第1話 2

 二日後の金曜日――


 長崎英郎は少女の掌底とその痛みを思い出していた。


「あはははは! 傑作、その話」


「笑うなよ。あの後、マジでだるかったんだから」


 彼は日暮里駅そばのカラオケルームで、小学校からの友人かつ同じクラスの台田勇気だいだゆうきに先日の絶景を伝えたところ、相方は腹を抱えて笑った。


 時刻はちょうど午後一時、二人は三時間ランチ付き学割500円という、貧乏高校生が土下座して喜ぶ超お得プランを満喫している。


 ちなみに英郎が苺のパンケーキ、勇気がみそラーメンを食べ終えたところだ。


「だって、知らない女子に太ももダイブはヤバいでしょ!」


「だから、事故だって! あの後、職員室で取り調べ受けるハメになって、あやうく母さんの病院に連絡されそうになったんだぞ! 俺の身にもなれよ」


 オレンジ色のおしゃれメガネをかちゃりと直し、


「でも、嬉しかったでしょ? JKの太ももだよぉ~」


 嬉しくなんかない、と言えばうそになる。


 英郎は残りのクリームをフォークで集めつつ、「柔らかかった」と返す。


「ほら、見ろ! 確信犯じゃん!」


 勇気は楽しそうに指をさす。ムッとする英郎に、


「そー怒るなって。ヒデローがエローじゃないことぐらいわかるから」


 エローとは、中学校のときに英郎が女子生徒のスカートひらりを目撃した際、頬を赤らめた彼をクラスメイト、勇気たちが笑った思い出の俗称だ。


 本人は口をすぼめて不満を示すも、相方はソファーに笑い転げる。


「ヒデローはいじりがいがあるって、鳥海さんも知っていたのかな」


「知っているわけがない。入学以来、会ったことも話したこともないし」


 ストローでアイスティー、ガムシロ三杯入りを飲み、


「――で、その鳥海さんは何を頼んできたの?」と勇気は尋ねた。


「それが教えてくれないんだよ。だから、あーして聞いたわけで」


「なーる。だから、聞いてきたんだね。新しい恋かと思ったよ」


 一昨日の騒動で鳥海シェリに不信感を抱いた英郎は相方に連絡し、彼女への情報を集めるよう頼んでいた。その代償は今日のカラオケ代をおごること。


 彼は社交的な性格で、人と打ち解けるのが速い。男子とも女子とも分け隔てなく接している。その点、英郎は女子と話すのが気恥ずかしいお年頃だけれども、お互い敵を作らないスタイルで出会った頃から気が合った。


「二年F組って、通信用のクラスだから、鳥海さんの情報はないね」


「おいおい、チャラチキさん、おごったんだからさ」


 チャラチキとは勇気の俗称で、チャラいくせにチキンの略だ。鷹の目になる相方が補足する。


「話は最後まで聞きなさいって。だから昨日、進路相談のときに青担に聞いたんだよ」


「え? 俺の話も?」青担とは、担任のあだ名だ。「そこは教えてくれなかったから、生徒の守秘義務は守るんだなって思ったけども、鳥海さん、高認に受かっているらしく、だから学校に来る必要もないみたい。うらやましいね、ほんと」


 高認とは文字通り、『高校卒業レベルの学力があるかの認定試験』のことで、この試験に合格すれば、都立日暮里高校では授業の出席日数さえ満たせば、たとえテストが赤点でも卒業できる。もちろん、出席日数が週に一度の通信制の場合も同様だ。


 そのため、高認取得後、まったく通わない全日制の生徒も一学年に数人はおり、彼らは自然と学年で知られる存在となる。別名、《プロニート》だ。


「へー、けっこう頭いい子なんだな」


 とはいえ、高認を取得するには勉強を頑張る必要があり、英郎もその難易度は小耳程度には知っていた。「だから、そんな子がヒデローなんかにどうして頼んだのか謎なんだよ」


「(なんかとはなんだ!)俺が知りたいよ。なんか、体育祭の絵を見たのがきっかけとは言っていたけど」


「ああ、あの機動戦士ファイター・ロボをパクった絵か!」


「パクリじゃない。オマージュと言いなさい」


「ということは、鳥海さんは隠れロボファン? なら、僕と話が合いそうだね」


「だったら、勇気に頼みを譲るよ」


「あいにく僕は片思い中。ご丁重にお断りしますよ」


 ワックスで遊ばせた髪型、オレンジのこだわりメガネ、水玉ポロシャツに革紐ブレスレットを右手首に飾る割には、一途な乙女男子なのだ。


「あ!」相方がにやり。「もしかして、ヒデローのことが好きとか?」


「だったら、膝枕で叫ばないでしょうが」


「せやな。――ところで、進路相談はどうだった? アニメ監督の話は先生にできた?」


 オレンジジュースを一口ごくり。「それは話してない。逆に公務員のことを話したら、高校から大学進学を勧められた」


「じゃあ、小説家もナシ?」


 頷いて返す。「そっか。英郎はマンガ家に向いていると思うけどね」


 二人は何でも話せる間柄だ。「マンガ家はいーや。あの件を思い出すとさ、キューってなるんだよ」と、胸元の服を引っ張る。


「あははは、袋叩きだったよね。中学生によってたかってさ」


「大人つーか、SNSの怖さだよ。よく、女子はアプリで遊べる、怖くないんかね?」


「遊びたい年頃なんだよ。僕もほら、仲間に入れてもらったことあるよ」


 スマートフォンの動画にはクラスのカースト上位女子と男が流行り曲に合わせてニワトリダンスだ。「コケコッコーって鳴けばいいのに」


「うっせ! ま、ヒデローはおばさんに苦労かけているからこそ国立大に受かって、超一流企業に入るべきさ!」


「この前とは、逆のこと言っているぞ?」


 ちなみに電話では、『地方公務員なら足立区役所だね』と助言していた相方だ。


「人は変わるモノなのさ。だから、ヒデローもバイトを――」


「イヤだよ。学校にバレたらめんどいし、お前は紹介料目当てだろ?」


 勇気は七月からカフェのアルバイトを始めた。学校に申請書を出さないといけないが、生徒が提出する場合は少ない。台田もその一人で、動機を説明したくないとのこと。


「あら、バレてましたか。コケコッコー!」


 ――殴っていいかな? 本気の怒りがふつふつと湧いたとき、


 ~~~~~~♪ テーブル上、別のスマートフォンが震えた。 


 出ると、「もしもし、鳥海シェリです」


 と、聞き覚えのある少女の声がした。これには立ち上がる。


「なんで、番号を知ってんですか?!」


 強めの口調に勇気が電話主を悟り、カラオケの液晶画面を消す。


 シェリは平然と言う。「青野先生に聞いたの」


「(守秘義務ねーじゃん)で、何の用? この前の件は謝ったし」


「ううん、違う。頼みの件で電話したの」


「それは断りました」


「報酬は三万円!」高額報酬は魅力だ。「じゃあ、頼みの内容を――」


「ヤダ!」即答。なんなんだ、こいつ……。


 ふと相方を見ると、再びソファーの上を腹を抱えて転がっている。


 はぁ……重い溜息を交ぜつつ、


「あの、鳥海さん。悪いけど、他の人に――」


「ヤダ!」またもや即答。もはや子供そのものだ。


 こちらの話を聞かないとなればとる手段は――プツン!


「ヒデロー、断りもなく女子の電話を切ると、またSNSでいじめられるよ」


「うっせ! 面白がってたくせに!」


 だが、またスマートフォンが鳴る。同じ番号だ。


 出てあげたら、と眉をひそめる相方が言うも、当の本人はスマホの電池パックを外す徹底ぶりだ。   


 どうやらストレスをかなりためたらしく、マイクを握った。


「歌うぞ、勇気! こーなったら、Alice歌っちゃうぞ!」


「うげぇ、マジかよ……」


 勇気は血の気が引いたようにげっそりと、彼の歌声を聴き続けた。


 英郎は絵が巧いものの、歌は下手だった。それも、《はとぽっぽ》の音程を外すほど極度な音痴ぶり。高音の、しかも女性の、あろうことか早口でロック調なメロディーは彼の低めの声と合うはずもなく、相方は彼に抵抗するようマイクを握りしめた。


 十七歳の夏、男二人の青春も悪くはない――。




「あ~、ノド痛ぇ……はりきり過ぎた……」


 日暮里駅から三十分弱かけて、途中スーパーで買い物した英郎は、自宅である足立区の団地へと帰宅する。モノレールの駅を中心にスーパー、保育園や小中学校、公園がいくつもあり、子育て世代が住みやすい街となっている。彼もシングルマザーの母親とのんびり暮らす。


 玄関を開け、買ってきた食品を冷蔵庫にしまっていると、お腹をポリポリかきながら大きなあくびをする母の桃実ももみが自室から出てきた。


「あ~、ねむぅ~。ヒデちゃん、お帰りぃ~♪」


 寝起きなのか、甘えるような声で背後から抱きつかれた。


 ビクッと、息子は背筋を伸ばし、母親の頬を押しのける。年不相応な幼い顔立ちに、Tシャツとショーツのみの無防備な恰好に照れ、気恥ずかしいお年頃だ。


「息子に発情すな! 盛りのついた猫か!」


「四〇超えても女は女なのぉ。若いフェロモンがほしいお年頃なのぉ♪」


「なんだよ、その中年病……病院の医者に診てもらえって」


 女の手は、抵抗する少年の腰から下へ下へと伝い、


「や~だぁ。やっぱ、ヒデちゃんじゃなきゃ――」


 キラリン☆ 太ももを鷲掴んで、こちょこちょこちょ……


「ヒャハ、ハハハハハ! やめ……マジでやめ……!」


「ウフフ。熟女のテクニックはすごいでしょ? ほれほれ~♪」


 英郎はくすぐりが苦手だ。特に太ももが弱い。


 もちろん母はその弱点を幼少期から熟知しており、息子が特売の三パック入り納豆を手から落としても、床に転がっても、踏みそうになっても絶妙で繊細な優しいタッチで攻め続けた。


 そして、笑い転げた果て……涙目の彼はガラガラ声で降伏するしかない。


「もぉ……勘弁してくだちゃい……」


 母は満足そうに息子を見下ろした。「わかればよろし!」


 なにをわかればなのか、英郎はよくわからない。


 ただ、数駅先の大きな病院で身を粉にして看護師を勤める母を思えば、患者や同僚、医者から理不尽なことでもあったのかと、俺でストレス解消になればそれでいいかと、息子は落ちた納豆パックたちを冷蔵庫にしまった。


 桃実はダイニングチェアに座り、駄々っ子のようガタガタ揺らす。


「ねぇ、ヒデちゃん。お夕飯はなんですか?」


 長崎家のシェフは英郎だ。しばし考え、「ばくだんソーメンかな」と答える。


「え~、またソーメン? エンドレスソーメン地獄はイヤなんですけど」


「どの家庭も夏はソーメンリープ地獄です。恨むなら、この前一キロ198円(税抜き)でたたき売ったスーパーを恨みやがれ!」


 キッチン観音扉の向こう側には、大量のソーメンが備蓄されている。米を買うよりも安く、余れば秋冬の鍋にも使えるソーメンは家庭の強い味方だ。スーパー売り場で近所の主婦から勝ち取った戦利品でもあるのだ。


 というより、夏休みとなって平日の昼飯代を浮かすためだが。


「それじゃあ、来週はソーメンソーメン、米、ソーメンでしょ? どんだけ無能監督なんだよ。ソーメン投手を酷使すんなよ!」


「使い勝手がいいんだよ、ソーメン投手は。朝昼晩、おやつもこなすソーメンを使わないやつこそ無能なんだ。――ちなみに米は貴重なエース、谷間はうどんを挟みます」


「え~、同じ白麺じゃん! 監督、せめてパスタにしましょ、黄色にしましょ」


「日本人は断固としてソーメン! パスタなんて邪道!」


「うぅ……なんつー横暴な采配しやがる、こやつは……」


 とはいえ、文句をぶつぶつボヤく元野球部女子マネージャーの母であったが、


「おいしー! おかわりしちゃお♪」おいしければなんでもよかった。


「かーさん。とーさんの分を食べるなよ」


「え~、いいじゃん! 夫婦だし♪」


 父、豊ゆたかの遺影にお供えされた夕食を無邪気に食べる母の笑顔を、子は満足そうに見つめるも、喉から出かかった言葉を飲み込むよう、ねばねば麺を食べ続けた。


 


「明日の九時には帰るから。じゃあ、行ってきます!」


 午後十時前――桃実は弁当箱を持って病院へと向かった。


 母親は誰もやりたがらない夜勤で働く。朝に帰宅して昼に睡眠をとり、息子と他愛のない時間を過ごてから夜に病院へ向かう。そのため、休みの日はグーグー寝ている。


 英郎は母の身体を心配して夏バテ防止メニューを考えており、ばくだんそーめんもその一つで、夜食用の弁当はおにぎりとヘルシーでも味が濃いおかず、冷蔵庫には帰宅後の軽食用にソーメンチャンプルーを作り置きしている。


「今日のおにぎりはなにかな♪ ツナかな、唐揚げかな、梅かな♪」


 中身はソーメンだ。母はまだ知らない。そんな母親の背中を見送った彼は、はためくカーテンの音に耳を澄ませた。


 ――けっきょく言えなかった、進路相談のこと……。


 後悔に似た苦々しさを感じるも、どこか安堵していた。


 来週に話せばいいかな、と自分の部屋へ入り、机で家計簿をつける。


 英郎は生活費(食費、家賃、光熱費、通信費、学費)など必要経費の管理を任されている。ずぼらな母が息子に丸投げした面倒事の一つだが、お金を扱うことを知り、だからこそ、フツーの高校生活を送る同級生よりも現実がよく見えた。スマホで計算した数字を書き入れていく。


「お、今月は赤字回避できそうじゃん! 小遣いから削らなくてすむ」


 桃実の手取り月給は二〇万弱で、英郎も把握している。夜勤手当が頼みだ。


 毎月の小遣いは二人で決めて各一万円だが、のんびり暮らしていても毎月予想外な出費が発生し、赤字補填に使われることもしばしばだ。


 英郎は夏休みのアルバイトを相談したが、夜勤疲れの母親に反対されて諦めた。


「やった! なに買おっかな♪」


 久しぶりの満額支給に笑みがこぼれ、スマホで通販サイトをチェックする。


《メンズ 夏ファッション》でサーフィンングし、お気に入り登録していく。


「新しい靴もいいんだけど、やっぱ――」


 英郎は《ペンタブ》と検索する。お絵描き用のタブレットのことで、以前に外国製の安物を買ったが、思うような線を描けない上に感度も悪く、一か月弱で壊れた。


 それでも使い勝手は悪くない、というよりも、


『最新を使いこなす俺って、すげぇだろ!』と感じたいお年頃だ。


 しかしながら、大手メーカーのペンタブは高校生の小遣いでは買えない、いわゆる漫画家やイラストレーターなど職人が使うもので、お遊び程度なら安物で十分だと商品レビューでも言われている。  


 彼の目的は趣味用だ。小説の表紙になれば、と考えている。


「遊びでも、それなりのがほしい……できれば日本製……」


 見つけたのは三万円の《初心者用》製品、名の知れた日本メーカーの製品だ。


「うーん、諭吉ぃ……夏休みは遊びたい……バイトするしか――」


 ~~~~~~♪ そのとき、着信音がこだまする。


 彼は意を決し、電話に出た。


「もしもし、長崎だけど――」




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