第8話父川です
「父川さん、おはようございますーー」
「あ、どうも、おはようございます」
「どう? だいぶこっちにも慣れた?」
「ええ、お陰さまで」
玄関ポーチの郵便受けに手を突っ込みながら、お隣さんに挨拶する。
ふむ。体があったときとほとんど変わらない。さすがにまだ奇妙な浮遊感は抜けないが、まだ一ヶ月なのだから当然か。
今見ている風景は、ある会社が提供している。集合意識を利用しているんだとか。
まぁ、あんなことがなくとも、私の体は限界が近かった。2260年。しがない医療機器メーカーの社員でもサイボーグ化を試すだけの資金ならなんとか用意できる時代。
繰り返しメンテナンスを施し、若返りを重ねてきたが、ついにあの事故で修復不能となった。
だがその場にいた人の迅速な処置判断で、私には選択肢が与えられた。脳や脳幹がなんとか生きていた私は、とある会社の提供するモデルハウスに住む資格を得た。はやいところが実験台だ。延命措置拒否などの意思表示をなにもしていなかったために、勝手に使われてしまったらしい。
それでもホッとしている自分がいることに、130年も生きてまだ足りないのかと、自分で呆れてしまう。
質素な造りの、洋風の一軒家。初めはえらく古風で住みにくそうだと思ったが、住めば都だった。どうやら2000年代風なのだとか。
やたらと扉が多く、天井も低いが、窓を引くと吹き抜ける風や、捻ると流れる水道水の流れる音は好きになった。
もっとも、水分補給も食事も、現実には脳ミソしかなく、状態は会社が管理しているので必要ない。だけど住民は皆、元の生活通りただの想像だとしても料理や入浴を欠かさない。
私もスーパーで買ってきたトマトとミンチ肉なんかを使って、ミートスパゲッティをこしらえた。
一人でパスタを啜る。誰もいないのだから、音をたてても怒られないというのに、やはり気になる。
外で小鳥がさえずっている。良くできたものだ。
テーブルには一通の手紙。私の今の状態を見計らったように届けられた。
それは兄に預けられていた、両親からの手紙。
『あなたの弟二人は、本当の兄弟ではないの。それでもお父さんもお母さんも二人を実の子として育ててきました。今でもそれは変わりません。あなたもそのつもりで。このことは墓場まで持っていきます。弟たちに話すかどうかはあなたの判断に任せます』
兄はこの手紙に添えて『お前にだけ話しておく』と小さく記していた。
私はそれまでの住まいの三分の一ほどの窓から外の静かな作られた世界を見つめていた。
コーヒーでも飲もうか。ふと、鏡の前に立つ。不思議と変わらない自分の姿がある。私はあのとき死んだのではないのか? それなのになぜ、口の端にケチャップをつけて突っ立っているのか。
湯を沸かす。インスタントのコーヒーをブラックで。コーヒーメーカーはまだ買えない。
この世界でもできる仕事はある。頭でできる仕事なら今まで通りの職場に留まることも。
だが私の場合はやはり体があったほうがいい、とのことで、今のところ休職扱いだが、あまりいい結果にはならないだろう。
外への連絡手段もある。昔の固定電話が備え付けられており、そこから連絡を取りたい相手にかけると、例の会社が繋いでくれるのだ。
弟には何回かかけようとした。だがコールを三回聞くまでに、いつも受話器を置いていた。
「兄さん、大丈夫? 驚いたよ、病院行ったらいなくてさ、どこ連れてったんだ! って怒鳴ったら、あの噂の会社に引き取られましたって、そんなことある? 兄さん、良かったの? いや、もちろん兄さんが生きててホント良かったんだけどさ」
入居してすぐ、弟からかかってきた電話。手紙は手元にすでにあったが、私自身もまだ不安定で、話す余裕などなかった。
「あ、あの人のことなら、大丈夫。兄さんは悪くないから。それに、聞いた? お腹の子も、平気だったって」
「そうか……良かった、あぁ、良かったよ」
「でもよ、兄さん、こんなことになって。あの人から連絡もらってないの?」
「あ、あぁ」
「どうしてだよ! 心配じゃねぇってのか? 俺、言っといてやるから」
「いや、待て。いいんだ。お前は気にしなくていい……」
「でも、子どもが――」
弟の興奮した声が遠のいていく……。思い出したくない。もう思い出す必要もない……。
「いいんだ。これは、俺の問題だから」
そう通話口に呟くと、弟もそれ以上は言ってこなかった。
一旦置いた受話器を握り直し、例の会社の番号にかける。
「こちら、生活維持安全センターです。相談ですか、報告ですか?」
住民の聞き取り調査報告書をめくり、機械じみた声に答える。いや、機械なのかもしれないが……。
「報告です」
これがこちらでの私の仕事だ。
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