第4話 朽木

 髪を下ろした菊花ジファ様も、なかなかに可憐なのだが。花の油を馴染ませた、菊花様の髪を梳きながらそう思う。さらさらとした感触が心地良い。十歳でまだ幼気な菊花様の髪は潤っていた。油は不要なのではとも思う。十分にしなやかだし、花の香りがなくたって構わないだろう。だって、こんなに……。つい見つめてしまうのは、菊花様の髪を上げて見える、うなじ。そこにできた空間は、彼女の暖かさ、潤い、芳しさが詰まっている。そこから香る匂いに誘われるように……いけない。そこに顔を寄せようなどと考えるなんて。そんなことをしては、このまえ色欲に我を失った第三王子と同じではないか。じゃ、ないだろ! これは劣情ではなく、あくまで、その、幼子に対する愛情のようなものであって……邪念とかではなくて……。

豊蕾フェンレイ、なに考えてるのかな?」

 背後から鈴香リンシャンに声をかけられ、声が上がってしまった。鏡に映る菊花様は、微笑んだまま、興味ありげに鏡越しで私と鈴香に漆黒の瞳を向けている。

「いや、なにも……」

「ふふ、だったら手を動かしなさい」

 鈴香は笑い混じりに言った。まるで見透かされているようで恥ずかしい。

「ゆっくりでいいですよ、豊蕾」

「あ、いえ、大丈夫です」

 私が手を止めていたのは髪結いに手間取っていたからだと受け取った様子の菊花様は、優しく声をかけてくれた。確かにいまだに完璧とは言えず、この5日間、朝の髪結いは鈴香に見てもらいながら行っている。そうだ、今は雑念に惑わされていい時間ではないのだった。気を引き締めなければ。邪念……ではないが、そういった類のものから開放された私は、外の細かな音に気づいた。霧雨が降っているようである。気を取り直して櫛を持ち直した。

 髪を梳かすことに難はない。髪を左右に分けて紐で縛るのも、束の位置が決まれば問題ないし、やり直しもきく。問題はこのあとだ。固めの油を浸透させ、束をねじってお団子状に巻いていく。時間はかけられない。油が固まってしまうためだ。刀捌きには自信があった。刀であれば、誰よりも繊細に動かせると思っている。男共が力任せで振り回しているものを、私は寸分の狂いもなく扱える自信がある。だがそれと櫛とでは勝手が違う。

「もうちょっと巻をゆるくしたらよかったかな。毛先のまとまりも悪くなってるわよ」

 鈴香の言う通り、髪束の締りがいつもより強くなってしまっている。そのせいで髪が少し余り、お団子からはみ出た毛先が開き気味になってしまった。だが既に固めの油を染みこませてしまった後なので、今からはやり直せない。

「毛先は油でなんとかなるかな。でも、締りがきついと菊花様が痛いかも」

 息が詰まる。菊花様に痛い思いをさせているかもしれないことに気づかされ、焦ってしまった。

「大丈夫ですよ。痛くありません」

 しかし菊花様は微笑んでくれた。

「それに、豊蕾が頑張ってくれているのがよく分かりますから、嬉しいくらいです」

「ああ、そうですか……よかった……」

 気を遣ってくださっているのだと思うけれど、それでも嬉しかった。自然と顔が綻んでしまうくらいには。一方で、本当に痛くないのか心配になる気持ちもあるのだが。

 お団子に紐を巻いて仕上げていると、鈴香がにやにやとこちらを見ているのに気付いた。

「どうした?」

「こういうのは思いやりが大切なんだけれど、豊蕾なら大丈夫そうね」

「は? どういう……」

「ううん。菊花様、今日も立派なお団子に仕上がりましたね。豊蕾、明日はもっと上手にできるわ」

「はい」

「え、おい、鈴香!」

 私と、笑顔の菊花様に手を振りながら、鈴香は荷物を手早くまとめて部屋を出て行ってしまった。何が言いたいのか分からないままに会話を終わらせられて、なんだかもやもやした気分になった。

 思いやり、か。これまで仕事となれば、相対する者は敵。常に人が嫌がる選択を取ってきたから、人を思いやるということから縁遠い生活だった。だから、まるで私に思いやりの心があるというような鈴香の言い方が引っ掛かってしまったのだ。もし彼女にそう見えたのなら、それはただ私が、菊花様の境遇と自身の境遇とを重ねて見ているが故だ。王妃や王女らから虐げられ、ひとり除け者にされる菊花様。それとユイ家の男共の中、女ひとりで軽んじられていた私。同じ孤独を背負う者同士として、私が勝手に同情しているだけなのだ。真の私は、思いやりなど持っていないというのに。


***


 菊花様と食堂へ向かう途中、他の王女らとすれ違うことがある。例の長い廊下の突き当りから右に進み、他の廊下と交わる場所で、ある王女と行き当たった。菊花様と歳が最も近い、第五王女の蓮玉レンイだ。年は菊花様の3つ上で十三歳である。背は菊花様よりも頭一つ高く、私の目線より下に来るくらいだ。髪は長く、編み込んで後ろに流された髪が腰ほどまである。艶のある黒髪はサラサラと靡いている。蓮玉や他の王女らは、当然各々につけられた侍女たちに髪の手入れをされていた。刺繍の入った蒼色の着物を着ており、袖口からは白く細い手首が見える。帯は赤紫で蝶結びになっていた。目は、王妃と同じように吊り上がっている。だが、あの王妃の持つ憎たらしい雰囲気はなく、むしろ気品ある美しさを感じさせた。眉は細く整えられており、鼻筋も通り高い鼻をしている。唇は小さくふっくらとしており赤い紅が白肌によく映えていた。もしかしたら、王妃の若い頃も、実はこのような顔立ちだったのかもしれない。彼女の背後には、帯刀した護衛の男が一人ついてきていた。王女の護衛の数は基本一人らしい。ただ菊花様には、私が護衛として来るまで一人もいなかったそうだが。

「ごきげんよう、姉上」

 菊花様が立ち止まって頭を下げるが、彼女は進む方を見据えながら、そのまま歩いて通り過ぎようとしていた。いつもそうだ。王女らは菊花様の声掛けを無視して通り過ぎるのがほとんどだった。

 王妃や王女らから強いられていた毒見を菊花様はやめることにはなったが、結局態度は変わらない。王は単に毒見を止めただけで、根本的な何かを解決したわけではないのだ。それでも菊花様は、今、笑顔を蓮玉に向けている。どうして菊花様は、このような扱いをされているのに笑っていられるのか? それが私にはわからない。

 だが、今日、蓮玉は足を止めた。ここ数日では無かったことだ。彼女は顔だけを向け、横目で菊花様を見た。

「その頭」

 彼女の声質自体は高いようだが、低めの声を出される。菊花様は笑顔のまま聞いていた。

「そこの女がやったんでしょ? 侍女でもないその人に。雑な仕事なのが見え見えよ」

 菊花様の髪を見ながら彼女は言い放った。私が結った菊花様の髪を、けなされてしまった。腹の底に力が入った。声が出そうになるが、それを必死に抑え込んだ。

「わたしは、好きですよ。しっかり巻いてくださって……」

「あんたにはお似合いなんじゃないの」

 頭に手を添えながら返事をする菊花様の言葉を、蓮玉は冷ややかに遮った。そして前を向きなおして歩き出し、そのまま去っていく。護衛の者もそれについていった。

 私はそこで立ち尽くしてしまった。知らぬ間に拳を強く握っていたようだ。開くと掌に爪の跡が残っていた。菊花様を侮辱された怒りと悔しさが込み上げてくる。同時に、自分の未熟な髪結い技術のせいで、菊花様がけなされてしまったことへの情けなさを感じた。私が笑われるならいい。だが、菊花様を悪く言われると、どうしても耐えられない自分がいる。自分でも驚くくらい感情が高ぶってしまうのだ。

 なんとか黙りながら蓮玉の後ろ姿を見ていると、菊花様は再び歩き出した。

「行きましょう」

「はい」

 私はすぐに返事をし、菊花様の横に並んだ。

「また、明日もやってくださいね」

「……はい」

 菊花様は微笑んでくれた。その笑顔が心に沁みた。


***


 書庫から本を持ち出してきて、菊花様の部屋で、いつものように彼女が読書をするのを見守っていた。読書の時、菊花様は凛とした表情をする。いつも真剣に勉学に励む姿勢には感心させられるばかりだ。そんな真剣な横顔を見つめながら、私はここ数日で知ったことを思い返していた。王子王女らは学習の際、教師が招かれるらしい。だが、菊花様は教師から勉強を教わっていない。菊花様だけ授業に呼ばれないようなのである。だから毎日こうして一人で本を読み耽っているのだ。部屋にこもりきりで。理不尽だ。第三王子みたいな怠惰な者にも教師をつけるのに、勉強熱心な菊花様は除け者にされるというのは。他の王子王女らが享受する恩恵を、なぜ菊花様だけが受けられないのだろうか? そして、なぜ彼女はその境遇を受け入れているかのように独学で勉強し、王妃や王女らに嫌味を言われても彼女らに笑顔を向け続けるのだろう? 私にはわからなかった。


 扉を軽く叩く音が聞こえた。

「菊花様」

 玉英の声だ。彼女は扉の向こう側から呼びかけてきた。

「はい」

「入ってもよろしいですか?」

「どうぞ」

 私が答えると、扉を開けて玉英イインが入ってきた。

「菊花様、豊蕾。お菓子を頂けましたので、持って参りました」

「わぁ」

 菊花様は目を輝かせて立ち上がった。木の実を練りこんだ焼き菓子だ。甘い蜜のような香りが漂ってくる。

 玉英は肩くらいまでの黒髪を揺らしながら、盆に乗せた皿を机に置いた。

「ありがとう」

 玉英とは、互いに畏まらずに話すようになっていた。鈴香とは初日からそうだったので、それに倣ってのことだ。

「豊蕾、お茶を淹れてあげられる?」

「ああ。それくらいなら」

「お願いね」

 そう言うと、玉英は踵を返す。

「玉英も一緒にいかがですか?」

「ごめんなさい、まだ仕事が残っておりますので……」

 玉英は菊花様に頭を下げ、部屋をあとにした。


 玉英は、はじめ私がここへ来たときに菊花様の元へ案内してくれた使用人だ。どうやら使用人たちの中でも、特に彼女は菊花様の境遇を気にかけてくれているらしい。

 彼女なら、菊花様のこと、なにか知っているかもしれない。

「お茶を淹れてきますね」

「はい、お願いします」

 菊花様に断りを入れて、部屋を出た。隣の私の部屋へ茶を淹れに行くその前に、廊下の途中で歩く玉英の元へ走った。雨の香りがする風を受ける。雨が強まってきているようだ。

「玉英」

 呼び止めると、玉英は振り返った。その表情には、微かな緊張が見られた気がした。

「どうしたの? お茶の葉でも切らしていたのかしら?」

 たぶん、玉英のその言葉は本心ではないと思う。だって、私の部屋に茶葉はまだまだたくさんある。彼女はそういった細々とした情報をよく把握しているはずだから。

 いつか聞かれると思っていたのだろう。その硬い表情からは、そんな雰囲気が読み取れた。

「教えてほしいことがあるんだ」

「何かしら?」

「菊花様のことを」

 すると、玉英はそのたれ目を優しく細めた。安堵を含んでいた。

「やっぱり、そのことなのね」

 玉英は溜息をつく。やはり予想されていたようだ。

「なぜ菊花様だけがあんな風に除け者にされるのか。それに菊花様も、どうしてそれを受け入れているのか」

 玉英は、少し困ったように眉を寄せた。しばらく間を置いた後、意を決したように顔を上げ、口を開いた。

「わかったわ。教えるけれど、他言無用よ」

 雨音の幕の中、彼女は私の耳元で囁き始めた。


***

 湯気が立つ湯呑をふたつ盆に乗せ、隣の菊花様の部屋の前に立つ。胸が高鳴るのを感じた。少し手が震えるのは、雨で冷えたせいだろうか。いや、違う。玉英から聞いた話が、頭に残り続けていたからだ。この扉を開けたとき、どんな顔をすればいいのかわからない。だが、いつまでも廊下で立っていても仕方がない。覚悟を決め、扉を叩いた。

「失礼します」

 部屋に入ると、菊花様は笑顔で迎えてくれた。本は片付け、卓上の菓子には手を付けず待っていたようだった。

「ありがとうございます、豊蕾」

「いえ」

 茶を置いて椅子に座る。菊花様は茶に口をつけた。私も一口飲む。喉を通る液体はさっき風に晒されたせいで熱を失くしていたが、それでも温かかった。

「お菓子もいただきましょう」

 そう言って菊花様は私に勧めてくれる。だが私は食欲が無かった。先程聞かされた話が気になって仕方がないのだ。しかし、せっかく勧めてもらったものに手をつけないわけにはいかない。一欠片を口に入れた。しかし味がしない。食感はあるのだが、味を感じなかった。きっと緊張してしまっているからだろう。私はもう一口茶を飲んだ。

「美味しいですね」

「そうですね」

 菊花様は微笑み返してくれたが、その顔はどこか悲しげだった。私が作った笑顔がぎこちないせいで、彼女がなにかを感じ取ったのは明白だった。

 菊花様は茶を飲み、湯飲みを静かに置いて、少し間をおいてから口を開いた。

「玉英から、聞いたのですよね」

 心を読んだかのような言葉に私の心臓が跳ねる。それと同時に、菊花様が私へ目を向ける。その目は優しげだった。隠さなくても良いと言っているかのよう。

「……なにをでしょうか?」

「わたしのことを」

 私は何も言えなかった。黙ってしまうのは肯定しているのと同じだが、否定することもできなかった。目が泳いでしまっているのが自分でもわかる。そんな私を見てか、菊花様は優しく声をかけてくれた。

「わたしから言おうと思っていたのです。ですから、そんなに慌てないでください」

「ですが……」

「大丈夫ですよ。では、わたしから、ちゃんとお話しましょう」

 菊花様は背筋を伸ばし、膝で手を組んで、笑顔を作った。私はこれから聞くことになる話を思うと、とても笑顔になんてなれなかった。菊花様は少しでも明るく話をしようとしているのだろうが、私にとってはそれが辛く思えた。


「わたしは王妃の子ではありません。側室の子でもないのです。私の母は、かつてここに仕えていた使用人です」

 玉英の話は事実だった。


 いつの間にか激しくなっていた雨の音を聞きながら、菊花様の口から語られる真実に耳を傾けた。

「母は玉英や鈴香と同じように王宮で働く使用人でしたが、父上……王陛下のお目に留まって、側女として召し上げようとされました。ですが、高貴な出自の王妃はそれを認めませんでした」

 平民が王族に召し上げられるという話は聞かなくはない。だが王妃がそれに反意を示したとなると話は別ということだろうか。

「母が側女となることはかないませんでしたが……すでにその身には子を宿していたのです。王妃は母を宮廷から追放しようとしました。しかし、今度は王陛下が母を守ろうとなさいました。母は身寄りのない方だったそうで……お腹にいるのが王の子であることを隠し、宮廷で住まわせられるよう取り計らってくださったそうです。ですが……出産の際、母は、天に召されてしまいました」

 菊花様はそこまで話すと、一度口を閉じて小さく溜息をついた。

「そうしてわたしは産まれたのです。産まれながらにして独りとなったわたしを、王陛下は憐れんでくださいました。亡き母ではなく王妃の子として、半ば強引に、わたしを王女とすることになさったのです」

 だからか。王妃の反対により王族と認めるはずのなかった子を、王陛下が独断で王女としたのであれば……菊花様の本当の母君が平民であればなおのこと、王妃や他の王族から疎まれるのも無理はないのかもしれない。するとやはり……思ったことをつい口走ってしまう。

「……そもそもは陛下の過ちが原因じゃないか……」

 しまったと思い口を噤んだ。まるで菊花様の存在そのものを否定するような発言だ。しかし菊花様は気にした様子もなく微笑んだまま口を開く。

「ええ、わたしもそう思っています。でも仕方がありません。これは運命なのですから」

「あの、違います、そのようなつもりでは、けっして……!」

「いいのですよ。父上には感謝しています。父上が手を尽くしてくださらなければ、わたしは今この地にはいなかったでしょう。ですからわたしは王妃や姉上の言うことはすべて受け入れますし、彼女たちの望み通り振舞います。それがせめてもの恩返しだと信じているからです」

 菊花様の表情は優しかったが、それは諦めているような顔に見えてならなかった。そんな彼女を見ていると胸が苦しくなってしまいそうになる。菊花様のおかれてきた状況を理解し、ますますかける言葉を失ってしまう。そしてこれから彼女を助けるにはどうしたらよいのか……それがわからない自分に悔しさが込み上げてくるのだった。


 雨音の中、沈黙が流れた。何か言わなくてはと思うが、なにも言葉が出てこない。どうすれば菊花様を救えるのだろうか。私が悩んでいると、突然菊花様が声を上げた。

「あ! そうです」

 明るい声とともに手をたたいて立ち上がるものだから、何事かと思った。菊花様は部屋の隅に置かれた箪笥を開けながら言う。

「お母様が、わたしに残してくれたものがあるんです」

 私は菊花様の背中を見つめながら、彼女が母の形見を取り出してくるのを待った。引き出しの奥から取り出したものは小さな木箱。それを大事そうに両手で持ちながらこちらにくる。そして机の上で箱の蓋は持ち上げられた。

「これは……髪飾り」

 それは木彫りの髪留めで、蕾や花を象ったものだ。手のひらくらいの大きさで、湾曲した板の形をしていて、それに髪を留める棒が長さ方向に刺さる形で二つの穴に収まっている。彫刻はその板の表面に施されていた。木を彫りだしたままのようなあたたかみのある造形だ。専門の道具によっての正確な彫りではないが、花弁一つ一つが丁寧に彫られていて、かなり手がかかっていることがわかる。その花は、菊を模していた。

「お母様が、生前、自身の手で作ってくれたものです」

「母君が、その手で……」

 菊花様は目を細めて言った。その表情はとても穏やかで優しいものだった。母君は出産時に亡くなったため、菊花様には母君との思い出が無いのだが、その髪留めには彫刻という形で母の愛情が刻み込められていると菊花様は感じているのだろう。なんとも素晴らしい贈り物ではないか。私は目頭が熱くなるのを感じた。本当に美しい品だ。

「寂しさが和らぐ気がするんです。お母様がそばにいるような気がして」

「この品が、菊花様の心の支えなのですね」

「はい。ですから、わたしは大丈夫なのですよ」

 そう言って彼女は微笑んだ。その笑みは儚げで、少し寂しそうにも見えた。


 この髪留めが、菊花様にとっての救いだ。なら、こうして仕舞っておくなんて勿体ないのでは。そう、私はひらめいたのだ。これをもっと活用できないものか? そうすれば菊花様も喜んでくれるのではないだろうか。そんな期待を込めて口を開いた。

「でしたら、明日からそれを着けてさしあげましょうか?」

「え……?」

 菊花様は目を見開いて顔を上げた。その視線は中空を漂っている。

「どうかなさいました?」

「いえ、その……」

 なんだか戸惑っているようだ。身に着けたくないのだろうか? いや、そんなことは無いはず。

「もしかして、今の髪形には合わないとお思いですか?」

「え? あ、ええと……」

「そうですね、お団子の髪形では着けること自体が難しいですから、明日も鈴香を呼んで協力してもらいましょう」

「え、ええ……はい……」

 よかった、納得してくれたみたいだ。私は安堵した。

 菊花様を救う手立てがようやく見つかった気がした。はやく明日にならないかというほど、私の心は踊っていた。外で雨脚が強まっているのとは裏腹に。


***


「いいの? 豊蕾。お団子の髪型にしてあげなくて。あんなに練習したのに」

 翌朝、鈴香と共に菊花様の髪を結おうというとき、鈴香からそんなことを言われた。それはそうだ。菊花様と言えばコレというお団子の髪形に整えられるようになるのが、新任である私の第一目標であると言っても過言ではなかったのだ。

「悪いな、鈴香。せっかく教えてくれていたのに」

「あたしはいいけれど……でも、なんで急に、おろした髪形に?」

 鈴香はそう言って菊花様の方へちらりと視線を向けた。菊花様が肩まで届く栗色の髪を揺らしながら微笑みで返すと、答えないのを察したのか鈴香は再び私の方を向いた。そう、これは私の発案だからな。

「この髪留めを菊花様に身に着けてもらいたいんだ」

 私は菊花様から預かっていた木箱の蓋を外す。昨日と同様、中には木彫りの髪留めが収まっている。

「わぁ、すごく丁寧で綺麗な細工ね!」

「だろ?」

「それに菊の花じゃない! 菊花様にピッタリじゃないですか」

「ふふ、ありがとうございます」

 目を輝かせて髪留めを褒める鈴香に、菊花様は口に手を添えて嬉しそうに笑った。

「これ手作りよね。誰が作ったんだろう? 豊蕾が?」

「え? いや……」

「でも、それにしてはいくらか月日が経っていそうね」

 髪留めをまじまじと見ながら推し量っている鈴香に、私は答えに窮する。まさか、菊花様の本当の母君が彫ったものとは言えないからな。菊花様の母が王妃ではないというのは他言無用だ。

「……秘密だ」

 結局、はぐらかすことにした。鈴香は不思議そうに首を傾げたが、深く追及してくることはなかった。助かった。

「まあいいわ。そんなことより、あたしも菊花様がこれを身に付けているところを見たいもの。なるほどね、たしかに髪留めをつけるなら、いつものお団子よりもおろした方が良さそうだわ」

「ああ。だからやり方を教えてくれ、鈴香」

 私は鏡の前に椅子を置き、そこに菊花様を座らせる。彼女の後ろに立ち、櫛をそっと手に取った。滑らかな絹糸のように艶めく栗色の髪に、思わず見惚れてしまう。しかし今はそんな場合じゃない。私は意を決して菊花様の髪に触れた。


 そうして、私は鈴香からの助言を受けながら、菊花様の髪を整えた。と言っても、髪をおろした形にほとんど手をつけない、自然な感じだ。違うのは、栗色の髪の後頭部で、かの木彫りの髪留めが素朴ながら存在感を放っているところだ。横に刺した棒と板は彼女の左右の髪を後ろに流し、後ろ髪の上に一段高い場所を作っていて、それがほんのりおしゃれに見えた。やわらかで温かみのある見た目の髪留めと、髪を逆立てないことによる少女らしさが合わさって、とても可愛らしかった。ずっと思っていたのだ。髪をおろした菊花様は可憐であると。

「ホントはもうちょっと編んだりとかしたいけど、それはこれからかな」

「そうか……。菊花様、いかがですか?」

 鈴香の言葉を聞きつつ、私は椅子に腰掛けた菊花様に問いかけた。彼女はにこりと笑って頷いた。

「はい、とても気に入りました。素敵です」

 そう言われ、嬉しさに加えて何だかむずがゆさも感じた。人に何かをしてあげる喜びというのはこのことなのかもしれない。


「あ、あたしもう行かなきゃ! ここ最近、仕事に行くのが遅くなっちゃって」

 鈴香は思い出したように立ち上がった。彼女は玉英と同じく洗濯などの仕事をする使用人で、雨の日といえども仕事はあるらしい。道具を手早くまとめ終えると、私たちの方を向いて言う。

「じゃあね、菊花様、豊蕾」

「はい、いつもありがとうございます」

「毎日悪いな」

 私と菊花様が礼を言うと、鈴香は笑顔で手を振りながら扉を開き飛び出していった……と思ったが、すぐに顔を出してくる。

「豊蕾、髪留め、大事にしてね! 何なら今日のところは別のものに……」

 すると扉のだいぶ向こうの方から女の声が聞こえた。鈴香を呼んでいるようだ。

「はーい、もう行きますー!」

 鈴香は返事をしてから今度こそ扉を閉め、駆ける足音を廊下に響かせた。騒がしいヤツだ。結局何と言いかけたのかわからずじまいだ。

「では、私たちも少ししたら食堂へ行きましょうか」

「はい……。あの、豊蕾……」

「なんでしょうか?」

「その……ええと……」

 菊花様は俯いてもじもじしている。どうしたのだろう。それにしても、この髪型のお姿は可愛らしい。そう思いながら見ていると、彼女はこちらを見上げてから、再度俯いた。

「いえ、何でもありません……」

 そう言いながら横を向く彼女。頭の後ろの髪留めが見える。うん、やはり良い出来だ。この可憐なお姿を他の者たちにも見せてやりたい。朝食に出かける時間が待ち遠しかった。


***


 ついに食堂へと向かう時が来た。菊花様と廊下を歩く。今日も引き続き、雨が降り続けていた。湿気を感じ、少し肌寒い。その水けに負けぬよう、菊花様の髪には香油を抜かりなく塗っている。おかげで、おろした髪はさらさらと風になびき、美しい光沢を放っていた。髪留めは、改めて見ると、とても温かみを感じるものだった。その木の質感自体が、なんというか、柔らかみがあると言えばいいだろうか。菊花様は、笑顔をたたえ……?

「菊花様?」

「なんでしょうか?」

「……いえ」

 一瞬違和感を覚えたが……気のせいか?


 突き当りを曲がると、また会った。一人の護衛を従えた、蒼い服の王女、蓮玉だ。昨日、彼女には冷たくあしらわれたが、今回はどうだろうか。見よ、髪をおろした菊花様の可憐な姿を。そして、温もりに満ちた髪留めを。きっと彼女も、昨日の私と同じ感動を覚えることだろう。

「ごきげんよう、姉上」

 菊花様が、昨日と同じように蓮玉に挨拶をする。蓮玉の鋭い目は、やはりよそへ向いていた。いつものように、無視をするのだろうか。

 しかし予想に反し、蓮玉は足を止めたのだ。その時、手に汗を感じた。さっきまでは、菊花様のお姿に是非とも反応して欲しいと願っていた。だが、先日と同じようにまた菊花様の髪をけなされたら、菊花様の心が傷つけられてしまうと思い、不安になった。今、蓮玉が険しい表情をしているのを見ると、悪い予感しかしなかった。

「その髪は何?」

「今日は、豊蕾に髪をおろしていただけました」

「豊蕾? ああ、この女ね」

 そう言って私を見る目つきは、相変わらず冷たいものでしかなかった。私は軽く会釈をしたが、すぐに顔を背けられてしまった。

「この女はこんな簡単な髪しかできないの? 侍女でない者にやらせるとろくなことにならないわね」

 どうやら私は馬鹿にされているらしかった。確かに私は侍女ではないし、今日は菊花様の髪型を編み込みのない簡単なものにしたが……そこまで言わなくてもいいだろうに。さすがにムッとする。何か言い返してやろうかと思ったが、菊花様は穏やかな表情で言った。

「わたしは、好きですよ」

「また、それ? どうしていつもそうなの? そうやって自分をごまかそうとしているんでしょう」

 蓮玉は、私を庇う菊花様を追い詰めるかのように言葉を浴びせていく。何故だ? どうしていつもそうなんだ。菊花様が王妃の子ではないからって、どうしてそんな言い方をするんだ。

「それに、このみすぼらしい髪留めはなによ」

 その言葉に、頭に血が上った。菊花様の大事な髪留めを侮辱するなんて許せない。たかが高い物好きが、ろくに見ずに適当なことを言うなと思い、握った拳が震えた。これ以上馬鹿にされるようなら、一声放ってやろう。そう思っていた。

「あら、でも……」

 菊花様の後ろに回った蓮玉が髪留めに手を伸ばす。何をするつもりなんだ? そう思ったとき、菊花様の後ろ姿が急にこわばり、びくりと震えた。

「あ……!」

 菊花様が声を発したのとほぼ同時に、蓮玉の指がその髪留めに触れる。


 小さな弾ける音。髪留めが、菊花様の髪からするりと下る。それは廊下の絨毯の上に落ち、木の折れる破裂音がした。

 髪留めが二つに割れた。

 髪留めの片側が棒から外れ、私の膝の高さまで跳ね上がった後、床に落ちる。乾いた音が立った。

 私の目の前で、菊花様の産みの母の形見であり、菊花様の心の支えが、壊れた。

 頭が真っ白になった。


 菊花様がこちらに振り返る。下を向き、その壊れた髪留めを呆然と見つめている。その顔は固く、強張っていた。

「ずいぶん弱っていたようじゃない。すこし撫でただけで壊れてしまうなんて」

 蓮玉が俯く菊花様にそう言い放つと、菊花様の唇が震え、そしてしゃがみ込んでしまった。髪留めを拾う菊花様から、かすかに嗚咽が漏れている気がした。その声が痛い。あまりに悲痛なその様子に、胸が締め付けられる。

「菊花?」

「……おい!」

 平然とした振る舞いの蓮玉に、私は怒りを覚えた。思わず声を上げてしまうほどに。気づけば蓮玉の胸倉を掴んでいた。

「な、何!?」

 彼女の護衛の男が間に入ってくる。太い腕で肩を押され、彼女から離された。

「お前、何をしたのかわかっているのか!」

「何って、ただ勝手にその髪留めが落ちただけじゃない」

 私の剣幕にも全く動じない様子で答える彼女に腹が立つ。こいつ、自分が悪いと思っていないのか。

「そんなわけあるか! お前のせいで、菊花様の母君の形見が……何よりも大切なものが……!」

「……はぁ!?」

 今度は怒ったように眉を寄せたかと思うと、彼女は私に食ってかかる勢いで口を開いた。

「あんた、それ本当なの!?」

 その問いかけと同時に、菊花様が立ち上がると、突然駆け出した。自室のある方へ向かって。

「菊花様!」

 私も慌てて追いかけようと身を返したが、後ろから蓮玉の声がかかったので立ち止まった。

「ちょっと! なんで、そんな大切なものを身に着けさせるのよ! あんな朽ちかけた木を、こんな雨の日に。 バカじゃないの!?」

 その言葉を私は背中から受け、絶句した。思い知らされたからだ。全く否定できない。


 どうして気が付かなかったのだろう。菊花様にとってどれほど大切な品であるか、わかっていたはずなのに。それを自分の都合ばかり考えて身に着けさせたのだ。彫っただけの古い木が、湿気の多い日に耐えられるはずがなかったというのに。

 これは自分のせいだと強く思った瞬間、足が鉛のように重くなった。追いかける気力が失せてしまった。それでもなんとか足を前に出す。頭の中がめちゃくちゃだった。どうすればいいのかわからないまま、足を引きずることしかできなかった。


***


 雨音の中でも、扉越しにも、それは聞こえていた。菊花様のすすり泣く声。とても、その扉を叩けるような状態ではなかった。どんな顔をして会えばいいというのだ。菊花様は、傷ついているに違いないのに。菊花様の部屋の前で、扉を背にして座り込んだまま、動けずにいた。

 どうしよう。どうしたらいいんだ。頭の中で言葉がぐるぐると渦巻く。謝るしかない。いや、謝ったって許されないかもしれない。取り返しのつかない失敗をしてしまったのだ。

 鈴香は気づいていたんだ。去り際に、別の髪留めに付け替えるよう促そうとしていたじゃないか。それなのに私は。

 気づけば涙がとめどななく流れていた。私は一体何をやっているんだ。悔しさと情けなさで胸がいっぱいになる。いっそこのまま消えてしまいたいと思った。必死に声を殺して泣きながら、靄に満ちた何かの中をさまよい続けるかのような思いのまま、時間が経っていく。どれほどの時間かはわからない。とにかく長く感ぜられた。雨音が、菊花様の嗚咽が、頭の中で反響していた。


「ちょっと」

 若い女の声が、頭の上から聞こえた。

「なんてザマよ。どきなさい。菊花は中なんでしょ」

 顔を上げると、蓮玉がしかめっ面を私に向けていた。なぜ蓮玉がここに?

「その様子だと、まだ菊花に顔を見せていないのね。ほら、開けるわよ」

 そう言うと、彼女は私が寄りかかる菊花様の部屋の扉を無理矢理引いた。彼女の背後の護衛がそれを手伝ったので、私の体は扉に押されるように動いた。

「菊花」

 蓮玉が部屋に向けて声を放つ。

 そこに菊花様はいた。部屋の中央で、絨毯の上に座り込んでいる。両手で顔を覆いながら、俯いていた。

「あ……姉上……豊蕾……」

 菊花様が振り返る。私と、目が合った。

 その目は赤く腫れていて、涙で濡れていた。眉尻が下がるその顔は、悲しみに満ちていた。その姿に胸を締め付けられる。

「菊花様……菊花……様……」

 かける言葉が見つからない。心の準備ができないまま顔を合わせてしまい、何と言えばいいのかわからなかったのだ。だが、今も涙を流す菊花様の潤んだ眼が私を捉えているのがわかると、それで済むわけがないのはわかっていながら、謝るしかなかった。立とうとするとふらふらとしてしまった。前のめりで、部屋に入り、床に両手を着く。

「申し訳ございません……申し訳ございません……!」

 私は額を床に押し付け、必死に叫んだ。

「私のせいです……全て私のせいです……お許しください……!」

 涙が溢れて止まらなかった。

「豊蕾は……悪くないです……わたしが、なにも言わなかったから……」

 私が顔を上げると、菊花様は再び俯いて顔を押さえてしまった。肩が小さく震えているのが見えた。私はもう何も言えなくなってしまった。私も再度頭を下げるしかなかった。ただひたすらに涙を流し続けた。


「ああ、もう」

 そんな私たちを見て、蓮玉は呆れ果てていた。

「全く。……さ、あれ、出しなさい」

 蓮玉は、その後ろに付いてきている護衛に指示を出したようだ。

 大柄の彼は手に持つ巾着袋の中から、手のひら程の大きさの袋と、手のひらに収まるくらいの小瓶を取り出し、蓮玉に渡した。大きい方の袋は彼女の小さい手より大きいが、片手に乗せて見せていた。そして私に向かって言い放つ。

「ほら、ニカワ!」

 蓮玉は袋を手の上で軽く弾ませるように振る。ざっざっという乾いた音がした。袋の中で粒状のものが擦れているようだ。

「……ニカワ?」

「知らない? くっつけられるの。物を」

「くっつけ……」

「だから、これで髪留めを直せばいいじゃない、ということよ!」

 私の言葉を遮り、苛立った様子で彼女が言った。理解するのに少し時間がかかった。

「直せるのか……? そんなことが……」

「完璧には無理よ。でもくっつきはするから。使い方は、厨房の使用人にでも聞いたらいいわ」

「……はい、ありがとう……ございます……」

 まさかそんなことができるとは思いもしなかった私は、呆気に取られながらも礼を言った。

「あと、こっちは木材を保護する木の脂だから。晴れの日に木を乾かしてから塗ることね」

 それは小瓶に入っているらしい。袋と一緒に私の体に押し付けて来る。私は体を起こし、落とさないようにと両手で受け取った。


「わたしは菊花に話があるから。だから出てって」

「え……?」

「ああ、あんたは……ほら、あれを持ってきて……わかるでしょ。全く……」

 蓮玉は護衛の男に耳打ちをして部屋の外に走らせたあと、菊花様の方を向いた。菊花様は、その赤い目で不思議そうに蓮玉の顔を見ていた。

 菊花様を蓮玉と二人きりにするのは不安だった。彼女はこれまで菊花様に対し、冷たく接してきたのだから。

「しかし……」

「虐めたりしないから。聞かれたくないだけよ。だから、菊花と二人にして」

 私は躊躇うも、彼女に強く言われてしまったので従うことにした。

 袋と小瓶を懐にしまって立ち上がる。髪留めは菊花様の近く、絨毯の上に置かれていた。

「……豊蕾……」

「……直してきます」

 二つに割れた髪留めの断面は荒れていた。蓮玉の言う通り、木を彫っただけの状態で十年置かれた木製の髪留めはかなり弱っていたようだ。もっとよく見ておけばよかったと後悔する。これは私の手で直さねばなるまい。割れた髪留めを拾って、両手に収めた。

 菊花様の不安そうな顔を見ると、蓮玉から何を言われるのかと心配なのだろうと思う。大丈夫だろうか。何かされやしないか? できるだけ早く戻らなければ。そう思いながら部屋を飛び出したのだった。

***

 厨房を出て、菊花様の部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた。両手で盆を水平にして持つ。その上に、髪留めを置いて。

 割れを繋いだ箇所は、目立つ筋が入ってしまっている。割れの断面が粗かったせいだ。それでも、元の形には戻せたはずだと、私は思っている。ニカワを湯煎して温め、塗って冷やして固め、失敗すれば温めて剥がし……を繰り返していたため、既に正午を回っていた。菊花様は大丈夫だろうか。蓮玉にひどいことを言われていなければいいのだが……そう思うと心が痛んだ。

 角を曲がったところで大と小の人が見えた。

「終わったの?」

 姿を認めてすぐ、小の方……蓮玉が落ち着いた声で話しかけてきた。その声に安堵し、私は小さく頷いた。蓮玉は腰に手を当てながら、私が持つ盆の上を覗こうと首を伸ばすような仕草をした。蓮玉の護衛も上からそこにある髪留めを覗き込んでいる。

「ふぅん。いいんじゃない。菊花に持っていったら?」

「……そうですね」

「食べ物、菊花の部屋に持ってこさせたから。あんたも食べるといいわ」

 そういえば朝から何も食べていなかった。菊花様もだ。先に食べてくれていればいいが、あの方のことだから待っているかもしれない。

「ありがとうございます」

 礼を言うと蓮玉は小さく頷き、それから私の顔をじっと見つめてきた。なんだか居心地が悪い気がしたが、目をそらしてはいけないような気がしてそのまま見つめ返すと、彼女は口を開いた。

「あんたのしたことは、浅はかだったわ」

「……はい」

 その通りだ。何度同じことを言われても言い返せはしない。

「……わたしも、わるかったけれど……」

「はい?」

 小さな声で呟く蓮玉。意外な言葉に、思わず聞き返してしまった。すると彼女は顔を真っ赤にして声を張り上げるように言った。

「いっ、一度しか言わないから! それから、菊花に何かあったら、わたしに言いなさい! できる限りのことはするから!」

 一瞬、ぽかんとしてしまったが、すぐに我に返る。菊花様に対して邪険にしていた彼女の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかったからだ。私は頭を下げた。

「かしこまりました。感謝いたします……」

「何でも聞くってわけじゃないんだから! 勘違いしないでよね!」

 大きな声に顔を上げると、蓮玉の人差し指が私を指していた。何を怒られているのかわからず目を白黒させているうちに、彼女はつんとした顔を作って私の横を通り過ぎて行った。それを見て護衛の男も慌てて後を追ったのだった。

「いったい、なんだったんだ……」

 ひとり呟き、首を傾げつつ、私は歩みを再開した。


***


「菊花様」

「はい、どうぞ」

 菊花様の部屋の前で声をかけると、中から返事があった。その落ち着いた声に、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。扉を開けると、菊花様は机のそばの椅子に座っていた。微笑みを、私に向けてくれていた。よかった、気落ちしてはいないようだ……そう思いつつ、お盆を持ったまま部屋に入り、扉を閉める。机の上に肉団子や芋の煮物が入った皿や椀が並べられている。蓮玉の言う通り、食事がここに運び込まれていたのだ。それに手を付けられた様子はなかった。やはり菊花様は私を待っていてくれていたのか。

「遅くなって申し訳ありませんでした」

「いえ、いいんです。それより……」

 菊花様は椅子から降りて駆け寄ってきてくれた。髪留めをまじまじと見つめては、ぱぁっと明るい表情になる。

「わぁ、すごいです! 直してくれたのですね!」

「繋ぎ目が目立ってしまいますが……それに、力がかかると剥がれて……」

 残念なことに接着強度はあまり強くないようだった。私は申し訳なく思いながらも正直に伝えた。だが、菊花様は気にした様子もなく、それを手に取った。そして楽しげに笑いながら、後ろ頭に押し当てて見せた。朝、髪に着けていた位置である。菊花様は、それを手で押さえたまま、横にくるりと回った。髪が靡く。再度正面を向いて止まると、彼女は私に笑いかけてくれた。その笑顔に、どきりとしてしまう。

「どうですか?」

「あ、えっと……お似合いですよ」

 嘘ではない。私が似合うようにと髪を整えたのだから。でも、たぶんそうじゃない。また、見ることができた。菊花様の自然な笑顔を。それが嬉しくてたまらなかったのだ。


「あの、その髪留めは、やはり仕舞っておきましょう。繋ぎ目が剥がれてしまいますし、何より、大切なものですから」

「いいえ」

 え? 菊花様の口から出た"いいえ"。初めてかもしれない。菊花様が人の意見を否定したことなどあっただろうか。驚いてしまい、言葉が出なかった。その間に菊花様は続ける。

「豊蕾。この髪留めは、これからも髪につけてください。壊れたら、また直してくださいますか?」

「し、しかし、またすぐに壊れてしまうかと……」

「では、壊れなくなるよう、工夫をしましょう」

 なんだかいつもの菊花様ではないみたいだと思った。どうしてしまったのだろうか? 私の戸惑いをよそに、彼女は私の手を取りながら言うのである。その強い眼差しに圧倒されるばかりだ。

「わたしは嬉しいのです。お母様からの贈り物を身に着けられることよりも、豊蕾がわたしのために何かをしようと考えてくださったことが何よりも嬉しいです。ですから、豊蕾がしてくれたとおりに、わたしはこれを身に付けたいです」

 その言葉は不思議と菊花様の本心のように聞こえた。私も嬉しかった。嘘ではない彼女の本当の気持ちに触れられた気がして。

「……わかりました。必ず、壊れなくなるようにします」

「わたしも考えましょう。一緒にごはんを食べながら……」

 椅子に座るよう促しながら話す菊花様はとても楽しそうだ。私はそれに従い椅子に腰掛けたのだった。


 それからは、昼食を食べつつ談笑した。髪留めの補強の方法について、菊花様は金具をあてたり紐を巻き付けたりなどの方法を提案してくれた。二人きりだったので私も遠慮なく話ができたように思う。とても楽しく、幸せだった。この時間がずっと続けばいいのに……そんなことを思ったほどだ。


 菊花様は蓮玉から……いや、蓮玉様からどのような話をされたのだろう? わからないが、きっとこの笑顔が答えなのだと思うことにしたい。今はただ、この楽しい時間を心ゆくまで味わうことに専念しようと思ったのだった。

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