第3話 庇護

「へへ、弱っちいなぁ、新入り」

「は、離せっ!」

 これは、この光景は? 私の両手首を掴んで組み敷いてくるこの大男……ユイ家の同胞だ!

豊蕾フェンレイって言ったかよ? 女のくせに、俺たちに混ざって剣士を気取りやがって」

 そうだ、これは確か、私が虞家の一員として働こうというとき、古参の男と模擬戦をして負けた時のものだ。背中に張り付く道場の床が軋む。しかし、なぜ時が戻ったのだ?


「女の役割っていやあ、わかってるよなぁ?」

「何……?」

「来いよ、おめえら! やっちまおうぜ!」

 こいつは子分を何人か従えていた。そいつらが私を囲う。

「一見ガキだが……こいつぁ上物だぜ」

 私の両手首を大きな左手でまとめて掴みなおし、右の汚い手で私の顔を持ち上げてきた。心底気持ちが悪く、喉の奥から息が漏れる。抵抗しようにも力では敵わない。


 だが、直後。男の頭から鈍い音。

「ッてぇ……」

 痛がっている。後頭部に何かが当たったらしい。男が体を起こして振り返る。

「これはこれは、品のないことよ」

 落ち着き払った低い声が聞こえるその先に、木刀を肩に担いだ、背の高い短髪の男。

「テメエ……睿霤ルイリョウ! 邪魔すんじゃねえ!」

 睿霤? そうだ、そうだったかもしれない。睿霤とはこのとき初めて出会ったんだ。睿霤は切れ長の目で男を見下しながら、喉の奥で笑い声を鳴らしていた。

「なに、先輩方が新人をどうしごくのかと、道場に来てみれば……なんとも、野蛮なことだ」

「うるせえぞ! 部外者はすっこんでやがれ!」

「ああ、別にその女はどうでも良いが……俺と腕試しでもしようではないか……なあ?」

 睿霤の妙な言い回しのせいでよく分からなかったのだが、今思えば奴は私を助けようとしていたのだろうか? いや、違う。奴はただ単に退屈していただけだ。

「上等だ! お前ら、手を出すなよ。 こいつはオレがやる」

 男はそう叫び、立ち上がった。私は座ったままじっとしていた。情けないことだが、気が動転していて動けなかったのだ。


 睿霤は木刀を右に垂らす形で構えた。奴はこの妙な構え方をすることが多い。

「どうした、来ねぇのか? じゃあこっちから行くぞ」

 構えたまま動かない睿霤に男は言い放つが、それでも睿霤は鼻を鳴らすだけだ。

「テメエ! 隙だらけなんだよっ!!」

 男は木刀を右上に振り上げ、睿霤の空いた左側を狙って打ち込んでいく。確かに睿霤の構えには隙が見える。木刀を垂らしているせいで左側を守れないのだ。見た目で言えばな。

 男の振り下ろしの刹那、睿霤は動いた。右足を前に滑らせ木刀を上げる。木の枝を扱うかのように、その動きは軽い。木刀の重みを感じさせなかった。

 睿霤の木刀の先が、男の喉を突いた。男は苦しげに呻いて、たった一撃でその場に倒れた。


 睿霤らしい、いやらしい戦法だ。刀を垂らして無防備に見せかけながら相手を油断させ、武器を振りかぶってくるところに反撃する。あの細い目が、不気味さを際立たせている気がした。そして、その目は獲物を狙う狼のように鋭く光っているのだ。


「こいつ、卑怯な真似を!」

「畳んじまえ!」

 男の子分ども四人が、睿霤に向かっていった。睿霤は振り向かない。どうした? よそを向いていては反応できないではないか……と、当時は思った。睿霤の横顔は嗤っていた。


 子分の一人が睿霤に近づいて木刀を上げた瞬間、睿霤は体を右に捻って木刀を薙ぐ。子分が振り下ろすよりも先にそれは胴に当たって、鈍い音の後に子分は倒れこむ。他の三人がたじろぐと、睿霤は一転攻勢に出る。そこからは簡単だった。一度攻撃を防がせては、空いたところを打つ。それを三度行っただけで、三人は倒れた。


 私は床に座ったままその光景を眺めていた。助かったことの喜びよりも、睿霤の技への驚きの方が勝っていた。油断させて斬る。それは見た目ほど簡単ではない。相手の攻撃速度を計らねばならない。それに、相手に必ず攻撃が通ると錯覚させなければならない。そして、相手を超える速度で、武器を振らなければならないのだ。並大抵の腕では出来ない芸当である。

「道場が獣のにおいで汚れては、気分が悪いからな」

 何も聞いていないのに、睿霤は呟くように声をかけてきた。私を助けた訳では無いと言いたいのか? それとも、私が奴らに好きなようにされている様を想像させたいだけか? とにかく、その冷淡な言い振りに、感謝の情などは湧かなかった。むしろ、屈辱を感じたくらいだ。


 だが私は今、昔と違う台詞を吐こうとしていた。なぜか言いたかった。記憶の映像の中で、去っていく睿霤の背中に私は言った。

「睿霤」

 声を出せた。睿霤は反応していないが。

「お前、もしかして、いつも、こうして……」


 静まり返る部屋で、私は目を覚ました。やわらかな寝台と毛布に身を包まれている。大きな窓からは日が差し込み、部屋は薄明かりで照らされていた。

 そうだ。私は、菊花ジファ様の側近となって、元侍女の部屋を与えられたのだった。

「夢……か」

 さっきの過去の映像は……なんで、また夢として見たのだろう? あのとき私を救ったのが睿霤だったなんて、もうすっかり忘れかけていたというのに。そして最後に私は何を言いかけたのだろうか? 自分でもわからない。あいつはわざわざ私に構っては苛立たせてくる、不快な存在だ。言ってやりたいことなど別に無い。もう、どうでもいいか……どうせ夢の中の話なのだから。


***


「子守か、豊蕾よ」

 早速、睿霤と鉢合わせするとは……。複雑な気持ちだ。だが、この奴の嘲るような目を見ると、やはり腹が立った。だから私も睨み返してやったのだが、奴は気にも留めずに鼻で笑うだけだった。


 宮廷内では、王子らと、王女らとで、居住区は分けられている。私は王女に、睿霤は王子に仕えているため、奴と顔を合わせる機会は滅多に無いはずなのだが。

 たびたび、菊花様は書庫の本を必要とされるようで、今回、そこへ行くのに付き添っていた。その書庫が、男側の区域に寄った場所にあるので、ちょうど行きあったわけだ。気を遣われた菊花様は、私が睿霤と話があるだろうと、一人で書庫に向かわれたのである。お気遣いをしてくださるのは嬉しいが、私はこいつと話をしたくない。


「子守ではない。菊花様をお護りしているのだ」

「そうか。それにしては、お前が舞い上がっている様に見えるが」

 返しあぐねた。実は朝、菊花様の髪結いを鈴香リンシャンに手伝ってもらった際に、私の髪も梳いてもらったのだ。さらに化粧をして髪飾りをつけてもらったし、花の香りもほのかにつけてもらってある。浮かれていないと言えば嘘になるのかもしれない……しかし、こいつに言われる筋合いはない。

「お前は暇なのか? こんなところで油を売るとは」

「つまらん仕事だからな。実戦の機会は皆無。第三王子は嫁探しのことしか頭にない腑抜けだ」

 強がるのかと思って言ったのだが、意外にも鼻で笑って急に愚痴を言いだした。

「あのブタガエルの命を狙うような者など、せいぜい襲われてきた女どもくらいだろう」

「おい、そんなことを言っては……」

 王族に対して暴言を吐く睿霤に思わず戸惑う。誰かに聞かれたら不味いと思うのだが、睿霤は気にせず喋り続ける。

「こんなことなら、これまで通り暗殺を繰り返していた方がよい」

「そうはいっても、陛下と長の命なのだから仕方がないだろう」

「お前は良いな。やはり子守が丁度よいのではないか?」

「……なんだと?」

 含みを感じた。

「あの女とガキを斬れなかった腑抜けのお前には、お似合いだと言ったのだ」

「おまえ!」

 この男は私を怒らせるのが上手いな、相変わらず。挑発だとわかっているはずなのに、我慢ならない怒りが込み上げてくる。刀の柄に手をかけた。睿霤はニヤニヤしているだけだ。抜かないとわかっているのか。本当に抜いてやろうか?


「豊蕾、どうしたのですか?」

 菊花様だ。書庫から出てきていたらしく、本を何冊か抱えて、こちらに歩いてくる。

「菊花様……」

 そのぽかんとした顔の黒い瞳に見つめられ頭が冷えた。柄から手を離す。どうでもいいではないか、睿霤のことなんか。

 本を受け取ろうと手を伸ばすと、菊花様は一歩、身を引いた。硬い表情をしている。しまった、見らてしまっただろうか? 今、奴に殺気を向けたのを。


「まあ、意気は充分か」

 睿霤にぼそっと呟かれる。何を言っているんだ?

「……話は終いだ」

「は……?」

 わけが分からず固まってしまう。菊花様は今もきょとんとした表情をしながら睿霤を見ていた。

「ではな」

 一瞬睨まれたような。そして睿霤は背を向け、廊下の奥へと去っていった。


「そういうこと、でしたか」

「え?」

 何か納得した様子の菊花様。要領を得ていない私の顔を見上げて微笑んだ。

「気合いを入れていたのですね。驚きました。凄い迫力で」

「……あ」

 そういうことか。

「は……はい、そうなんですよ! 気を引き締めなければと思って!」

「ふふ、わたしも頑張らないと!」

 上手く誤魔化せた。睿霤のおかげで。しかし睿霤が私のために? いや、単に話を切り上げたかったがための言葉だったに違いない。

「では、行きましょうか」

 菊花様に促されるまま、私たちは歩みはじめた。


***


 菊花様はさっそく書物を机に並べては、一冊選び、椅子に座って読み始めた。

 ここは菊花様の部屋だ。豪奢でなく、質素ではあるが居心地の良い部屋である。寝台や机は木製で、絨毯は桃色の布張り。棚の上には花瓶が置いてあり、花が活けてある。この部屋の主である菊花様の人柄を表しているようだった。


 私も椅子を借りて、机に肘をついて座る。そして、向かい側にいる彼女の顔を眺めた。凛とした面持ちである。長い睫毛と漆黒の瞳が美しい。昨日も思ったことだが、やはり将来、美しい姫として成長するに違いない。

 王女というのは貴族や同盟国の王族に嫁ぐために、知識や教養を身につけるらしい。菊花様のこの勉強熱心さを見る限り、きっと賢く育つのだろう。


 菊花様は本の内容を記憶に刻み込もうとしているのか、時折呟くように文章を読んでいた。

「……西の地……寒冷で乾いた風……痩せた土地……そこで暮らす人々は貧しく……彼らは……」

「西方ですか」

「ええ。彼らは、白い肌、蒼い瞳、薄色の髪をしていると」

 白い肌か。そっちの方は睿霤みたいな白肌の人間だらけなのか? ゾッとする話だ。まあ、私がその地に出向くことはまず無いだろうが。

「痩せた土地で、貧しく暮らす人々……そのような"絶望の地"みたいな場所に、よく人が住んでいますね」

「そうですね。彼らの祖先がそこに住み始めたのは大昔のことですから……きっと気候の変化もあったのでしょうけど……」

 すごいな。過去の歴史まで遡るその考え方、私にはひっくり返ってもできはしない。

「そうですか……」

 とりあえず相槌をうつくらいしか、私にはできなかった。

「……ここの地は、肥沃ではありますが……」

 そう言って、菊花様は言葉を詰まらせた。

 私たちが暮らすこの国は木々は生い茂り、作物は豊かに実り、畜獣も多い。温暖な気候に恵まれ、水も豊富で困りはしない。豊かな地であるのは間違いない。

「その代わり、争いが絶えません。豊かな土地は人を増やします。そのぶん諍いも増えてしまいます。国は統一と分裂を繰り返さざるを得ませんでした」

 彼女はため息をついた。確かにそうだ。この国こそ、王となる前の現国王が愚鈍な領主を廃して勝ち取った地を基盤としているのだから。今はまだ小さいこの国の周辺には大国がいくつも存在し、互いに牽制し合っている状況なのだ。だから、私たち虞家の一族のような暗殺に長けた武人も重宝される。我々は武が存在意義であり誇りでもある。


「……あの、そういえば、豊蕾」

 声を震わせ気味に菊花様は口を開いた。

「なんでしょう?」

「さっき、あの男の方が仰っていましたけど……その……」

 睿霤のことか。まさか誤魔化しきれていなかったのだろうか? そう思い菊花様の言葉を待っていると、その口はゆっくりと開いた。

「……あなたが、女性と、子を、斬らなかったと」

 胸を突かれた思いをした。そこまで聞かれていたのか。敵国の王族の母子を、暗殺者である私は斬らなければならなかった。だが……。視線を窓に向ける。空は青く澄み渡っていた。

「豊蕾、あの……」

「覚悟が足りなかったのかもしれません」

 菊花様が何かを言いかける前に、私は自分の口から言葉を発した。睿霤の言う通り、斬れなかったのだから、それは事実だ。言い訳などしない。

「その……斬らなかったということは、その親子は、無事に生き残ることができたのですよね?」

「……え?」

 意外な言葉に、思わず菊花様の顔を見てしまう。その漆黒の瞳と目が合うと、菊花様は照れたように笑った。

「それなら、喜ばしいことではありませんか」

 睿霤の責めを覆して私を庇うような発言に面食らう。なぜそんなことを言うのだろう? どうしてそんな風に笑えるんだろう? たとえ女や子供でも、情けはかけられない。戦いの場での躊躇は死に繋がる。それに女子供だって将来敵となる可能性が無くはない。正しいのは睿霤の方だ。

「ですが、敵を斬れないようでは、いざというとき……」

「豊蕾は悪くなかったと思います。わたしはあなたを責めたりはしません」

 言葉を選んでいると、菊花様は静かにそう言った。私の目を真っ直ぐ見つめながら。その言葉と視線に胸が熱くなるのを感じた。思わず目を逸らしたくなるほどに。

 ああ、そうか。この人は本当に優しい人だ。こんな私にも、慈悲をかけてくれるのか。なんて清い心の持ち主なのだろう。だが同時に、そんな彼女を守るには私がもっと強くならねばならないのだと痛感させられた。だからこそ、彼女の言葉をそのまま受け入れることはできなかった。

「……ありがとうございます」

 頭を下げた後、私は視線を机に落とすしかなかった。


 しばらくすると、外のあの長い廊下をドタドタと歩く音が聞こえてきた。こちらに近付いてくる。巨漢か? やけに大きな足音だ。他にもいる。三人か。仮に刺客だとするとあまりに無警戒だな。違うだろうと思いながらも、私は立ち上がり、刀の柄に手を置く。

「豊蕾……?」

 扉を向く私の後ろで菊花様は気の抜けた声で呟いた。


 足音が部屋のすぐ前まで来たかと思うと、扉が勢いよく叩かれた。

「菊花、開けろ! おれだ!」

 男の声だ。若そうな高めの声だが、声質から、言っていることから、いかにも図々しい。

「兄上! はい、ただいま……」

「私が」

 自ら扉を開けようと立ち上がる菊花様を手で制す。菊花様の兄ということは王子か。扉へ歩いて開けると、金飾の帽子が目に付く。少し視線を下げてその姿を確かめた。その男は青色を基調とした服を着ていた。おそらく王子だろうというのが、その刺繍の入った服飾でわかるが、その服はまるで横に巻いたようになっていて分厚い。顔を見ると、輪郭が弛んでいる。もしや弛んだ体をその服で誤魔化しているのではないか。目は細く、王妃に似ている気がする。

 刺客ではなかったため横にはける。いったい菊花様にどの様な用事があるというのか。

「兄上、どうぞお入りくださ……」

「菊花、お前に用があるわけじゃないぞ」

「え?」

 そう言うと王子は除けた私の方を向く。

「ほう、こいつか」

 どういうことだ? 私を値踏みするような目付きで見てくる。そしてずかずかとこちらに歩いてきて、目の前で立ち止まった。私は少し目線を下げた。こいつは私より背が低い。

「なるほどな」

 そう言って、王子はさらに私の頭から足にかけてをじろじろと見てくる。気色が悪い。

「どれ」

 王子は突然、両手を私の前に突き出すと……。思わず声が上ずった。私の服の襟を掴み、力一杯下ろしてきたのだ! 私の胸の谷間までが露わになる。あまりにも唐突で一瞬反応が遅れた。

「や、やめろ!……やめてください!」

 慌てて離れて服を上げた。顔が熱くなる。何なんだ、この男は!?

「まあ、いい体ではないか。合格だ」

 腕を組み笑っている王子の顔は醜悪にしか見えなかった。何がしたいのかわからない。とにかく不快だ。怒りのあまり、睨んでやろうと目を凝らすと、背後にいる男二人のうち背の高い一人の顔に見覚えがあるのに気づいた。

「睿霤!?」

 なぜこいつがここに? 睿霤にこんな姿を見られて最悪だ。というか、奴は私を庇おうともせず、ただ何の気なしに見ているだけだ。それを見て私は睿霤の言葉を思い出した。”第三王子は嫁探しのことしか頭にない腑抜けだ”……つまりは。王子の憎らしい顔を見直す。ブタガエル。やはりこいつが、睿霤が仕えることになった第三王子か。

「ああ? こいつ、睿霤の知り合いか?」

「……こやつはこれでも我らが虞家の一員です」

 睿霤の言葉は面倒くさそうであった。これでもとはなんだ。

「ふうん、そうか。じゃあ、お前でいい。おれの妃になれ」

「は?」

 何を言っているのだ、この馬鹿は。

「兄上、突然何を言い出すのですか……?」

 菊花様も唖然としている。当然だ。初対面の女に対して、いきなり求婚するなどあり得ないことだ。

「いい女が入ってきたと昨日から噂だったからな。おれもようやく父上から妃が必要と言われたから、ちょうどいいと思ったんだ」

「そやつはただの剣士です」

 ぼそっと呟く睿霤。そうだ、私みたいな庶民を王族が娶るなんて問題だ。

「いいんだよ。なんたって前例が……おっと」

 そう言う王子の横目は菊花様を見ていた気がした。菊花様はその視線に気づいているのかいないのか、黙って下を向いているだけだ。しかしその顔は明らかに困惑している。

「とにかく、おれは決めたんだよ。この女を連れていく」

 そう言って王子は私の腕を掴んできたが、咄嗟に振り払う。

「嫌です!」

「なんだと?」

「私は菊花様をお護りするのが役目です。あなたのような男についていくつもりはありません」

「威勢のいい女だ。だがなあ、いいのか? おれの機嫌を損ねたら、菊花がどうなるか……」

 菊花様を盾にする気か? 卑怯な男だ。

「豊蕾、私のことは気にしないでください」

「菊花様……」

「兄上、どうかお許しを……」

「駄目だな」

 菊花様が頭を下げているが、それでもなお、王子は傲慢な態度を変えようとしない。


「王子。こやつも一応は剣士の端くれ。今は反抗しているが、戦って負かせれば言うことを聞くのでは」

 頑として譲らない態度の王子に睿霤が提案したことで事態は動いた。

「戦ってだ? なに言ってんだよ、お前」

「力で屈服させ、そのまま思う存分に辱めてやればいいんです」

「……は!?」

 思わず声が出てしまった。侮辱するにも程がある!

「お前、なにもそこまで……いや、それもいいな」

 そのブタガエルの顔がにやりと笑うのを見て寒気が走る。

「模擬試合なら中庭でやるのだろう。観客でもつけば、さぞ盛り上がるのでは」

「お……おう。睿霤、お前という奴は……よくわかっているじゃないか」

 二人の会話に、菊花様は口を手で覆い、呆然としていた。

「豊蕾、すみません……こんなことになってしまって……」

「いえ、菊花様のせいではありませんよ」

 菊花様は悪くない。悪いのはあの豚野郎と睿霤だ。それにしても、まさかこのようなことになるとは。

 勝てば良い。そうすれば私の身は守られる。あんな肥えた奴に負ける要素は無い。だが菊花様はどうなるのだろう? それを考えると、果たして本当に勝って良いのか不安になる。

「そうと決まれば中庭へ行くぞ! 睿霤、何やってる!」

 王子が呼ぶ先で睿霤は屈んでいた。菊花様の横で。本当に何をしているんだ? 呼ばれて立ち上がる彼の顔は怪訝そうだった。自分で提案しておきながら、何で面倒臭そうなんだ。

「睿霤……!」

 去り際の彼に声をかける。喉から低い声が出た。

「なるようにしかならん」

「いや、お前のせいだろ……!」

「おい! 行くって言ってるだろ、睿霤!」

 王子、睿霤、そしてもう一人の護衛は、共に部屋を出ていった。


 部屋には菊花様と私が残った。菊花様は黒目を揺らしていた。

「豊蕾……その……全力で戦えばいいと思います! わたしのことはお気になさらず……兄上に何かされても、わたしが自分でなんとかしますから!」

「その”何か”とは何ですか」

「そ、それは、あの……」

 言葉に詰まる菊花様の顔は青ざめたように見えた。王妃や王女らに虐げられている菊花様。王子らからも同じ扱いをされているとすれば、そのような想像をするのも無理は無いだろう。

「私が勝てば、王子の面子をつぶすことになる。そうなれば菊花様にも影響が出るでしょう」

「ですが、豊蕾がひどい目にあうなんて、わたしは……」

 菊花様は泣きそうになっていた。優しい方だ。そんなお方を守るには、自身を犠牲にするしかないのか。

「菊花様、大丈夫です」

「え?」

「……大丈夫です……」

 何か手はないか。考えるんだ。あのブタガエルの面を二度と見られないようにする方法を。


***


 宮廷の中庭は広く、芝生が広がり、背の低い木や黄色と白の花などが植えられている花壇があった。端の方には小さな池があり、水面には蓮の葉がいくつも浮かんでいるのが見えた。それらが陽光を受けて輝く様子は美しく、まるで絵画のようであった。その中央には芝が禿げて土が見えている地面があり、王子はそこで待ち構えていた。どうやらそこが戦う場所のようだ。その周りには男たちが何人か集まって立ち話をしていたが、私と菊花様の姿を見つけると、一斉にこちらを向いた。こいつらは王子が集めたのだろうが、どう言って連れてきたのか、みな好奇の目を向けてきている。

 王子の隣に護衛の一人がいる。もう一人の護衛である睿霤は……壁にもたれかかって腕組みしながら、つまらなそうに視線を逸らしていた。こんな事態を作り出した元凶のくせに、なぜあいつは何もしない? 苛立ちを覚えた私は、睿霤にひとつ仕事を任せてやることにした。睿霤の目の前に私たちはたどり着いた。

「菊花様。私から離れている間は、こいつ……睿霤の近くへいてください」

「あ、はい」

「いいな、睿霤」

 きょとんとする菊花様から睿霤に視線を移して言うと、彼は頷くだけだった。

「それから、これ、預かってろ」

 私は腰紐から鞘ごと愛刀を取り外し、それを彼に突き出す。

「……世話の焼ける奴だ」

「仕方がないだろ。刀を預けられるのはお前くらいだ」

 睿霤は組んだ腕を面倒そうにゆっくり解くと、刀を受け取った。その後も、相変わらずやる気の無さそうな目で私を見るだけだ。

 睿霤を尻目に私は振り向き離れようとした。

「あの、豊蕾! ほんとうにわたしは大丈夫ですから、勝ってください」

 菊花様の憂わしげな声が背中越しに聞こえる。

「あなたの身が第一です」

 振り向かないまま、私は言った。

 私が勝てば、王子の求婚を拒否できる。だが、"おれの機嫌を損ねたら、菊花がどうなるか"と王子は言っていた。観衆の中で王子の面子を潰した場合、菊花様にどんな仕打ちが待っているのか。一方で私が負ければ、求婚を受け入れると同時に、睿霤の提案のせいでこの場で辱めを受けるかもしれない。実際にそんな常識外れなことはしないものと思いたいが、もしそうなれば死んだ方がマシではないか。どうすれば。良い手が浮かばないまま、王子の前に立つことになってしまった。


「逃げずに来たようだな」

「逃げても無駄ですから」

「まあいい。すぐに決着がつくからな」

 ブタガエルはニヤリと笑った。その笑みは見るだけで不快感を覚える。だがそれに構っていられないほど、私は焦りを感じていた。

 一人の男から木刀を手渡される。そして男は私と王子のちょうど真ん中あたりに立ち、審判役を買って出た。

「それでは、両者前へ」

 男が合図をすると、王子と私は前に進み出る。王子は片手で木刀を立てるようにして持ち、構えている。その腰を落とさない前のめりの姿勢を見て、私は確信した。こいつ、素人だ。私は木刀の柄を両手で握り、正眼に構える。

「始め!」

 開始の合図とともに王子はどたどたと駆けだした。摺り足もせず、大股で走ってきているため隙だらけだ。一振りで勝てる……だが、私は奴の突きに対して不必要な防御をした。木刀を右上に振り上げ、奴の木刀を弾く。すると簡単に奴の腕は上に払われ、胴が露わになった。そのまま叩けば終いだが……木刀を返し、柄で腹を突く。王子は体をくの字にして呻いた。試合の最中だというのに目をつぶって痛がっている。

「痛みに慣れていないのですか? 実戦なら、今その首を落としているところですが」

 そう声をかけると、奴は腹をさすりながら私を睨んできた。まだ戦意を失っていないようだ。

「うるさいぞ、女ごときが」

 そう言って再び突進してきた。今度は横薙ぎだ。避けた後がお粗末だなと思いつつ避ける。案の定、王子は勢い余って地面に転がった。

「立てますか?」

「くそっ……馬鹿にするな!」

 立ち上がった王子は再び突っ込んでくる。その縦斬りも簡単に避けられた。深く沈んだ姿勢からすぐに動き出せないさまを、私は剣を下ろして見下してやった。息を切らして私を睨む王子の周りで、男たちがくすくす笑っている声が聞こえる。やはり素人だったか。

「笑うな、お前ら!」

 男たちに怒鳴る王子。あまりの滑稽さに、私も口角を歪めてしまった。するとそれに気づいたのか、王子は私に向かって叫んだ。

「次は避けるな! 絶対にだ! 菊花がどうなってもいいのか!!」

「……何だと」

 脅迫めいた言葉に、思わず眉をひそめてしまう。こいつは本気で菊花様に危害を加えるつもりなのか。そう考えている私に、王子は突進してくる。

 避けたら、どうなってしまうのか? 判断が鈍った。その縦斬りを避けず、受け流しもせず、横にした木刀で真正面から受け止める。案外重い……いや、斬る直前で奴はコケて、その肥えた体の全体重が木刀に乗ってきていた! 普段力勝負をしない私は、その勢いに負けてしまう。剣は弾かれ、体勢を崩してしまい、尻餅をつくように倒れ込んでしまった。そしてすぐ立ち上がろうとしたが、目の前には奴の頭が。王子は倒れた私に覆いかぶさる形になったのである。

「おお……マジか……」

 下から上を見回して呟く王子。奴としても思わぬ形になり、戸惑っている様子だ。私は奴を押し退けようとするが、奴の体重のせいで上手くいかない。奴の荒い息遣いが私の顔にかかる。気色悪い。

「おい、どけ! いや、どいてください……!」

 つい言葉遣いを誤り訂正するが、王子は聞いていなかった。

「本当に……やるのか……? 睿霤の言った通りに……」

 目を見開きながらの呟きに、私はぞっとした。まさか本当に、このまま私の貞操を奪うつもりか。木刀を捨てた奴の手が私の胸に触れようとしている。

「ふざけるな……やめろ……!」

 その手首を掴んで必死に抵抗するが、王子は私の言葉など聞いていない。力がこもっていて、離すとすぐに胸に触れてしまいそうだ。この瀬戸際に私の緊張は高まり、心臓が強く鼓動するのを感じた。

 見ていた男どもが駆けつけてくる。助けてくれるのかと思いきや、少し離れた所で横から覗こうとする者ばかりであった。助けようという気持ちは無いのか! そんな時、私の頭の上の方からか弱い声が聞こえた。

「兄上! おやめください!」

 菊花様だ。離れたところから走りながら叫んでいるのがわかる。小さな体で懸命に声を出していた。

「兄上! その……あの……」

 近くまで来た菊花様が何かを訴えようと口を開くも、言葉が出てこない様子だった。その間にも王子は、息を荒らげ目を見開きながら、私が掴むその手に力を込め続けている。何にも目をくれず、夢中で私の体に触れようとする王子は誰の言葉も耳に入らないようだった。

「わ、わたしは……どうなっても良いですから……」

「菊花様?」

「どんな目にあってもいいです……だから……もう、やめてあげてください……」

 菊花様は泣きそうになりながら、懇願するように言った。なんということだ。仕えたばかりの主人にこんなことまで言わせるなんて。情けない。私はなぜ自身を犠牲にしてでもこの人を守らなかったのか。私はなんて愚かなんだ。悔しさに歯を食いしばる。

 その時だった。顔の横で、矢が刺さるような固い音が響いて、砂が散った。身が竦み、上の王子も一瞬怯んだ。何が起こったのかわからなかった。横目で音の方を見ると、見覚えのある……私の愛刀の鞘が、地面に突き立っていた。それを持つ人物は……。

「……睿霤」

 思わず声に出してしまった。彼は私が預けていた愛刀の鞘の先を地面に叩きつけたのである。王子の手はいつの間にか力が抜けて震えていた。

「る、るる睿霤。なんだよ、お前が言う通りに、おれは……」

「やめておけ」

 見上げる王子に、睿霤はさっきまでの無気力な口調とは違う、厳しい口調で言った。その声色には怒気が籠っているように感じられた。だが、そもそも王子に私を辱めてはと提案したのは睿霤だから、怯える王子のこの返事ももっともではあるのだが。

「なな、なんで……」

 そういう王子に、睿霤は顎で右の向こう側を指し示す。そこには、十人程だろうか、鎧を着た兵士のような者たちがいた。おそらく王宮の兵士だろう。そしてその中央には、高い身分を示す黄色の服に身を包んだ人物がいるのが見えた。彼の服飾は豪壮で、黄金の冠をかぶっている。顔には白の混じった口髭、顎髭が蓄えられており、その目は優しげだ。歳は、虞家の長と同じく五十は越えているように思えたが、長と違って肌は健康的であり、血色は良かった。

「父上……」

 菊花様の言葉に、私は納得した。あのお方が国王なのだ。

「父上だって!?」

 王子は慌てて私から飛び退いた。その顔は青ざめており、汗をかき、震えていた。先ほどまでの高圧的な態度はもう感じられないほどに萎縮していた。どうやらあの人物が誰なのか理解したようだ。周りの男たちもみな一斉に膝をつき、頭を下げる。


「お前もさっさと跪いたらどうだ」

 地面に横たわる私に睿霤は嫌みったらしく言った。さっきは王子を止めに入ってくれたというのに、結局こうなのか。

「言われなくても」

 体を起こそうとするが、うまく力が入らずによろけてしまう。王子にあんな事をされ、少しは心がざわめいているのかもれない。そんな様子を見かねてか、睿霤は舌打ちをした。こいつ、少しくらいは心配してくれてもいいのではないか。

「豊蕾、大丈夫ですか?」

 すると菊花様が駆け寄ってきて、手を差し伸べてくれた。その手を取り、立ち上がる。

「ありがとうございます、大丈夫です」

「そうですか。よかったです」

 彼女は微笑んでそう言った。彼女の手は柔らかく、暖かかった。その温もりは私の心を落ち着かせてくれる。そのとき、睿霤はさりげなくこちらに伸ばしていた手をゆっくりと引っ込めた。そして、私と目が合うと、奴は視線を逸らした。


 跪く私たちの元へ、王陛下たち御一行は歩み寄った。そして王はしゃがみ込み、私と視線を合わせた。優しい顔だ。

「大丈夫かの?」

 王の声は、その歳にしては張りがあり若々しかった。威厳ある雰囲気の中に優しさがある不思議な声だ。そしてその表情は、とても穏やかである。

「はい、なんとか」

「そうか……それは何よりじゃ」

 そう言って微笑む姿はどこか可愛らしさもあった。もし荘厳な服と周囲の衛兵を取り除いたとしたら、その威厳も消え去ってしまうかもしれない。

「見ておったぞ。見事な身のこなしじゃった。手加減しなければ、あんな風にはならないじゃろうて」

 そう言って立ち上がると、王はその息子、王子の方を見た。

「のう」

 顔を引きつらせながら、王子は頷く。王が息子を見る目は厳しかった。

「お前は何をしておるのじゃ。前に妃の話をしてから、お前は女に興味を持つようになったが、まさかこのようなことになろうとは」

「ち、違う! これはこの女が……いや睿霤が……」

 王子は私たちを指さしながら反論の弁を探して狼狽えていたが、何も言えず口を噤んでしまう。

「言い訳をするでない。まったく……」

 王はため息をつくと、背を向けて黙り込んだ。王子が王に咎められたことからすると、模擬試合は中止だな。あとは王子にどんな罰が下るのか。周りの者たちと同じように、私は王の言葉を待つ。

「……試合再開じゃ」

「……は?」

 その言葉に声を漏らしたのは王子。私も呆気に取られてしまった。

「聞こえなんだか? 試合を続行すると言ったんじゃ」

「え……何で……」

 王が振り返る。その顔はいたずらっぽく笑っていた。およそ王らしくない表情だ。

「はやく木刀を拾うのじゃ。それからお主……」

「豊蕾です」

 名乗る私に、王は頷いた。そして続ける。

「豊蕾よ、次からは手加減無用じゃ。ああ、殺めてはならんぞ」

 再び顔を綻ばせ、冗談交じりに言う。この王は、なんて軽薄な雰囲気を醸しているのか。

 私が立ち上がると、王は後ろの腰に手を組みながら、みずから広場の中央近くまで歩いていく。さっき審判をしていた男が近づいていくと、王は手を上げて制した。なんと、王がその役をするつもりらしい。いったい何を考えているのかさっぱりわからない人だ。王子も困惑した様子のまま木刀を拾って位置につく。

「よし、両者準備は良いかの?」

 王の問いに私たちは頷きで返す。それを見て王は満足そうに笑った。本当に何を考えているのだろうか。とにかく掛け声を待つ。

「では、今からじゃ。自由にやるがよい」

 掛け声というにはあまりに素っ頓狂な言葉に拍子抜けしてしまうが、これが合図のようだから仕方ない。一太刀浴びせて終わらせよう。そう思って踏み込むと、王子はたじろいだ。構うものか。奴が立てている木刀の横から振りかぶって胴に軽く当てた。これで終いだ。木刀を下げると、王子は悔しさと同時に早く終わらせたいとでも言わんばかりの硬い表情を浮かべて目を逸らした。一応互いに納得したようなので、王の方を見ると……。

「見事じゃな。もっとやれい」

「はあ!?」

 王の言葉に大きな声を上げたのは王子だった。信じられないといった様子で固まっている。

「浅かったですか?」

「そうではない。まあ、もうちょっと強くしてやっても構わんがの」

「はあ……」

「豊蕾よ。存分にやれい」

 そのいたずらな笑顔で気が付いた。そうか……これは、私にとっての仕返しの機会であり、王子にとっての罰でもあるのだ。王の言葉でようやく理解できた。ならば。

「……いいんですね」

 確認のつもりで発した言葉に王は頷いた。私はそれを了解として受け取った。王子の方に向き直り、構え直す。

「な、なんだよお前、別にもう終わりにしてやっても……」

「黙れ」

 王子を怯ませる。もう言葉遣いなどどうでもいい。私の怒りはもはや頂点に達しようとしていた。こいつのせいで、私はどれほど屈辱的な思いを味わったことか。

「私がこれまで屠ってきた男共の数、知りたいか」

「ほ、ほふっ……」

「どう斬りこんで屠ってきたか、その身で味わわせてやる」

 王子の顔がみるみるうちに青ざめて行った。その様子を見て、笑いが込み上げてくる。その顔が見たかった。

「逃がすか!」

 後ずさる王子へ向かって地面を蹴る。まずは右脇へ。反応すらできない王子に木刀はやすやすと当たる。奴は弱々しい唸り声を上げた。これで終わりではない。体を捻り、左脇に一撃。王子はよろめき、尻餅をついた。

「どうした、来い!」

 そう叫ぶと、王子は顔を上げて私の脇の方を見ていた。どうやら王の顔色を窺っているようだが、すぐにこちらに向き直した。その顔は、絶望に打ちひしがれた風だ。王が示した態度が、奴にとって無情なものであったことがよくわかった。王子が震えながらも立ち上がるのを待ってから、私は再度地面を蹴った。次はどこに打とうか。まあ、首と喉は勘弁してやろう。そう考えながら奴の木刀を弾き、その腹を打った。


***

 翌日の日中、書庫の前で、また睿霤に出くわした。昨日と同じように、菊花様は一人で書庫の中へ入っていって、睿霤と二人になった。別にこいつとは話をしたくないと、菊花様には言っておくべきだったな。というか……。

「お前、なんで今日もこんなところに立っているんだ」

「昨日話した通りだ。護衛の仕事など、ひどく退屈でやっていられん」

「いや、だが第一王子の護衛に任命されたばかりだろ。ブタガエ……第三王子の護衛なんかとは比べ物にならないくらい大事な仕事じゃないのか?」

 第一王子は次の王位を継ぐものと目されており、四人の護衛がつけられている重要人物だ。昨日まで第三王子の護衛だった睿霤は、第三王子が醜態を晒したのを機に、王に対しその立場を返上したのだ。すると王は新たに睿霤を第一王子の五人目の護衛に任命した。本来それは名誉なことであり、喜ぶべきことであるはずだが、こいつはむしろ面倒臭そうにしているのだった。

「既に大勢の護衛がいるのだ。少しくらい姿を消しても問題ない」

「いや……まあいい」

 そんな言い分に納得はできないが、それより。

「昨日は、わざと私と第三王子を中庭へ行かせたのか?」

「そうだ」

 悪びれもせずに即答するものだから腹が立った。睿霤のせいで、私はあのブタガエルに体を触られかけたのだ。だが、そこに王が現れたことで、結果的に第三王子からの求婚を回避できたのも事実である。それに、中庭へ行く前に睿霤は菊花様に伝えていたそうだ。”悪いようにはしない”と。

「私を助けるためだったのか? なぜそんなことを」

「あのまま、あのブタガエルとまぐわっていた方が良かったか? それならそれで、俺は一向にかまわんのだが」

 そう言って鼻を鳴らす。やはりこいつは嫌いだ。

「そんなわけないだろう」

「まあ、たまたま王が通りかかっただけのことよ」

 確かに、もし王がいなければと思うとぞっとした。睿霤は王がそこに来ることを知っていたんじゃないかという考えが頭によぎったが、そんな機密情報を知っているわけはないと思い直した。

「一応、礼を言う。偶然とはいえお前のお陰で助かったからな」

 そう言うと、奴は喉の奥で笑い声を鳴らす。

「なに、お前が奴の子を孕んで、我ら虞家の名が汚されるのを防いだまでだ」

「やめろ、気味が悪い!」

 あまりの嫌悪感に鳥肌が立ち、思わず腕を擦った。奴はそんな私を見て笑う。本当に嫌な奴だ。

 第三王子は私を妃にすると言っていたが、実際には庶民の私を正式な妃として迎えるなんて不可能で、あいつは単に女が欲しかっただけだ。そして庶民の女……私では決して無い……に子供ができれば、当人の女は追い出されるし、虞家の一員がそんな面倒事を起こしたとなれば、王家との関係にも亀裂が入ることだろう。睿霤はそれを防いだと言いたいのだ。それにしたって、そんな言い方は無いだろう!


 息を吐いて心を落ち着かせていると、書庫の中から足音が聞こえてきた。顔を上げると、扉から顔を出した菊花様がこちらを見ていた。

「お話は済みましたか?」

「ええ、もう終わりました」

 とっとと睿霤の元から立ち去りたかったが、菊花様は睿霤のそばへ歩み寄り、頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました。何度お礼を言っても足りません」

 菊花様は書庫に入る前にも睿霤に礼の言葉をかけていたのだが、それでも足りないらしい。

「いえ」

 それに対して睿霤はただ一言だけ返して顔を背けた。まったく愛想のない男だ。

「それでは失礼いたします」

 そう言い残して、私たちはその場を後にしようとした。

「毒見の任、そやつが解いてやったのだから、謝礼でもしておいては」

 背後から睿霤の声。菊花様への言葉らしい。私と菊花様は立ち止まって振り返った。

 昨日あの後、王からの詫びとして、望むものをひとつ私に与えるという提案があった。私は迷わず菊花様が毒見役をしているのをやめさせて欲しいと願った。それを聞いた王はひどく驚いていたようだったが、その願いを受け入れてくれた。どうも、王は菊花様が毎日毒見をしているというのを知らなかったようである。そして今日、さっそくそれが叶えられたというわけだ。

「はい、豊蕾には感謝しなければなりません。新たに任を担った使用人の方々には、申し訳ありませんが……」

「気に病むことはありません。皆、菊花様のために働けることを誇りに思っているのです」

 新たに毒見をすることになった使用人らへの哀れみの顔を見せる菊花様に、私はそう言った。実際、彼らは喜んで引き受けている。使用人たちは皆、菊花様が王妃と王女らに毒見を強要されていたことに内心腹を立てていたのだから。

「……そうでしょうか……そうですよね」

 彼女は自分に言い聞かせるように小さく呟き、頷いた。その表情からは陰りが消えたように見えたので安心した。


 そのやり取りの最中に、睿霤はいつの間にか私のそばまで歩いてきていた。顔を近づけられ、ぎょっとしてしまう。すると彼は私の耳元で囁いた。その一言を、私は理解することができなかった。睿霤は離れ、振り返って歩いていく。

「ではな」

「お前、どういう……」

 声をかけるが、彼はそのまま去っていった。

「どうかしましたか?」

「あ、いえ、何でもありません」

 不思議そうに見つめる菊花様をごまかして、私たちは歩き出した。


 睿霤、いったいどういう意味なのだ。それが、王家に忠誠を誓う我ら虞家の言葉なのか?

 ”王族とは深く関わるな”

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