで、何とか人の輪郭がわかるくらいの距離です。
「ここで秋介さんが振り返り、闇の中に消えたんですね」
「はい。その後すぐに魔法陣が……」
「ううーん」
彼女の目の前とはいえ、暗い夜道です。闇に乗じて隠れるくらい簡単だと思っていましたが、あてが外れました。
常夜灯のわずかな明かりでも、人が動けば流石にわかります。下が石畳で足音が響くので、素早く逃げることもできません。魔法陣を書くなんて論外です。
秋介さん悪戯説は厳しいですが、誘拐説はもっと厳しいはず。この条件に加えて、秋介さんの抵抗をどうにかしないといけません。不可能でしょ、そんなの。
残された可能性は──ほんとに、《異世界召喚》?
青ざめる私をよそに、先生は身を屈め、道を調べています。
ユーカリは常緑樹なので枯葉は落ちていませんが、手掛かりが残っているとも思えません。事件から半月も過ぎているんです。
でも先生は、石畳をなで続けます。片手で鼻をかみながらずっとです。
「あぁ、こりゃあ、もしかして……」
ふいに先生が、ランタンのキャップを緩め始めました。
ランタンの燃料はホワイトガソリンです。目を丸くする私たちの前で、それがばちゃばちゃと振り撒かれました。見えませんが、音でわかります。
「二人とも、ちょっと離れて」
先生は一歩下がると、ライターを石畳に近づけました。
ボン、という音とともに、石畳に火が広がります。炎が揺らめき、落ち着くと、床に奇妙な文様が残されました。
「……これ……魔法陣……?」
「えっ?」
息を呑む野木さんに、私は驚きました。
言われてみれば、細い炎の線が円の一部を描いています。そして無数に浮かぶ火文字。石畳の傷に残ったガソリンが、謎めいた文字に見えてきました。
「先生、これは……」
「今は適当にガソリンを撒いただけだけど。
しっかり線を刻んでから撒けば、もっと魔法陣ぽく見えるんじゃないかな」
「つまり……《異世界召喚》じゃないってことですか?」
口元を覆う野木さんに、先生が頷くのが見えました。
「有用な手掛かりだけど、これだけじゃ謎は解けないね。
火文字が引火性の液体なら、事前に用意しても揮発してしまう。
君の目の前で着火できる方法も不明のままだ。
それがわかれば、彼氏くんが消えた方法も見えてくると思うんだが……」
悩みながら鼻をかむ先生の前で、即席の魔法陣が燃え尽きました。
ランタンを点け直すその背中に、私はそっと近づき、言いました。
「先生──そろそろかと」
「ああ……ぼくもそう思っていた」
灯が点るのを待ってから、私はおもむろに箱ティッシュを取り出しました。
ただのティッシュじゃありません。
特別な高級ティッシュ、《鼻貴族》です。
お値段五倍のお値打ちものですが、先生が本気を出す際には、これを使うと決めているのです。
ズビー! ズビー!
ドン引きの野木さんを置き去りに、先生が勢いよく鼻をかみ始めました。
先生は慢性の鼻炎持ちです。
誰でもそうですが、鼻が詰まっていると頭がよく働きません。
普段の先生の駄目っぷりもこれが原因です。
ですが、本気で鼻をかみ、しっかりと鼻が通った時。
それまでの不調を取り戻すかのように、先生の脳細胞はフル回転します。
その思考時間は、わずかに一分。
けれど、その一分だけは、神がかり的な名探偵。
それが私の師事する先生、花水木 啜なのです。
ズビー! ズビビー!
鼻をかむ先生の手がようやく止まり、顔を上げました。
「──通った」
宣言も
名探偵・花水木 啜──満を辞しての登場です。
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