第3話 1
信号待ちの車中から、乗るはずだった路面電車が見える。
車中の長崎英郎は向かい、スーツの女、鳥海マリアからの説明を待っていた。
「――島野、ダメね。シェリ、電源切ったみたい」
と、運転席の部下に告げたマリアは、向かいの三人へ顔を向ける。
鎖骨に触れる紫に近い黒髪がなびくと、真珠のイヤリングが照明に反射して白光った。
遠慮がちに台田勇気が尋ねた。「あの、シェリさんはどこに行ったんですか?」
だが、隣の英郎が質問を重ねる。「どーいうことか、ちゃんと説明してほしいです」
怒りを堪えた言い方に、隣の親友は顔を引っ込めた。
マリアが両脇の、英郎の友達にもわかるよう自身の名刺を渡す。
「そうね。私の娘、シェリは家出中なのよ。先週、ちょっと仕事で衝突して、家出といっても、大げさじゃないんだけど……」
運転手が煮え切らない上司に代わった。
「チーフ。ズバッと言いましょう――名刺にも書いてある通り、僕らはレコード会社の社員。つまり、シェリちゃんは《Alice》って覆面歌手の中の人なんだよ」
「ええええっ! シェリちゃん、Aliceなんですか!」
名刺を読む城田玉子が驚く。女上司は説明の順序を部下に壊され、重たい息を吐く。
「シェリは歌手のAliceで、私はそのマネージャーで、運転手の島野は補佐です」
「補佐というか、ほぼパシリだね」
「でも――」勇気がいう、「Aliceは休止中ですよね? シェリさんがAliceだって証拠はありますか? なんか、僕らを車で拉致った可能性も無きにしも非ずで」
マリアが自身のスマホを出し、仕事用のアプリチャットを見せた。音楽プロデューサーや作曲家など音楽関係者と新曲、近日行うゲリラライブに関するやり取りで、十分に信ぴょう性があった。「え、ゲリラライブって、デマじゃないんですか?」
英郎の問いはファンを代弁するものだ。
「ライブは本当よ。掲示板の情報は私たちのマーケティングチームが流したの」
両脇の男女は興奮していた。覆面歌手のAliceは、動画配信サイトの楽曲総再生数は五億万回を超える大人気アニソンシンガーだ。現代社会に傷ついた人々を癒し、泣いている赤子をあやす子守歌が似合う、その歌声は世界中の人々を魅了していた。
「シェリさんがAliceの正体だなんて! 聞いたか、ヒデロー! 君はとんでもない子と、あんなことやこんなことをしてたんだぞ!」
マリアが青ざめる。鋭い目つきは鷹のようだ。
「あんなことやこん……長崎君。うちの娘に何を――」
「勇気、しゃべんな! ――『報告』の通りです」
「長崎、報告ってなに?」何も知らない二人に伝える。「学校でこの人と会い、そのままカフェに連れていかれて、『娘との行動を報告してほしい』って頼まれた」
「へー、そんなことが……」
今振り返ると、休止中の大人気歌手が一人で勝手に行動されたら困るから監視を頼まれたと理解した。他人の家庭のことだからと領分をわきまえていたが、英郎は鳥海シェリを新人声優か何かと思っていた。本人に尋ねるのは気が引けていたが……
「それより」英郎が怒気を強めた。「俺は、あなたのせいでシェリさんを裏切ったと思われたんですよ。どーしてくれるんですか?!」
「それがなにか?」マリアは小声でも、トゲある言葉で返す。
「なにかって……申し訳なかったとか、ないんですか?」
「ないです。お金渡したので、それが契約です」
「契約って――」
「車に乗ってもらったのは、契約終了を告げるため。もう、君に頼むことはないわ」
疑問と後悔の海を泳ぐ彼の目を、バックミラーで覗いていた島野がいう。
「君に頼んだのは、シェリちゃんの行動を知りたかったから。復帰のサプライズゲリラライブだから、彼女のメンタルコントロールが大事なんだよね。とはいっても、僕らのことを汚い大人のような目で睨んでくるから、なかなか本心がわからなくて。ほら、僕と違ってさ、シェリちゃんって口数少ないじゃん。だから、なかなか――」
「あの――」玉子が訊く。「そもそも、シェリちゃんはどうして家出を? ゲリラライブとなにか関係があるんですか?」
「家出は土曜日にチーフと大ゲンカしたからで、秋冬クールの魔法少女アニメでさ、シェリちゃんにゲリラライブで復帰させた後、声優をやらせようとする勢力が会社にいてね。本人は感受性が強くて声優が苦手らしいんだけど、僕はできると思うんだよね」
「島野、しゃべりすぎだ」さーせん、とアクセルを踏む。
「島野さん、休止したのはなぜです?」と、メガネの少年が尋ねる。「あー、ポリープ手術だよ。いろんな歌を歌って、喉にできちゃったみたい。あと、ストレスかな」
「島野、ダマレ」さーせん、とハンドルを握る。
「ペラペラ内情をバラすな、バカッ!」
怒ると額のしわが浮かぶらしい。委縮する両脇を気にせず、英郎はマネージャーを凝視する。マリアは視線を合わせず、バックミラー越し、もう一度運転手を睨む。
「去年の春頃ね。シェリが悩み始めたのは。――あの子、自分なりに主題歌の作品を読んで解釈して、いろんなジャンルを聴いて努力してきたけど、ネットで批判的な意見を知り、自分の歌い方や覆面で活動していることに自信がなくなって……」
荒い運転のトラックが前方に割り込んできた。
「しかも、作品のキャラクターに感情移入しやすく、メンタルが落ちちゃって。『アンチなど気にするな』と社長がいっても、本人はどんどん迷宮入りで、新曲のレコーディングをすっぽかしてしまうこともあったわ。そうしているうちに、声の調子がおかしくなった。検査で喉に小さなポリープを見つけて、昨年末に休止した。でも、手術してから声の感覚が違って、覆面やめて顔出して、活動しようって事務所が決めたのよ」
「その復帰で、ゲリラライブでど派手にやるってことですか? でも、シェリさんの性格だと、ロックバンドみたいな感じ、合わないと思いますけど」
鼻で笑うマネージャーだ。「あの子とあなたは、住んでいる世界が違うの。求められているうちが華なの。男の、日本人には理解できないでしょうね」
英郎は突き放された感じがした。鳥海マリアが日本に長年在住するフィリピン人だと思い出す。外国人と日本人の違いだろうか、彼の知識ではその事情はよくわからない。しかしながら、さきほどの娘が母親に捨てたセリフを思い出した。
「『お母さん、お金で変わったよ!』って、シェリさんと向き合ってきましたか?」
ギロリ、母親は目で敵意を、不満を表す。
「あなたに何がわかるの? 高校生でしょ?」
「母親の気持ちはわからないです。でも、子供側の気持ちは――」
「これ以上は話さないわ。さ、話は終わった。島野、車を停めて!」
ドアが開いても、英郎は動かなかった。観覧車でシェリと話したことと、マリアが話したことを照らし合わせていた。まるで問題文と正解を重ねるように。
『――長崎君は、生きる喜びって感じる?』
係員が扉を閉めてすぐのことだった。
『重たい話題だね。ちょっとは、「変なことしないで」的なお約束の流れはないの?』
『ないよ。バカホーだなぁ、もぉ……』
たぶん、バカとアホの意味なんだろう、そう彼は解釈した。
『生きる喜びか……。絵を描いているときぐらいかな? あとは回転寿司で大トロを食べているとき、とか?』
『単純でいいね』
バカにされたよう、ムッとする英郎は皮肉っぽく聞き返す。
『じゃあ、鳥海さんの生きる喜びってなんですか? あれはナシだよ、山盛りのチキンナゲットを食べる、みたいな――』
『わたしは……ないかな。だから、聞いてみたかった。ごめんね』
『謝らなくて、いいけど』上から園内を見渡す横顔は、美しい黒髪が隠しているけれど、悲しそうに笑っていた。
『あのさ――』彼は秘めていた疑問を投げる。『どうして、夢インタビューを始めようと思ったの? 今の質問と関係がある、とか?』
少女はうつむきながら、『将来のことで悩んでいたの。今年の春に高認とっていて、もう通わなくていいんだけど、その先が見えなくて……どうしようかなって』
『それって誰かの夢をきいて、参考にしたかったってこと?』
すんなり聞けたのは、自分がまさにそうだから。
『それもある。というより、そうだと思う。相談する友達はいないし、こんな性格だし、自分で聞く勇気はないから』
『でもさ、見ず知らずの俺を選んだのはなんで? 女子のほうがよくない?』
『本当はね……二人誘ったんだよ。同い年の子、断られたから』
『あー……たまたま、俺に流れ着いたのか』
こくり、シェリは頷く。申しわけなさそうに手をもじもじ……。
英郎は見ないよう、『そっか。逆によかったよ』
『どうして?』さりげない上目遣いは反則だ。『えっと……鳥海さんかわいいし』
『口説いているの?』
『い、いえ、滅相もございません!』
『そっか。残念……』唐突な展開だが、『うそだよ』とシェリははにかむ。
彼女なりの冗談らしい。
『でもね。長崎君のおかげで、少しは見えてきた。新しい一歩が少しだけ』
『役立ったなら、うれしいよ。俺も、やってよかったし』
『本当に? 最初はイヤイヤだったじゃん』
『丸投げされれば誰でもイヤだよ。――あのときいえなかったけど、アニメ監督になりたいって夢がある。マンガ家、小説家と紆余曲折しているけどね。ようやく誰かに言えるレベルに進化したけれどもまだまだ……』
密閉空間だからか、口にするのが恥ずかしい。勝てるかわからないトーナメントで、負けたときのことを真っ先に考えてしまう性格なのだろう。
そんな気持ちを落ちたハンカチを拾うよう、シェリは優しくすくった。
『長崎君』少女は微笑み続ける。『大丈夫。きっと、大丈夫だよ』
右手に触れる指先は冷たかった。でも、考え出せば止まらない不安という熱を冷ますにはちょうどよかった。『ありがと……』
恥ずかしくて手をひっこむ。
『逆に、鳥海さんの夢は? 抽象的でも、なんでもいいからさ』
シェリはしばし考え、『魔法がほしい、かな』といった。
『へー……魔法かぁ』高校生になって魔法ですか、とはいえない。
『白黒の世界を虹色に染められたらって。青空に花丸を描けたら、きっと楽しいなって思う。だから、絵が上手い人に憧れる』
『世界平和! みたいな感じ?』
『うーん、ちょっと違うかな。――でも、戦いがあふれている世界で、少しでも疲れた人が癒されて笑顔になれる、そんな救いが世界中に溢れればって』
『歌? 歌手になりたいの?』
『違う。ゴスロリを世界に広めたいの』
『ゴ、ゴスロリによる世界征服、ですか?』
『そんな野蛮なモノじゃない。うーん……自分の世界観を大事に楽しく味わえる、それがゴスロリファッションなの。最初は私もイヤだったけど、着慣れたらイイ感じなんだよね。社会の仮面ではなくって、個性の表明だからさ、ゴスロリって。長崎君も着よーよ、ゴスロリ』
『俺……男だよ?』苦笑する彼に真顔で告げる。
『男だってなにさ、ゴスロリだもの』
『意味がわかりません……でも、魔法少女のコスプレみたいなもんだよね』
『うん。きっと、そーいうものが誰かを救ってきたんだよ』
少女は微笑むと、遠くを眺めた。都心へ続く街並みは、少し高いところから見ると綺麗だけれども、どんな人が住んでいるかは見えてこなかった――。
「ヒデロー、ヒデローってば!」
車から降りるよう催促する友達二人に、彼は頑なに首を振った。
自分の好きな歌手Aliceの正体がシェリであることは観覧車での会話を思い返せば、腑に落ちる点が多々ある。それでも、自分の知っている不器用な少女と好きな歌手がイコールでしっかり結ばれてはいない。脳裏の記憶と現実の映像はズレたままだ。
心配そうに勇気と玉子が顔を覗いている。鼻から深く、深く息を吸い、
「どうして、苦しんでいるって、気づいてやれなかったんですか?」
と、英郎は意を決して尋ねた。柔らかい物腰のつもりでも、語気は強かった。
「気づいていた。だから、休みも与えた。でも、あの子は頑固なの」
「それでも、言うべきことはあったんじゃないんですか?」
「あのね、君と話すのは時間の無駄だから。君たちとシェリは、生きている世界が違うの。結果を出さなければ、私たちは違う仕事を探さなければならないの。せっかく掴んだチャンスなの。美味しいご飯が食べられなくなるの」
「美味しいご飯は貧乏でも食べられます。あの、最近、娘さんにご飯作りました?」
「関係ないでしょ」
「ありますよ! 俺、母子家庭で、看護師の母親に作っていますけど、もしもバイトしていたら、手を抜いたと思うんです。たまにはいいんです、手を抜いたって」
「何が言いたいの?」
「美味いか不味いか、言い合える関係っていいと思うんです。またソーメンかよ、みたいな。食事の時だから、どーでもいい話ができると思うんです」
「そんなこと、わかる! だけど、あなたの母親こそ、母親失格でしょ! 子供に料理作らせて恥ずかしくないの? せめて、カネ渡してメシ食わせなきゃダメでしょ! どうせ、口だけの親なんでしょ! シェリのために私は稼ぐんだから!」
そのとき、英朗の胸に、鋭利で巨大な槍が心の氷山に刺さった。
その氷山から一角、また一角と崩れていく。それはとても冷たく、触れないものだ。
誰かに溶かしてほしい、そんな願いが込められている氷の塊だ。
「マリアさん、相手は子供ですよ!」と、部下の島野が止めた。「二人とも、やめてください。警察が来ちゃいますから」
頭を垂らす少年を友達二人が支え、白いバンは車の群れに戻っていく。
「――チャリあっちだから」
少年は気遣う二人と別れ、駅前駐輪場に停めた自転車で自宅へと帰る。
その道すがら、墨田川にかかる尾久橋からあらかわ遊園が見えた。
ほんの一時間前は楽しい思い出だった場所も今は歯がゆい。
丁寧に色を重ねたキャンバスも、ビリビリに破くのは一瞬だ。破いた後に残る爽快感も、散らかった紙を集めれば苦々しい後味にかわる。その味はお茶よりも薬に似ている。何に効く薬なのかは、彼には見当もつかない。
もしかしたら、気がつけば自転車を引き返していた。遊園へとペダルをこいでいた。
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