第3話見雪小冬という少女
夢の話しかしないのは、それ以外に話すことがないから。でも、大抵の子はそんな私を鬱陶しく思うようだし、私に話しかけてくる子もいない。小さい頃から一人でいることが多かった。中学に上がるまでは母子家庭で、母は忙しかったから。祖父母は健在のはずだけど、母は実家に帰るのを嫌がった。だから、会った記憶はない。父は、私が産まれる前に、母のもとを去った。らしい。
「何を描いているの?」
「昨日見た夢」
保育園の先生に私が描いた絵を見せた。たしか、私が小さな舞台の上で、母や見たこともない父や皆から、何かで拍手を浴びている絵だった。
「小冬ちゃん、習い事か何かで頑張ったのかな?」
先生はそう言ったけど、習い事なんてしたことはなかった。だから、たぶん園児の誰かがした自慢話を記憶していたのだろう。それでも私を名前で呼んでくれるのは、先生だけだったから嬉しかった。
「こっちは? この子は和歌子ちゃんかな」
別の絵は私が普段からよく見る夢。あれから十年経った今でもたまにみる。女の子が私の手を引いて、薄暗く湿った場所から連れ出そうと走る。女の子が一緒ならラッキー、私一人がほとんどだ。その子は後姿しか見えなくて、どんな顔かわからない。でも、和歌子ちゃんという、同じ園の子ではないことは確か。その子が私とよく遊んでいるように見えたのは、私がいじめられていたからだ。和歌子ちゃんは私をよく理解していた。爪先を踏んづけられても、髪を一本抜かれても、小さい声で「あっちいけ」と言われても、私が何も言い返せないことを知っていた。
首を振る私に、先生は困った様子で、他の子が呼んだのを機に離れていった。
それが私の最も幼い記憶。
「あんた、家じゃないんだから、変なことしないでよ。ママが怒られちゃうでしょ」
と優しく言われた言葉が母との最初の記憶。
「あぁ、こんばんは。大変ねぇ、お母さん」
「ええ、もう手が掛かって、仕事終わりでもう」
近所のおばさんに母が私の手を引っ張りながら喋っていた。
「あらおでこどうしたの?」
おばさんが屈んで私を覗き込もうとする。不自然にならない絶妙な位置に割り込み、母は私を見下ろして相変わらず優しい声で言う。
「どうしたの?」
「……転んだの……」
「もう、お転婆で」
「あらそうなの。気をつけなくちゃだめよぉ。ママ頑張ってるんだから。言うこと聞いてね」
私はおばさんにコクリと頷く。本当は、家の柱に私が自分で打ちつけた痣だった。どうしてそんなことをしたのか、ある種の儀式みたいなもの。五回打ちつければ明日はいいことがある、みたいな。母は気味悪がった。他にもいろいろあった。ベランダに出て、わざと外に乗り出してみたり、フォークで腕をつついてみたり。でも、とやかく言う人はいなくて、あのおばさんはホントに珍しかった。だから憶えているのかな。
それから数年後、私は見雪という姓になった。母の再婚相手は母より一回りほど年上の男で、どうやら家を売る仕事をしているらしい。私には特になんの相談もなかった。もちろん、普段買わない香水や、アクセサリーが増えていることから、母になにか変化が起きていることは、子供でもわかった。だけど、ある日、学校から帰ると、最初からいたようにその人がリビングを独占していたことには驚いた。
「挨拶なさい。見雪さんよ。今日からあなたのお父さんです」
母はそれだけ言った。私は、どうしていいかわからず、とにかく、お辞儀をした。
「君の娘は挨拶もできないのか」
男の第一声はその声だけで、これからの生活が決して平穏とはいかないことを告げた。母は「ごめんなさい」と、まるで自分が叱られたように肩をすくめ、私を睨んだ。それは、他人の子にも向けたことのないような眼だった。
「小冬です。よろしくお願いします」
「見雪、小冬だ。しかし狭い家だな。住人もガラが悪そうなのばかりじゃないか」
「えぇ、ほんとに」
母は男の機嫌を取るので必死だった。それは今も変わっていない。そして男が私を名前で呼んだのはそれが最初で最後だった。
「邪魔だ、蛆虫」「どけ、ゴキブリ」
家で顔を合わせれば、私にだけ聞こえる声で冷たく言う。
一軒家に引っ越し、周りはさらに見知らぬ他人だらけになった。母は仕事をやめ、前より元気に、そして豪華になった。ずっと若く見えるから、やはり私を養う分、苦労していたんだと思う。余裕が出て、身に着けるものも高級になった。男は、母には優しかった。そして母は、帰ってきた男と日夜戯れていた。
私の居場所がなくなる日も近い。そうなったらどうしよう。そんな不安が毎日つきまとう。私に出来ることなんて、何もない――。
だから、夢は唯一の避難所だった。できれば悪夢じゃなければいい……眠りに落ちる前のまどろみが永遠に続けばいいのに……。
でも悪夢の回数は日増しに多くなる。私に残された、あの場所は――。
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