第1話 1

 7インチのタブレット画面からでも、はっきりと聞こえた。


 夏にふさわしい青春の音――バシッ!


「バッター、空振り三振ッ! ゲームセット! 都立青羽高校、一本松学園を破り、決勝進出です! 都立勢としては二〇年ぶりの――」


 実況アナウンサーが興奮気味に都立高校の快挙を伝えたとき、担任の青野雄平あおのゆうへいは端末の電源を切り、パタパタと花火柄扇子をあおいだ。


「すげえ試合だったな! 明後日も勝って都立の意地を見せてほしいな」


「都立が甲子園でれば伝説ですよね。でも――」


 向かいの生徒、長崎英郎ながさきひでろうは余韻に浸る教諭に同調するも、


「今は、俺の進路相談中ですけどね」と、口をすぼめてボヤく。


「だって楽しんで見てたじゃねーか」


「そりゃあ見てましたよ。高校野球好きですもん」


「じゃあ、いいじゃねーか」


「そーいう問題ですかぁ?」呆れて語尾が間のびした。


 青野は生徒に慕われてはいるものの、どこか物足りなさを感じさせる担任だ。悩み相談をしても、どこか他人事のような、当たり障りのないことを言う癖がある。


 それは英郎も思っていた。机の上に並べた学年成績、模試と適職診断の結果を見つめる青野はぽつり尋ねる。「長崎は、やりたい仕事あるか?」


 テンプレートのような言葉に、首元の汗をぬぐう。


「やりたい仕事は……ないですね。まだそこまで考えてもないです」


「そーだよな。まだ遊びたいよな。――大学行くなら、もう少し勉強がんばらないとな。特に英語。日東駒専あたりを目標に――」


 さえぎるよう彼は告げる。


「公務員になりたいです。できれば高卒で」


「本気かぁ?」あくびがのびる。「本気というか、うちは母子家庭なんで。学費払う余裕はないですし、だから、早く仕事につきたいんです」


「なるほどな」扇子をあおぎながら宙を向き、「卒業生で、高卒で公務員になったやつはいるけど、長崎はほかにやりたいことがあると思ったけどな」


 青野は適職診断を指さす。それによれば、《生徒は想像力豊かで創造性があり、デザイナーや雑誌編集、映像関係が向いている》らしい。


「好きですけど、趣味でいーかなって」


「好きだったけどな、お前の絵。ほら、体育祭の巨大ロボのやつ。『ARE YOU READY?』って中二ぽくて、迫力あって、けっこう職員室で好評だったぞ」


「(中二はよけいだ)顧問が『絶対ロボだ!』とごねたからですよ」


「山本先生はロボ好きだもんな。――でも、聞いたぞ。長崎もノリノリでアレを描いていたって」


「体育祭のアレは美術部の仕事ですし、絵を描くのは好きですから」


 うっとうしく感じ、早口で大人をまくし立てる。「で、自分は大学よりも就職を考えているんです。大学や専門に行くにも、公務員の職歴あったほうが卒業後に採用されやすいと思いますし、自分のお金で行けますし、先生はどう思いますか?」


 青野は扇子を閉じ、まじめなトーンで返す。


「どーするもこーするも、お前の人生だけど……稼ぎ方が増えても、タレントなり配信者なり、何かになろうとしても、日本はまだ学歴社会だし、高卒公務員は稼ぎにくいぞ。国家公務員ならともかく……まだ二年の夏だし、お母さんとよく話したほうがいいと思うぞ。お母さんはなんて?」


 とたんに視線がそれる。「まだ、公務員のことは話していないです」


「そーだと思ったよ」担任は見透かしたように笑った。


「夏休みが始まったばっかだし、秋の三者面談までに答えを出せばいいよ。お前の言う通り、地方公務員を考えつつ、大学や専門を目指すのも悪くはないからな。今は、ゲーマー学校なんてあるし、やりたいことあったほうが楽しいからな」


 先生みたく楽観的なら苦労しない、そんな笑みがふとこぼれ、


「そーですね。大人しく勉強して、頭よくなる方法でも考えます」


「ああ、勉強はしとけ。いつか役立つからさ!」


 担任は満足そうにまた扇子をあおいだ。


 生徒は不満そうに適職診断を見つめるも、たしかに役に立つこともあると思った。




 カキーン! グラウンドに心地よい金属音が響く。


――あ~あ、本気出せばよかったなぁ~。


 フリーバッティングで快音を飛ばす野球部を眺めつつ、校庭のベンチで英郎は空をあおいだ。雲一つない青空は真夏そのもの。


 『勉強しとけばいつか役立つ』と、真剣に勉強をしてこなかった中学時代の自分を恨みつつ、偏差値が高ければ理想の担任と出会えたという安直な考えをめぐらせる。


 彼が通う、都立日暮里高校は中学評定がオール3ならば余裕で合格でき、多少2があっても、生徒に忖度してくれる良心的な学校とも言える。


 英郎は数学と英語が苦手だったが、技術家庭科・美術・音楽が得意で、苦手科目を十分に補うことができた。それは高校進学後もかわらない。


「家事ができたって、絵が描けたからって、意味ないんだよな」


 もんもんとした気分になると、自分の環境を恨みたくもなる。


 そんなときはカバンを開け、落書きノートを取り出す。パラパラめくり、ネットで調べた《高卒から公務員になる方法》を読むも、横ページに殴り書いた絵とストーリーを読んでしまう。絵といっても、モノクロの絵だが。


 


 ある日、小学生の少年少女が見慣れない雑貨屋に入る。その雑貨屋は異世界とつながっており、異世界には恐竜がうじゃうじゃいて二人を襲う。恐竜ハンターと出会うが、そのハンターは悪党で幼馴染の少女を拉致してしまう。怒った少年は負けるが、村の住民に助けられて少女を助けるべく、恐竜ハンターとなって強くなっていく……。




 咄嗟に胸ポケットのペンでバツを記す。おもしろいかこれ、と恥ずかしくなった。


 思いついたのは昨日の夜、進路相談について考えていたときだ。鉄は熱いうちに打てとの言葉通り、早速ノートに絵を描き、画用紙に描き……深夜、寝たのだ。


「やっぱ、安定の公務員か。でも、月収がな。国家公務員なら……無理だな」


 英郎は母子家庭だ。父親は天国にいる。


 母親は看護師をしているも、子供を私立大学に通わせる費用を考えれば、子はその数百万円という、公務員年収の倍ほどの学費をご褒美にでも使ってほしいと思う。親子関係はいいほうだ。


 先生に言わなくて正解だったかな、不思議な安堵感が彼を笑わせる。


 英郎にはアニメ映画を作る夢があった。その後はマンガ家、現在は小説家だ。ジャンルは異世界ファンタジー系、その夢を純粋な気持ちで担任に話そうとは思えなかった。


もしも、進路相談で意気揚々に告げれば、


『いーじゃん! 今度、読ませてよ』とでも青野は返したはず。


 でも、それが応援なのか空砲なのか、生徒はよくわからなかった。


 むしろ、読んだ後に知ったようなフリをされそうな気がした。


『公務員で、小説家を目指すのも、人生だよな』


 まるで、遊びの延長で野球を楽しみたい高校球児に無理やり甲子園を目指させるような、無責任な監督のようにも思える。でも、甲子園に行くことがどれほど難しいかは、中学時代に名門進学校へ合格したクラスの優等生を見ていた彼には、なんとなくではあるけれど、その競争の熾烈さを肌で感じていた。ケアレスミス一つで脱落するのだ。


 優等生の熱意は、まさに、『本気とは?』を知るきっかけだった。


 今年の体育祭で渾身の絵が描けたのは、その本気になれたかもしれない。


 絵を描くのは楽しかった。でも、小説家を目指す。自信はない。


 自分の才能やアイデアの質、夢を叶えたい思いがどれだけあっても、夢を現実というふるいにかけると、トーナメントの緊張感で胸が締め付けられ、思いがズレていく――。


 カッ、キーン!


「お! 面白いかも♪」


 金属音が鐘の音のよう美しく響いたとき、英郎は横のスクールバックからスマホとイヤホン、クレパスを出し、暑さなど構わず、空白のページを埋め始めた。


 好きな歌手の声は魔法のよう、真っ白な世界を虹色に染めていき、その声にゆだねた心は時間を忘れて手を動かし続ける。


 そのアニメタッチな絵は、箇条書きの物語の下に描かれた。


 雨雲が晴れた神宮球場に、虹がアーチのよう架かったマウンドで仁王立つエースの姿を、女子マネージャーがベンチから見つめ、瞳からは涙が白光る。


 タイトルは『マウンドに虹が架かるとき』だ。


 どうやら青春もの、ファンタジーではないようだ。汗をぬぐった彼はイヤホンを外し、ぬるいスポーツドドリンクで自分をねぎらう。


「恋愛スポーツは映画なら映えるはず! 主題歌は《Alice》で、声優はコウたんとハルマイの黄金コンビなら大ヒット……なんて」


「――それ、つまらない」


「へ? ――うわっ!」


 彼は驚いた。見知らぬ女生徒が隣にいたのだ。


 夏服姿の、地味な黒髪ロングヘアに黒縁メガネ、とは正反対の白肌の少女は、雪が降りやんだ涼しげな雰囲気を漂わせる。


 英郎は目を見張って尋ねた。「え、誰?!」


 少女は澄んだ声で答える。「二年F組の鳥海とりみシェリ」


「F組、ですか……」シェリ、という名前から顔立ちの透明感を察する。


「……」


「……」


「……」


 ジジジジジ、そばではセミが元気に鳴いている。


「なんか言ってよ! あっついんだ!」


 沈黙を破ったのは英郎だった。シェリは細目を向け、


「暑いよ。夏だもん」と返した。


「そーじゃない!」


「じゃあ、なんて外で絵を描いていたの? 暑さでバカになったんでしょ?」


 幼い外見だが、殺傷力ある言葉をぶっ放す対人スキルをお持ちのようだ。


 思わぬ毒舌に困惑しつつ、イラ立ちを静める。「俺が言いたいのは、いつ君が、どうして俺の隣に座っていたのか、です」


「どーして、イライラしているの?」


「暑いからだよ!」本当はアイデアを見られて恥ずかしいから。


「うん。暑いね」涼しい顔だ。


「会話に、なんねェェェェッッッッ!」


 髪をかき乱す英郎は絶叫した。クラスの女子から陰キャと呼ばれる、所以かもしれない発狂ぶりだ。しかも、野球部員が振り返り、セミが逃げだすほどだ。


 対してシェリはきょとん顔。「どうしたの? やっぱり、バカに……」


「もー、いいっすわ」


 圧倒的な無力感から彼はどっと疲れ、背もたれによりかかる。


「あの、なぜ、このベンチに? 他のベンチが空いてるじゃん」


 と、呆れる目で教えるも、


「あなたと話がしたかったから」と、何かが始まる雰囲気だ。


「え……俺に? なんで?」頬が火照る。


「頼みがあるから」


「頼み……」


「……」どうやら丁寧な相槌が必要なタイプらしい。


 再び絶叫したくなるも、また『バカ』と言われかねない。


 きっと、この子は対人スキルと引き換えに語彙力を失ったと勝手に納得する。


 彼が体をもぞもぞさせると、シェリが心配そうに言った。


「どうしたの? トイレに行きたいの? 行っていいよ」


「大丈夫です。――その頼みとは、なんですか?」


 とりあえず話を進める。「言えません。詳しくは」するりとかわされた。


「言えない? ――のに、頼みっておかしくない?」


 ふと彼が気づく。「てか、鳥海さんはどうして俺を知っているの? 学校で話したこともないし、  クラスも違うし、シェリって名前は本名なの?」


「うん、本名だよ。体育祭の絵を見たの。で、頼んだ」


「(絵って……ロボか)じゃあ、俺の絵と関係がある、とか?」


 シェリはこくりと頷き、右手で三を示した。


「頼みの報酬は一回、三万円です!」


「急に?! え、なに?! さ、三万円?」突飛な高額報酬に声が裏返る。


 だが、怪しい。「一回三万円って……詐欺の受け子とか、ヤバい話じゃないの? まさか頼みって……ニセ札作れ、とか?」


「……バカなの?」すごい落ち着いた、ゆったりとしたトーンだ。ボディブローのように自らの知識のなさ、学力のなさ、しかも暑さがイライラと効いてくる。


 下手に出てりゃあいい気になりやがって、彼はそんな強気キャラではない、


「悪いけど、詳しく話せないなら断るよ。他の人に頼んでください」


 クールに去ろうとする英郎の腕を、シェリが両手でグイっと引っ張った。


「待って!」


「ちょ、あわわわ!」油断した彼は勢いあまって倒れ込んだ。


 枕の感触かのよう、白い太ももは雪の上のようすごく柔らかい、らしい。


「鳥海さん、ごめ――ハッ!」


 慌てて振り向くと、男の悲しい性だろう、この膝枕アングルは謝罪よりも神様に感謝したくなる。男と女、二つの山をふもとから望む、そんな神々しさに彼の時間は止まる。


 もちろん、彼にとっては初めての光景だ。そして、紅潮していく少女の顔を、彼のとろんとした目はじーっと眺める。本当に時間が止まったのだ。いや、人生か。


「キャアアアアアアアアアアア!」


 バッ、チィィィィィィィンンンンッッッッッッ! 


 金属音にも負けない骨と骨の、痛烈な音がグラウンドに響いたのだった。

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