第3話 2
結局、あらかわ遊園にシェリはいなかった。
「――ただいま」
憂鬱な気分で玄関のドアを開けると、母が仁王立ちで彼を出迎えた。
「英郎。私に何かいうことはない?」
母の桃実が彼の名前で呼ぶときは、彼の隠し事がバレたときだ。
ないよ、そっけなく答えた。母はダイニングテーブルに置いた彼の通帳を見せる。
そのページには、《振込 トリミシェリ 十万円》とある。
これは鳥海マリアが振り込んだ金額だ。報告の報酬だ。もっとも、彼は彼女に口座番号を教えていないが、娘のシェリの通帳を管理している母は、娘がカードで彼に振り込んでいることを知り、その記録を利用した。母娘で総額五〇万円は振り込んでいる。
「このお金はなんなの? 説明して!」
犯罪を疑う母の追及に、息子は言葉を濁す。「母さんには関係がないって」
目線を逸らすまま、自室に戻ろとするも、腕を引っ張られた。
「大金じゃない! このタブレットも、この服も、最近買ったものでしょ!」
テーブルにはシェリからの報酬で買った品々が置かれていた。
「人の部屋に勝手に入ったのか?!」
「こんな大金が振り込まれているんだもん! 母として、当然よ!」
「母親だからって、やって良いことと悪いことぐらいあるだろ!」
「そんなことはどーでもいい! 私は大金を振り込んだ、この《トリミシェリ》って女が知りたいの! 誰なの! この怪しい名前は!」
好きな歌手をバカにされたのだ。母親は鳥海シェリの正体がAliceだとわからないが、息子は知っている。「怪しくねーよ! 誰でもいいだろ!」
「よくないわよ!」女の勘はとても厄介だ。「――まさか夏休みだからって、この女に危険なバイトでも頼まれたの? 暗号通貨とか? その報酬がコレ? それでこれらを買ったってこと? ねぇ、英郎。答えて!」
「うるせーよッ! 少しは黙ってくれよッ!」
息子の怒鳴り声は、母を黙らせた。自分より背が高くなった子供は、もう立派な男だった。母はダイニングチェアに座る。すすり泣く声が彼の背中に刺さる。
「私は、ただ心配なだけ……あなたが危ないことをしてないかって」
「してねーよ。何も……」
「だったら、どーいうお金かぐらい――」
「かーさんは、自分が心配なだけだろ!」
そのとき、彼の中で何かが壊れた。「面倒なことは俺に丸投げで、自分は仕事しているからって家事もロクにしない。俺を心配しているフリして、本当は自分を心配しているだけ。俺のことなんて、考えてないくせに、こーいうときだけ母親ぶんだろ。もう、やめろよ! もう、自己満足の道具に俺を使うなって! 父さんが自殺したのも、あんたのせいだ!」
パチーン! 聞こえたはずの音はなく、痛みだけが脳へ伝った。
その瞬間、彼は家を飛び出ていた。「英郎、待って!」
母の声はドアに突き刺さった。
行く当てはどこにもないけれど、この虚しくて痛々しい気持ちは大嫌いだ。
自分でも、母親に言って良いことと悪いことぐらいわかる。
でも、抑えられなかった。体内のどこかにたまっていた凍っていた毒素があふれた。
家にいるのに、家族のはずなのに、伝わらないものがあった。
だからこそ、言葉にしなきゃいけないときもあった。
彼の場合、それが今だった。もう、母親に我慢したくはなかった。
本当は同級生のようにアルバイトしたかった、小学校のときは野球をしたかった、中学校の夏休みはハワイに行きたかった。でも、言わなかった。
進路相談で話したことも、ずっと言えないでいた。俳句程度の文字数でも、彼には罪を告白する罪人のよう、冷たく重たい鉄の枷を自分にはめ、口にはできなかった。
本音を隠し続ける自分をいつからか大嫌いになった。自分のありのままを出すことがいつからか怖かったのだ。担任にも、親友にも、母親にさえも、心にある秘密の部屋へ招き入れることができなかった。鳥海親子が長崎母娘と重なったのかもれしれない。
鳥海マリアに言われた、『口だけの親』を否定できなかった自分が情けなくもあるが、納得してしまった自分もいた。本音を母親に話していたら、反論されただろう。
自分の世界を、絵に閉じ込めることで逃げていたかもしれない。
でも、もう、自分の気持ちに嘘はつきたくなった。だから、爆発してしまった。
日が沈み、六時のチャイムがとっくに過ぎた頃だった。
「――ヒデローじゃないか! どうして大師に?」
「勇気こそ、なんでここに?」
英郎は西新井大師の境内、池のほとりに座っていた。スマホが母からの電話を知らせるも、彼は出ることはなく、電源を切っていた。気恥ずかしい手前、語気も強くなる。
「――家と反対方向じゃん」
「それはヒデローにも言える。僕は夕飯の弁当を買いに行ったのさ」
と、弁当屋のビニール袋を見せつける。「母親が友達と旅行だから、夜は父親の世話をしなくちゃいけないのさ。大師にきたのは、ここが通り道だから」
あらかわでの、昼間の話が過る。勇気の両親は彼が高校卒業後に離婚するらしい。
「――で、ヒデローは?」
「俺は……」空は暗い。口を結んでも、隣に座った相方は笑っている。
フン、乾いた笑いに相方が目を細めたとき、
「母親とケンカした」ポロリと本音が転がった。
「へー、珍しいね。仲良し親子でもケンカすんだ」相づちめいた言葉に応じず、
「父親がちっちゃい頃に死んだって、話していただろう? アレ……自殺なんだ。父さんのことで、かーさんを責めちゃったんだ」
相方の顔は見たくない。いっそのこと、最低だね、と責めてほしかった。
「話してくれて、うれしいよ」
待っていた言葉とは正反対だった。「うれしいってなんだよ」
「いやいや、そーじゃなくて。――ヒデローがそんな大事なことを教えてくれるなんて、長い長い友達として、嬉しいじゃないか」
「変な奴だな」ありがとう、が出てこなかった。
「そーかな? 遊園で僕が離婚のことを話したとき、たしか、ヒデローも同じことを言った気がするけど?」もちろん記憶にある。「あれ、そーだっけ?」
たぶらかすも、矛盾する自分がおかしくなった。二人は笑った。その声に池の鯉が彼の元に近寄る。勇気が弁当のから揚げを抜き、池に放り投げると、鯉が群がった。
必死な鯉がおかしくて、二人は大笑いした。
しばらくして、相方はいう。
「家に帰りなよ。そして、謝るんだ。僕は長崎母娘のファンだから」
「……ありがと」今度は出てきた。「明日、カラオケ行こう。その前に鳥海さんを見つけないといけないんだけど」
「じゃあ、シロタマに連絡しとくよ。四人でカラオケか、青春だなぁ♪」
去っていく親友に、台田勇気は大きく手を振った。
『勇気君! 英郎が、英郎が……』
本当は彼の母から家出したと電話があったのだ。英郎の性格を考えれば、渋谷や池袋などの家出スポットには行かない。近くの公園か、河川敷辺りをしらみつぶしに向かおうとした矢先だった。
『おっと、あっけなく発見!』
だが、そのまま声をかければ怪しまれる。そこで、すでに夕飯の弁当を買っていたけれども、弁当屋で明日の分を買い、偶然を装って近寄ったのだ。
勇気は鼻歌交じりに自宅へ帰っていく。鯉たちもまた、大きな音を立てた。
が……ちゃ。ゆっくり、ドアノブを回す。
イタズラした子供みたく、忍び足で肩も背中も丸めて家に入る。
だが、その小さな背中を、
「おかえり」とダイニングチェアに座る母は気づいた。
ぬるくて甘い、メレンゲの泡のようなふわふわした声だった。
バカな恥じらいを押し殺し、彼は振り向く。
「母さん、バカな息子で――」
「英郎、ごめんね。ちゃんと見てなくて」
母が先に謝った。大粒の涙が流れ出す。「お父さんが死んで、私なりに子育てしてきたけど、そんなに苦しんでいるとは気づけなかった。母親失格だね。ほんと、ごめんっ!」
「違う。本音を言わなかった俺が悪いんだよ! 責めてくれよ!」
「本音を言わせない親の方がダメじゃない!」
まるで同じ経験をしてきた言い方に、彼は生唾を飲み込んだ。
母は写真を見つめていた。物心つく頃、三人で夢の王国のお城で記念撮影したものだ。「英郎の言う通り……あの人、自ら命を絶った。私が――」
「母さん、言わなくていいって!」
「ダメだよ。あと少しで、英郎は大人になるんだもん」
母は向かいに子を座らせ、語り始めた。「私が見ていなかったから、豊さんはこの世を去った。仕事で悩んでいたとき、助けてあげられなかった。ニコニコ明るくしてればいいと思っていたけど、本当は違うよね、相手が辛いときは、勇気をだして訊かないとダメよね。それなのに……また私は、繰り返そうと、したから……」
「わかったよ! もう、いいって!」
「よくない……よくない。私は、英郎が私の子だからって甘えていたの。何もいわなくても、伝わるもんだと思っていた。家のこともそう。でも、それは間違い。ちゃんと伝えるべきことはあったんだよ……」
「何言ってんだよ! 母さんはすごいよ! 一人で俺を育てている! 夜勤が多くても頑張っているじゃん! だから、そんな悲しい顔しないでよ……。親にそんな顔させたら、俺の方こそ子供失格だよ……」
母は子の涙をすくい、誠心誠意、思いを言葉にゆだねた。
「英郎。母さんに、何か話したいことはない?」
子は鼻をすすり、「俺……自分の絵で自分を表現したい」と答えた。
「いいじゃん。どうしていわなかったの?」
「母さん……仕事大変だろ? だから、高校卒業して、公務員になろうかと考えていたんだよ。でも、あの通帳の、鳥海シェリって子に頼まれて、代々木公園で色んな人に夢を聞いていたんだ。そしたら、やっぱり、諦めたくなくて……」
母親は中学時代のSNS騒動を思い出した。マンガ家に謝罪へと母親一人で行ったときのことだ。彼は、『マンガ家を諦めないでほしいんです』と言った。息子にも伝えたが、どうやら、伝えた気になっていただけだったようだ。
「英郎は、どーしたいの?」と、改めて尋ねた。
子は二度深く息を吸い、本音をぶつけた。
「専門学校に行きたいんだ。もっと絵のスキルと業界の内情も勉強したい。でも、数百万なんて大金うちにはない。だから、働きながらやる道もあるんじゃ――」
母は写真立てを開けた。中から、一通の通帳が出てきた。
「この中にはね、お父さんが残した生命保険があって、大学四年間の学費分はある。だから、英郎はお金のことは気にしなくていいのよ」
「今まで、ずっと隠していたの?」
「うん。うちの家計を管理させていたでしょ? これを教えたら、使うかもしれないから黙っていたの。今まで、ごめんね。もっと早く言えばよかったね」
「そっか……そうだったのか」
高層ビルが崩れるよう、自分があれこれ考えてきた時間と苦労が崩れていく。
バカらしくて、アホらしくて、腹底から笑いがこみ上げてきた。バカホーだ。
あははは……笑いだす子に母も笑っていた。
しかしながら、創造と破壊は表裏一体だ。崩れ去った跡地から、思わぬ光が彼の心を照らす。「――母さん、父さんのお金でアニメ映画を作っていい?」
「アニメ映画? でも、全然足りないでしょ?」
「父さんが生きた証として、少しでも使いたいんだよ……ダメ、かな?」
小鳥が巣立っていく錯覚を覚えた。でも、爽やかな風が吹くよう、飛び立とうとする我が子にエールを送る。「いいよ! 英郎。ガンバ♪」
「が、がんば?」子はきょとん顔だ。「我が息子よ、ガンバ♪ そのお金は好きに使っていいよ。でも、ギャンブルとか、女とか酒とかはナシ! 自分の未来のために使って! それが、私と豊さん、あなたの両親との約束よ」
「う、うん。約束する。絶対に、バカホーなことには使わない!」
「バカホー?」母は苦笑だ。「なら、誓約書を書きましょう。善は急げって言うし♪」
桃実は英郎からノートのページをもらい、ボールペンで書面を作成した。
そして、彼に渡す。英郎は丁寧に自分の名前と拇印を押した。
「これで、一件落着かな?」
「あ、うん。でも、そしたら専門に行く学費ってどーすればいい?」
「あー、そーいう問題が新たにあるか……。でも、今日話さなくても、私たちは大丈夫じゃないかな? ゆっくり、青野先生とも相談していきましょう」
と、母は席を立った。どうやら風呂に入るよう。
子も立ち上がり、頭を下げた。
「母さん、ごめん! ありがとう!」
――おいおい、また泣かす気かい、この子は……。
「よし! 明日は非番だし、久々に豪華な夕食を作ってあげましょ。じゃ!」
俯く母はすすり泣く音を隠すよう、勢いよくドアを閉めた。
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