第3話 3

 翌日、日暮里駅、行きつけのカラオケ店で英郎は仰天した。


「ななな、なんでいるんですか!」


 店で一番広いルームには気合の入った格好の台田勇気と城田玉子、昨日の花柄ワンピース姿の鳥海シェリがいた。少女は頼んだチキンナゲットをむさぼっている。


 親友がメガネを光らせる。「フフフ、実は我が彼女が遊園で連絡先を交換していて、夜に連絡があって、シロタマの家でシェリさんを匿っていたのさ」


「なるほど……え、彼女?」


「そう! 昨日、観覧車で付き合ってやったの」と、彼女が自慢げに話し、


「ああ、最後まで告白できなかったんだ」と、彼氏が自虐的に白状する。


「チャラチキって、名前負けじゃん」と、少女はぐさりと刺す。


「もう、僕はチャラくない。シロタマと結婚すると決めたから」


 ブー、城田がミルクティーを吹き出す。「はえーよ! プロポーズじゃん! 付き合ってさ、一日だよ。正確には十六時間しか経ってないし!」


「僕は本気だし、だって、わざわざ告白してくれるんだよ。そんな女性とは絶対に出会えないって。運命なんだよ、そう、ディスティニーマイハーニー!」


「重いわ~、オモチキだな~。胃もたれすごいわ~」


 と、チキンナゲット一個ぱくりする。


 カラオケ店名物、オリジナル楽曲宣伝映像が流れて、来たばかりの少年は少女に体を直角に折った。「鳥海さん、ごめんなさい!」


 同級生二人は目を丸くした。集めの茶封筒をテーブルに置いたからだ。中身は余った報酬のお金だ。ざっと四〇万弱、全額だ。


「あの、お母さんと勝手に連絡とっていて、本当に嫌な気持ちになったと思います。余ったお金全部、返します。本当に、ごめんなさい!」


 シェリは頭を小刻みに揺らし、しばし考え、片手を広げた。


「ナゲット、おごって。五人前。それで許してあげる」


「え、五人前?」


「あ!」と、少女は何かを思い出したのか、黒目を大きくした。「長崎君、勝手に夢インタビューを小説にしたでしょ? シロタマから聞いたの」


「あ!」と、少年は何かを思い出したのか、また体を曲げた。「ごめんなさいっ!」 


 少女は片手を追加する。「ナゲット、十人前!」


「いやいや、シェリちゃん、お店のナゲット駆逐する気?」


「だって、美味しいんだもん」


 五種類のスパイスが利く香ばしさに三種類のソースがやみつき、とポスターが貼られている。


 茶封筒を手に取った親友は語りかける。


「なんというか、ヒデローは打算的な人間じゃないことは付き合いの長い僕はわかるけど、こんなにお金もらっていたとはね。もはやバイトのレベルじゃないよ」


「あの人からいくらもらってたの?」シェリが尋ねる。言い方には辛味があった。


「二〇万円。でも、初めて会ったときに断った……全部、言い訳だけど」


「まー、でも、シェリちゃんがあのAliceだもん。そら、お母さんも心配するよ」


 中立的な言い方をするのは城田だ。「それは、わかっているつもり」


「親子関係は難しいからね。僕の両親なんか、来年離婚するからさ」


「チャラチキの?」ナゲットの手が止まる。彼女の表情も固まった。


「ずーっと、仮面夫婦でさ。僕としては、都合のいい子供の仮面を外せるから、気が楽なんだけどね。ショックと言えばショックなんだけど」


「台田、そんな大事なことをなんで?」と、未来の妻が言葉を選ぶ。


「プロポーズしたじゃん」と、おどける。そんな強がりな姿に彼女は観覧車で告白した自分の覚悟を試されている気がした。「そうか、わかった。結婚もしてあげる」


「えー!」一番驚いたのは英郎だ。「カラオケ店でいいの? プロポーズだよ? それこそ、千葉のお城でやったほうが――」


「別にいいじゃん。見栄を張らずに、一番信頼できる友達の前でするのもさ」


「そうそう、足立クオリティだよ。二人は僕たちの証人ね。婚約届の署名よろしく!」


 ここ荒川区だけど、婚約者が反論すると、二人の痴話げんかが始まった。


 鳥海シェリが笑うと、三人も大きな口を開けて笑いあった。


 ただ、カラオケ店のモニターがランキングを示すと、四人の耳には聞き覚えのある声が届いた。休止中の覆面アニソンシンガー、Aliceの歌声だ。


 追加注文の店にあるだけのチキンナゲット七人前を店員から受け取り、英朗は恐る恐るシェリに尋ねた。「今後、どうするの?」


 少女は神妙な表情で伝える。「ゲリラライブで引退しようかと思う」


「えー!」少年が壁に激突するほど驚嘆する。だが、彼女の表情は暗いままだ。


「声がね、戻らないの。だから、ゲリラライブでサプライズ引退かなって」


 シェリの肩をさする城田が擁護する。「昨日の夜に話したの。とはいえ、私は大人の事情がよくわからないから背中を押すのも、責任とれないし……ただ、友達として決断したことはすごいなって思う。プロとしての意地、なんだろうなって」


「じゃあ、ゴスロリを世界に広める運動を?」


 こくりと頷き、ナゲットをぱくり。「Aliceの活動をしているうちに、ファッションに興味が沸いて、ちゃんと海外で勉強したいなって。でも、Aliceで稼がないと……」


 シェリは決心する。コンタクトレンズを外し、真剣な眼差しで三人に語り掛ける。その瞳は黒ではなく、クレバスのよう鮮やかな水色だった。


「私ね、母子家庭なの。お母さん、フィリピン人で稼げる仕事が水商売ぐらいしかなくて、スナックで雇われママをやっていたの。そこで、小学校の頃から歌わせてもらっていて、たまたま来たおじさんが音楽関係の人で、声がいいからって、オーディションを勧められたんだけど、この目で身体が小さかったから覆面でカバー動画を出して、Aliceの活動が始まって……あれ、何を話したかったんだっけ……ごめんなさい!」


「いやいや、謝らなくていいって! 話してくれてありがとう、シェリちゃん」


 英朗は一ファンとして、Aliceの経緯を知れて嬉しい感情を抱くも、昨日の鳥海マリアとのやり取りが過る。『シェリのために私は稼ぐの!』


 自分には理解できない、外国人の母親が子供を抱えて日本で暮らす苦労があったと娘の瞳から思いを巡らせる。日本人であろう父親のことは聞けなかった。それは、友達二人も同じ思いだった。自分たちにはわからない徒労感、当事者にしかわからない孤独感、高校生の自分たちにはナゲットの油よりも重いことだけはわかる、心がもたれていく。


 シェリは茶封筒を固く握りしめた。「Aliceをやり始めて、夢のように大金が手に入るようになった。コンビニのナゲットだって買えなかった日が信じられないくらいに」


 と、物寂しそうにナゲットの山を見つめる、「でも、お母さんのまかないが美味しかったんだよね。ナポリタン、魚肉ソーセージのやつ。忙しくて、作ってくれないけど」


 強張る表情で笑った。不器用な笑みから涙がぽつり。


「どうしたら……どうしたら、いいのかな……」


 少女の感情が溢れ出した。英朗は言う、「ライブで決めればいいよ!」


「え?」その言葉は確信めいていた。「一ファンとして、言わせていただきますが、Aliceの声が少しだけ変わっても、ファンはついていきます! たとえ、覆面であっても、顔を出しても、声がかわっても……俺は、Aliceで救われたんで!」


 少年は中学時代のことを話した。マンガ家を目指していた話だ。SNS騒動後、彼の心を癒したのは目の前の少女の声だった。そして、自分の世界を表現する方法を考え、小説家を目指した。そして今は、自分の絵で自分の世界を表現できるよう進路を決めた。


「そんなことが、長崎君にあったんだ」


「あのときのヒデローは学校にも行けなかったからね。お母さんには仮病や反抗期だって嘘ついてまでさ」


「行けなかったとしても、一週間じゃん」


 自分は運がよかったと振り返る。Aliceの歌をネットで見つけなかったら、今頃どうなっていたか……母親と本音を話せなかったかもしれない。台田と城田が結婚しなかったかもしれない……鳥海シェリとも出会えなかったかもしれない。夢インタビューもしなかったかもしれない……考えれば考えるほど、自分は運がよかったと思える。


「ゲリラライブで決めればいいと思います! ゴスロリファッションを海外で広めたかったら、活動しながらやればいいと思いますし、声優がやりたくないなら、ファンが代わりに事務所へ抗議しますし」


「それだけはやめて」


「はい、やめます!」


「なんかさ、ヒデロー、鳥海さんへの態度も口調も変だよ?」


「憧れのお方、ですから……」


 正直、どう話せばいいかわからない。昨日、鳥海シェリの正体がAliceと知ったばかりだ。今まで通りに話そうにも、ファンであるプライドが邪魔をするのだ。


「友達なんだから、タメ語でいーんじゃない」と、城田がナゲットを渡す。


「うん。友達だし、二人みたく話して、ほしい、かな」


 両手をもじもじ、少女はちらりと上目遣いで頼んだ。


「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」


「長崎、固い!」と、鬼の教官から注意が飛ぶ。「じゃあ、シェリは」


「呼び捨てはやめて」


「じゃ、じゃあ、なんてお呼びすれば――」


「ハハハハ、傑作だな」と、親友がメガネを床に落として腹を抱えて笑い出す。


「そういえば、台田は夢インタビューやったんでしょ? 私もやってみたいから、今度、四人で代々木公園に行こうよ」


「じゃあ、今日しようよ」 


 少女が提案するも、「道具ないじゃん」と英郎が指摘する。


「竹下通りの百均で買えばいーんじゃない?」


「さすが、我が妻でございますね」メガネをキラリ光らせた未来の夫が立ち上がる。


「ついでに、ゲリラライブの場所を下見しようよ。どこでやるの、シェリちゃん」


「代々木公園の野外ステージだよ」


「え?」三人は顔を見合わせた。「代々木公園の野外ステージで、ゴスロリ衣装で、夕方六時からやる予定なんだよね。一週間後に」


「あの……全部、つながっていたんですね。てか、下見済みじゃん」


 長崎英郎は夢インタビューの目的を察した。初めて会った日の紙を思い出す。


「うん。ゲリラライブをやるから、下見にと思って。あと、ゴスロリファッションに慣れとかないといけないし……でも、夢インタビューは本心だから。いろんな人の話を聞きたかったから。やってよかったと思っているから」


「それは、俺も思っているよ。夢インタビューのおかげで、胸張って、人に何がしたいか言えるようになったし」


「すごいじゃん、夢インタビュー。ほら、話の続きは電車でしよーよ!」


 天真爛漫な女子高生に言われるがまま、連れて行かれるまま、四人は代々木公園に向かった。




 四人がカラオケで顔を合わせる二時間前、朝の八時――


 西新井大師から徒歩五分圏内、一軒の住宅で事件が起きていた。


 発端は父の一言だった。『バカなんだから、やめちまえっ!』


 その言葉はリビングで朝食を取っていた息子を爆発させるには十分な火種だ。心の導火線から一気に火が付き、頭脳の中にある火薬庫を燃やしに燃やした。


 子供はリビングの椅子を持ち上げ、力いっぱいぶん投げた。 


 父の父の後頭部に大当たりし、制帽が吹き飛んで倒れ込む。


『クソヤロッ! ブッコロッ!』両手で、フォークで思い切り胸を刺した。


 叫んだ母親は夫が務める警察署に電話しようとするも、息子は奪った銃で背後から発砲した。その銃声は隣人の耳に届くも、何か行動を起こさせるものではなかった。銃声を聞いたのが初めてだったからだ。


 その少年は銃と包丁をバッグに入れ、家の有り金全てを持って家を出た。


「代々木公園だ。Alice殺して、俺も死ぬしかねぇな……へへへへへ」


 


 去年の四月初旬――とある高校の教室だ。


『根山。お前は何位だった?』


 横からさりげなく訊かれた。根山礼司は言葉を濁す。


『数学が全然ダメだった。だから、中の下だよ』


『そっかー、残念だったな。真鍋は?』


 用件はそれだけだった。背中を向けたそいつは別の席に話しかけていた。


『俺は三十二位。及川は?』


『マジか。負けたわ。五〇位だよ』


『だっせーな。何がダメだったんだよ』


 入試結果を机の引き出しにつっこむ。一学年内で彼より下はいない。二百人弱のピラミッドの最下層かつ最底辺からスタートした。


『すごいわ! レイちゃん、また校内一位だなんて!』


 中学時代、期末試験の結果に母は喜んだ。


『中学のテストなんて意味ないって。模試で頑張らないとさ』


『このままなら、ロリコー行けるかしら? 塾の回数増やさないと――』


 中学時代はいつもトップだった。都立入試模試でも毎回五〇位内に名前が載った。クラスでも家庭でも、彼は崇められた。彼にとって快感だった。


 運動も、勉強も頑張れたのは母に褒められたかったかもしれない。


 父は寡黙な人間だ。仕事は正義感を活かした西新井の警察官で、家にいるときはリビングで寝ており、母は避けるよう外出していた。会話という会話はなく、家族旅行は彼が中学入学のときに、北海道に行ったきりだ。三人家族だ。ペットは犬がいたが、五年前に死んでしまった。


 だが、彼はそれも家族の形だと思った。大人になろうと決めていた。


 自分の仕事は勉強で母は家事、父は治安を守ること、つまり分業制――。


『あのさ。塾もいいけど、欲しいものがあって』


『またCD? Aliceのアルバム出たものね。他には?』


 今思えば自分の仕事は勉強ではなく、行儀のいいペットだったかもしれない。


 お手をすれば小遣いがもらえ、お座りをすれば好物が出てくる。


『そーなの! またレイ君が一位なの! ショー君はどう?』


 母は人の上に立つことが快感だった。近所の主婦同士で近所のファミレスに行っては、息子の自慢話を聞かせていたようだ。優越感という遺伝子は、彼も受け継いでいる。


 学年一位というピラミッドの頂点は気持ちがイイ。自分より上はいない。見下ろせばみんなが自分を崇めてくれる。母も褒めてくれる。父は無視だが。


 いつしか、さらなる上を目指すようになった。好きな歌手の歌を励みに見えない敵と戦い、視力を代償に合格を勝ち取った。


 しかし、全国の秀才と天才たちは彼の上をスキップで軽々超えていく――。


『あー、また負けた。真鍋って、頭いいんだな』


『及川がバカなだけだよ。約束通り、牛丼おごれよ』


 いつしか、彼はクラスで一人になっていた。どんなに努力しても、どんなに時間を割いても、天才たちは彼を見下ろすようにせせら笑う。


 グ・ローリー高校の実態は弱肉強食、全国で一番の優越感を目指す校風なのだ。


 自分と同じタイプの人間はいる。でも、その輪には入れなかった。


『俺は落ちこぼれじゃない』という怨念めいたプライドが邪魔したのだ。


 休み時間は机に顔を埋め、イヤホンの世界で疲れた心を癒し、救いを求めた。


 ――Aliceだけが救いだ。Aliceだけが……。


 家庭でも孤独だ。母は外出する頻度が減り、リビングでテレビ番組を見るようになり、『見ればバカになる』といっていた、ワイドショーが日課だ。


『不倫キャスターが偉そうにッ! ナニよッ!』


 母は近所から噂されていた。息子が進学校で苦労しているのは、近所の主婦にとっては格好の獲物らしい。『礼司、あんな男と同じ人生を歩みたいの?』


 父はあいかわらずだった。家庭のことは放置し、休みの日には同僚と野球観戦に出かけるようになった。とても楽しそうだった。母はそれが憎くて憎くて仕方がなかった。


『勉強しかないでしょ? 勉強で落ちこぼれたら、何が残るの?』


『うっせぇッ! 俺には音楽があんだよ、ブッ殺スゾッッ!』


 ペットが懐くのはエサをくれるからだろう。もしも飼い主がエサをくれなければ、ペットはあの手この手で暴れ狂う。エサがなければ死ぬからだ。


 母は教師に助けを求めた。しかし、彼らは平然と対応する。


『お子さんは我が校の風土と合わないのでは? 転学を考えてはどうです?』


 幸運なことに父の転勤が決まった。警察官が足りないから、だそうだ。


 この街から出られる、と母親は最後まで自分が可愛くて仕方がなかった。


『転校して、やり直しましょうよ』


『……………………………………』


 会話などない、無言の世界。彼の世界は美しい旋律、メロディーの中にだけあったのだ。


 家庭内別居など生ぬるい、家庭内離散だ――。

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