第2話 2


 午後二時――正門を抜けた校庭では、午後の照りつく太陽にひるまず、サッカー部が活発に動いていた。暑さに悶えながら生徒がボヤく。


「あー、イガイガする……」


 相方とのカラオケで喉を痛めた英郎は、その足で高校にきていた。


「誰も――うわああぁぁぁぁ…………」


 美術室のドアを開けると、真夏の湿気と絵具の独特な刺激臭が無防備な鼻を襲う。


 デジタルにはないこの油臭がたまらない人もいるが、彼はとりあえず窓を開けて、駅前でもらったうちわで室内を換気し始めた。


 その数分後、ドアが開く。「あ、先輩。ちわーす!」


 英郎の唯一の後輩、一年の本田航ほんだわたるだ。短めの茶髪をツンツンに遊ばせるのが彼のこだわりで、いつもへらへらしている。


「ぽんたん、遅刻だぞ」


 シャカシャカ鳴るイヤホンをバッグにしまい、彼は壁時計を一瞥する。


「つっても五分じゃないっすか。ブチョーも副ブチョーもまだいないし」


「それとこれとは話が別だよ」


「まったく、厳しいっすね。次期ブチョーさんは」


 二年生は英郎のみ。つまり、三年生が引退したら本田と二人きりだ。


「男二人だけの部活に厳しいもなにもないよ」


「山本先生入れて、男三人か。あ~、お姉さんたちが引退したら意味ないなぁ~」


「思っていても言うなって。俺が一番思っていることだから」


「も~、不純な動機で入っただけありますね」


「余計なお世話だ。来年はなんとしてでも、女子を入れないと悲惨だな」


「メタボ顧問にムッツリ部長と三人か~。どんな罰ゲームでしょうね」


「だから言うなって。――そーいえば、小説、どうなった?」


 先輩は机を並べながら尋ねた。後輩は照れ臭さを隠すよう髪をいじる。


「いやー、ダメでした。三次で落選です。先輩は?」


「そっかぁ……。俺も落選した」


「先輩でもダメっすか。腹いせに、ナレルにでもアップしとくか」


 二人は五月上旬、ライトノベルコンテストに応募したが、二人ともダメだった。


 だが、英郎の笑みはぎこちない。二次で落選したことが言えず、二次を通過したと本田に嘘をついた。最終候補作品のみがネットで公表されるので嘘がバレることはない。


 もしも、先月、嘘をついた理由を追求されれば、『後輩に負けたくなかった』と潔く自白するだろう。でも、それも嘘かもしれない。


『先輩。二次通過しましたよ!』


『すごいじゃん! やったな!』


『ありがとうございます! 先輩はどうでした?』


 どこにでもあるやり取りの中で彼は気遣った。それが嘘だっただけだ。


 そのときの気持ちは自分でもよくわからない。しょうもない嘘だと断罪されれば彼は謝る。


 でも、嘘は嘘の連鎖を生んでいき、まるでニセ札で買ったケーキのような、甘くても後味の悪い気持ちが残った。


 ガラガラガラ――二人の女子がドアを開ける。


「お! 二人ともサボらずくるとは偉い! 部長の人徳のおかげだね!」


「美帆。部長はあんたでしょ! ブリブリしていると、また陰口いわれるよ」


「カーッ! 女社会は陰湿すぎる! 男に生まれたかったぁ!」


「はいはい。愚痴はあとで話しましょうね――」


 子供をあやすよう、副部長の紺野由紀こんのゆきが部長の飯山美帆いいやまみほをいつも通り諫める。紺野は食欲旺盛な女子で、飯山は天真爛漫な女子だ。


 美術部は三年女子二人と後輩男子二人、計四人で活動している。


「ブチョーに副ブチョー、こんちわ! ――そーだ、聞いてくださいよ。コンテストの件ですけど、俺も先輩も三次落選でした」


「マジか、ぽんたん。応援していたのに……。ヒデローも残念だったね」


「まぁ……しょーがないですよ」


 英郎はうつむきながら答え、


「あれ、山本先生は一緒じゃないんですか?」と話題を変えた。


 教壇に立ち、議題を黒板に記す紺野が答える。


「先生は私たちに一任したわ。長崎君が部長なら心配ないって感じよ」


「先輩。めっちゃ、頼られてますね。さすがっす!」


「いや、丸投げじゃん!」


「ヒデローは私がスカウトした男だもの。私の目に、狂いはないのだ!」


 ふわりと栗色の髪がなびく。親指を立てた無邪気な先輩に後輩は照れる。


 しかしながら、赤らめた頬はすぐに青ざめた。


「ブチョーは話し合いをとっとと終わらせて、彼氏と帰りたいだけでしょ?」


 ギクッと心臓を手で押さえ、飯山はオーバーなリアクションで悶える。


「ぶぶぶ、部活終わりの彼氏と帰る、そんな青春……私だって、場をわきまえます!」


 紺野がぼそり。「さすが長崎君ね。ぽんたんがサボっても、部長として注意できそうでよかった。――さ、今後の部について話しましょう」


 教壇の横、カレンダーの日付が英郎の視界に入った。同時に、校庭からサッカー部の元気な声が届く。そして、心ともなく飯山が視界に入る。


『――そこの男子君。もしかして、美術部に興味あるの?』


 掲示板の部活紹介、漫画研究会を眺めていた彼はその声の主に恋をした。


 一目ぼれだった。『あ、はい。絵を描くのが好きなんで……』


 アイドルに似た美形の飯山に答えたその言葉は嘘ではなかった。


 不純な気持ちで入った美術部だったが、このときからアニメに関わりたい気持ちがあったので、好きな絵を描ける点ではよかった。本当は小説家を目指すうえで、ネタ作りに運動部に入ろうと思ったが、なにより、片思いする相手と、それも姉と弟のような距離感で笑い合える放課後は居心地がよかった。彼は友達以上、恋人未満でも満足だった。


 しかし、体育祭が終わった、今年の六月のこと――。


『ヒデロー。あれって、美術部の飯山先輩じゃない?』


 台田勇気と日暮里のカラオケ店に行った際、男と腕を組んでいる先輩を見かけた。


 彼の恋は知らず知らずのうちに終わっていたのだ。


 相手はサッカー部で同級生らしい。そして、彼女の恋は今も続いでいる。


 ――まだ好きなんかなぁ……


 今思えば、本田についた嘘の真相は、先輩に褒めてほしかったかもしれない。


 コンテストに応募したのも、自分が書いた小説を読んでほしかったかもしれない。


 そう思えば、体育祭の絵を引き受けたのも、先輩に振り向いて――


「――長崎君、長崎君ってば!」


 紺野の呼びかけに、英郎は我に返った。


「すみません。ちょっと、落選した理由を考えちゃって……」


「気持ちはわかる。でも、今は部の今後を話しているの。集中しましょう」


「そーだよ! 君はまだ若い。ファイト!」


「紺野先輩、すみません。気をつけます」


 いつの間にか、のどの痛みは心の痛みに負けていた。


 不思議の国に迷い込んだ少女のよう、夢であってほしいと思った。




 会議ですんなり、英郎は次期部長となった。


「では、次期ブチョーさん! 我が部の未来を任せたぜ!」


「こらこら、飯山。新部長に丸投げするな。卒業まではサポートしてくれ」


 と、顧問の山本司やまもとつかさがメタボな腹を膨らます。


「私の丸投げ癖はやまぽんから受け継いだものです」


「俺のせいかい! まったく、調子のいい奴だ。――長崎、とりあえず、部員を集めないとな。このままでは、本田の奴がぼっちになっちまう」


「そーすね。秋用に募集ポスター、作り直しましょうか?」


 ちょっと前の自分は右も左もわからない子供だったけれど、一年弱過ぎれば大人の階段も数段上っているものだと、実感はさほどなくても、顧問と部の存続について考えている自分が頭のどこかにいて、どこか頼もしかった。


 職員室を出たところで、


「カフェでも行くかい」と先輩に誘われたが、後輩は愛想笑いを浮かべて、


「けっこうです。彼氏と行ってください」と一人校内を歩いた。


 ふと気づけば、彼は立ち止まっており、廊下の窓から顔を出していた。


 手を伸ばしても届かない陽を、ぼーっと眺めていた。


 窓からの、赤みを帯びたオレンジ色の陽は、少しまぶしかった。


 朝がきて、明るい昼が過ぎ、暗い夜へと彩る空色の移ろいは、楽しい時間の終わりを告げるチャイムと、遊びに夢中だった小学校時代を懐かしく思い出させる。


 しかし、その記憶は落ちる陽とともに消えていく。遠い未来を思えば、十七歳の夏は人生すごろくのマスのよう、長い人生のありふれた出来事になるかもしれない。


 校庭を望めば、サッカー部の練習は終わっていた。部員たちがたむろう中、仲良く話し合う男女が見えた。女が気づき、窓へ手をふった。


 彼は頭を下げた。――先輩好きでした。


 少年は失恋というマスを踏み越え、まだ見ぬ明日へと進む。




 だが――別れもあれば、出会いもある。


 ひと恋の区切りをつけた少年にも、その言葉は世の中の真理だと思えた。


 ただ、若干思い描くイメージ映像とは違うのだが……


 カラン。アイスコーヒーの氷が関心を逸らし、英郎はその女に聞き返す。


「あのぉ……よく話がわからないんですけども……」


 母親と同年代であろう、光沢あるグレースーツを着る、紫帯びた黒髪の女はもう一度告げる。


「ですから、娘が何をしているか報告してほしいんです!」


「はぁ……娘さん……」


「だから、教えてください!」


 どうやら不幸なマスに止まったと、彼にも理解できた。


 そして、どうしてこうなったのかと、賽を振った自分を恨む。


 発端は彼の担任である青野と職員室の廊下ですれ違ったことから始まり、あれこれ彼に日常生活を聞いていたとき、駅前のカフェでお茶することになった女が現れたのだ。


 女の名は鳥海マリア(とりみまりあ)といい、娘は鳥海シェリという。


 マリアは来日二〇年以上のフィリピン人で日本語を流ちょうに話す。娘のシェリは日本人との子供で、ある歌が名前の由来だと知った。そして、現在は夫と離婚し、二人で暮しているとわかった。


 しかし、娘の進路について話に来校したものの、青野と話す生徒が長崎英郎と知るや、本来の目的を忘れて戸惑う彼を強引にカフェへと誘い、今に至っているのだ。


 マリアはさりげなくグラス縁をナプキンで拭き、上目遣いで頼み込む。


「お願いします。実は、私とシェリは母子家庭なんです。普段仕事で家を空けているので、娘が何をしているか心配なのです」


「それで、自分に近況を知らせてほしいと? でも、どうして俺が娘さんと知り合いだってわかったんですか? 全日制と通信制なのに」


 英郎は全日制の生徒で、シェリは通信制の生徒だ。


「それはですね。最近、娘がこそこそ怪しかったので、ダメだとはわかりつつ、携帯をコッソリ見たんです。着信履歴にあなたの名前があり、もしかして危ないお友達と遊んでいるのかと心配になったのです」


 親バカか、マリアの口ぶりは子供を溺愛する母親そのものだ。


 シェリを思い返すと、その悩みの種がわかるような気もする。


 たしかに世間知らずのゴスロリっ子、心配も当然か……。


「それで、あなたとシェリはどんな関係? もしや彼氏? 彼氏はダメですよ」


 少しヒステリックな顔を見せるので、英郎は鼻をかく。


「付き合って、ないです。俺はその……バイトを頼まれているだけで」


「……バイト?」キツネ目が鋭くなる。


「どーいうわけか、娘さんは人の夢に興味があるらしいんです。だから、知らない人に『夢ありますか?』って聞くんですけど、人見知りなので、俺が代わりに聞いているんです。怪しいですけど、危なくはないです」


 目元が緩み、大きなため息を吐く。どうやら信じてもらえたようだ。


「そーですか。それは大変なことを……」


「大変ですけど、それなりのバイト代をもらって――」疑問が浮かぶ。「鳥海家は母子家庭なんですよね? 俺も母子家庭で……失礼ですけど、バイト代が一日三万円なんですけど、そんな大金どこから出たのかわからなくて……」


 英郎の言わんとしていることを知り、


「たぶん、お小遣いから。これでも、私はそこそこ稼いでいるので、ご心配なさらず」


 マリアは微笑んだが、シュッと真顔に戻る。


「長崎君。娘について報告してほしいのです。もちろん、報酬は出しますから」


 直接聞けよ、そんな言葉を言えばキャンキャン喚かれそうな気がした。


「報酬って……あの、仲がよくないんですか?」と遠回しに尋ねる。


「お恥ずかしながら……。仕事ですれ違いが多くて……」


「そーですか……」


「これからも、近況を教えてほしいんです」


「え、これから? いや、さすがに娘さんに許可を取らないと――」


 マリアは彼の煮え切らない態度を察し、ブランドバックから名刺と茶封筒を取り出す。


「名刺のアドレスに報告してください。これは、その報酬です」


 中身は言われなくてもわかった。でも、受け取りたくはない。


「報酬は別に、大丈夫です! 俺もけっこう楽しんでやっているので」


「ですが――」


「場所もアレなんで。全部が終わってからで、後払いで」


 チラチラと、さきほどから学生らしき女子二人が見てくるのだ。マリアもようやく気づき、茶封筒をバックにしまった。けっこうな厚みだった。


「わかりました。では、長崎君。娘のことをお願いします」


「お願いします? ……はい」


 頭を下げる大人に、子供は不信感を抱く。その言葉の意味が重かったから。


 何をお願いされたのか……この親にしてあの子あり、と娘が不憫にも思えた。


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