ふくら

江古田煩人

ふくら

 けして触れてはならぬものがある。

 それは例えば村外れに住む気狂いの家であったり、絞めた偽犬にせいぬの首を埋めて作った偽塚にせづかであったりする。どこの地方にもそういった禁忌の一つ二つはあり、れに触れることをはばかるうちに肝心の由来までもが忘れ去られてしまうといった事も往々にしてあるのである。

 大抵の大人はうした場所へ立ち入ることを極端に嫌い、ああいうけがれた場所に近寄ってはならないと子供に口酸っぱくして聞かせるのであるが、まだ分別もつかぬ子供にとって其れが禁忌たる所以ゆえんなぞ全く如何どうでもいいもので、注意されてもなお面白半分に仲間を引き連れて度胸試しに行ったりするのであるが、やがて大人と言われる年齢へ近づくにつれ、かつて大人達が忌み嫌っていたその禁忌の理由を薄ぼんやりと理解してゆくものである。

 

 聞いた話である。もう数十年前にもなろうか。

 

 佐伊玉さいたま乳父ちちぶ地方に、かつて天午乞てまごい村という山間の小さな集落があった。

 元々、村民の多くは養蚕を主な生業なりわいとしていた。天午乞てまごい村の繭玉からは非常に質の良い絹がとれるとして、餌土えどの昔には幕府へと献上されるほどに栄えた村であったが、安価な合成繊維が流行るにつれて次第に市場の需要はそちらへ移り、食い扶持ぶちにあぶれた村民は水が低きへ流れるように次々と都市部へと流れていった。もともと、産業も何もない山奥へ無理にこしらえた集落なのだから、養蚕を除いて他に生計を立てる手立てはなかったのである。昭和の半ば頃になると村民の数はわずか数十名ほどになってしまい、寂れた村々には畑と古い家屋のほかに未だに養蚕で食い繋いでいる養蚕農家がポツリポツリと点在するのみである。

 金岡すぐるは村にもう数件ほどしかない養蚕農家の三男坊であった。父母のほかに歳の離れた兄が二人いたものの、養蚕の仕事に追われる彼らに英の遊びに付き合ってやれるほどの暇もなく、また英は何方どちらかと云えば無口で、仲間内で遊ぶ事を好まない性質たちだったため、学校から帰るなり英は家を飛び出すと深い森の中へ分け入っては一人で勝手に遊んでいた。他に遊び相手のいない英が森で何をしているかと言えば、もっぱら地面にある地鼠の巣をつついたり野鳥の卵を木の枝で打ち落としたりという質の悪い悪ふざけばかりであった。他に注意する大人もいなかった為か、英は人と関わるよりも森の中で獣相手に跳ね回る方を好んだ。

 そんな訳で翌るあく日も英は、森の奥へ跳ねていった子兎なぞを探して鬱蒼とした森の中を分け入っていたのであるが、夢中になって駆け回っているうちによほど森の奥へ迷い込んでしまったのか、フト気づくと全く見覚えのない場所に立っている。帰り道を探して辺りを歩き回っていると、幾重にも重なったかしの木立の間に妙なものが見えた。森の中に似つかわしくない茶色の壁が覗いている。どうやら森を切り開いた広場の真ん中に、建物か何かを建ててあるらしい。

 先程も書いたように天午乞村は田舎の寂れた山村である。なかでも山奥の、この様な辺鄙へんぴな場所に住んでいる村人なぞ居よう筈もない。

「ハテ、妙だな。こんな森の中に住んでいる人が居るのかしら」

 英は木立の隙間からソッと様子を伺ってみた。目の前に立ち現れたのは、英の見間違いでなければ、確かにどっしりとした煉瓦れんが造りの西洋建築である。その刹那、英は母親から

『ふくらに近寄ってはならないよ』

 と常日頃から言い聞かされていたのを思い出した。森の奥にひっそりと隠されるようにあるという其れはヤミの肉売りが蛆蛭うじびるの畜舎として設えた小屋だとも、皮膚病みの爬虫人が閉じ込められているのだとも聞かされており、実際のところはその『ふくら』がどういうものだかは村の誰も教えてくれないのであるが、かくむやみに恐ろしくて穢れたものであるため決して近づいてはならぬと村中の大人から口酸っぱくして聞かされてきたのである。そう云うわけで、平時であれば其のような恐ろしい建物なぞ見かけたらすぐさま回れ右して村へと駆け戻るのであるが、帰ろうにも帰り道が何処だか皆目かいもく見当がつかない、それに温かな煉瓦色の建物からは村の大人が言っていた様な恐しい雰囲気は感じられなかったため、英は手汗でベタベタになった掌を擦り合わせると意を決してその胡乱うろんな煉瓦屋敷へと歩み寄った。

 壁一面を蔦に覆われた建物は相当に古びて見えたが、窓に嵌め込んであるガラス窓は綺麗に磨かれており、割れ窓なぞは何処にも見当たらない。するとの建物の中には確かに誰かが——今この時もなお——住っているに相違ないのだ。英はすっかり驚愕した様子で煉瓦の壁を眺め回していたものの、流石に玄関扉を叩いてみるだけの勇気はない。其れで、こっそりと屋敷の裏手に回ると、手近な窓の側をウロウロしながらしばらく様子を伺っていた。

 時刻はもう夕暮れ近い。窓の中には灯りの一つも見えず、ただ静寂を伴う闇が部屋一面を満たしている。その中に何か白いものがフワリと動いたような気がして、英は爪先立ちをすると思い切って窓の奥をよくよく覗いてみた。

 見るに其れは、実に美しい顔立ちの少年である。透ける様に白い絹のブラウスをまとい、白い大理石を磨いたような滑らかな肌の上に頬をほんのり薔薇色に染め、やや黒目がちな瞳を静かに伏せたまま部屋の奥の椅子か何かに座っている。丁度、停留所で乗合バスを待つような面持ちで、華奢な両手をキチンと膝の上に揃えたまま静かに座っているのである。ひょっとしたら何処ぞの職人がこしらえた生き人形ではないかと思わせるほどの静謐せいひつな美しさを、其の少年はたたえていた。しかしその人形じみた少年は、英が窓越しに見ている前でもゆっくりと瞬きをしたり、膝の上の手を時折揉み合わせたりするのだから、如何どうしたって生きている人間には相違あるまい。さらに奇妙なことには、もう夕暮れだというのに——おまけに灯り一つない部屋の中だというのに——先述した不思議な少年の姿は、日の元でつくづくと眺めるように、英の目にはっきりと映ったのである。暗い部屋の中には他に何も見えない。何処かに家具や調度品があったとしても、其れ等は部屋を満たす暗闇の中にすっかり呑まれてしまった具合である。そんな黒々とした部屋の中で、美しい少年の姿だけが切り抜いたように闇の中へ浮かんでいる。英は思い切って、窓を拳で軽く叩いてみた。すると少年は瞬きをして、辺りをキョロキョロと眺め回すような仕草をすると、窓越しに英と視線を合わせて手を振った。そればかりか少年はこちらへ歩み寄り、其れ自体が調度品のような整った手を伸ばすと窓の留め金を外したのである。開いた窓からあふれ出す空気は奇妙に英の鼻を刺したが、何処かで嗅いだ覚えのあるその臭いの元が一体何なのか英は思い出せなかった。少年は開け放たれた窓の内側で、朝露を含んだ花弁のような唇を美しく持ち上げて微笑んでいる。

「君、如何どうしたんだい。こんな森の中で」

 少年は優しく口を開いた。その玉を転がすような声は、如何いかにも美しい少年に相応ふさわしいものに聞こえた。英はすっかり動転してしまって、ズボンの尻でしきりに手汗を拭いながら応えた。

「ウン迷ってしまったんだ。遊んでたら帰り路が解らなくなっちゃった」

 其れを聞くと、少年は人差し指で英の後方を指差した。

「君あすこの村から来たのだろう。帰りたかったらね、後ろに続いている路を真っ直ぐ歩いていけばいいんだ。ね、存外近いだろう、でも村からは簡単に行けないようになっているんだよ」

 其れを聞くと英はようやくホッと胸を撫で下ろした。実際の所はこの見ず知らずの少年の言うことが何処まで本当なのだか、散々歩き迷って来た筈のこの場所が本当に村から近いのか、確かめる術は何もないのだが、少年の不思議な美しさと柔らかな微笑みに、英の心はまるで痺れ粉でも嗅がされたようにウットリと麻痺してしまった具合なのである。すっかり日が暮れてしまうまでにはまだ少し時間があった。英は安心してくつろいだ気持ちで、此の不思議な少年ととりとめもない話を始めた。

「君、名前はんて言うんだい。この村に越してきたの」

「いいや、ずっと此処に住んでいたよ。僕のことはトルソと呼んだらいい」

「トルソ?君外国から来たのかい」

「アハハ、僕はずっと昔から此処に住んでいたったら。ねえ君の名前は?」

「英って言うんだ。母ちゃんは家でお蚕の世話をして居るよ」

「へえ君の家では蚕を飼っているのかい。今度僕にも見せてよ」

「良いともさ。こっそり持ってきて見せてあげるよ」

 そうして話を続けながらも、英は時折少年の肩越しに部屋の中を覗こうとした。何かは分からなかったが、重い質量を持ったものが少年の背後の空間をみっしりと満たしている気配がする。そしてそれは如何やら人ではなかった。乳飲み子を抱えたままねぐらの奥でうずくまる獣の気配に似ていた。

「君ここに住んでるのかい。随分と辺鄙へんぴな場所だねえ」

「ここは『ふくら』なんだよ。本当は此処に来たらいけないんだ、村の大人から聞かされてるだろう」

 少年の口から『ふくら』という言葉が出た途端、英の心臓は兎のように跳ねた。大人達がおどろおどろしく聞かせた言葉の数々が刹那に英の頭の中へドッと蘇ってくる。あれ程大人達が忌み嫌っていたふくらが確かに英の目の前にあり、そしてこの不思議な少年はあろうことか其の中へ住まっているのだ。英はよほど回れ右してこの場から逃げ出そうかと思った。しかし子供らしい向こうみずな好奇心は、英の胸の内へ蘇りかけた恐怖心をたちまちのうちに押さえつけてしまった。

「そいじゃ……そいじゃ、此処では蛆蛭を飼ってるのかい」

「いいや」

「そしたら此処はざらまき(爬虫人の蔑称)小屋かい」

「いいや」

 少年は何が面白いのか、ほっそりした指を唇に添えてくすくすと笑っている。その秘密めいた様子に痺れを切らした英は、駄々を捏ねるように大声で尋ねた。

「君、教えておくれよ。ふくらって一体何なんだい」

「シイッ、静かに」

 にわかに少年が英を制した。人形のように体を強張らせ、息を詰めたままジッと固まっている少年の後ろで、融けかけた飴のようなものが鈍く這いずる音がする。其の得体の知れない気配に英は大声を上げそうになったが、少年は身じろぎ一つせぬまま目線のみでなおも英を制した。黙りこくったままの少年の肩に、背後から腕のようなものが回された。しかし其れは人の腕ではなかった。腕と見えたのは桜色の肌をてらてらと光らせた、蛸の足のように細長い肉の塊である。其れが少年の肩へ蛇のようにまつわりつき、しきりに少年を部屋の奥へと引き込もうとしている。その様子に少年はわずかに顔を曇らせたが、直ぐまた元のような優しい微笑を湛えて英にう言った。

「僕もう行かなきゃならない。英、さっき言った帰り路は覚えているね、もう暗いのだから足元に気を付けて帰るんだよ」

 其れだけ言うと、少年は英が言葉を返す間もなく窓を閉め、部屋の暗がりへと引っ込んで行ってしまった。俄かに部屋の中がザワザワとうごめき出す気配がする。すかさず窓のガラスに耳を押し当ててみると、先程まで少年以外の人影がなかった筈の部屋の中はぴたぴたと雫が垂れる音や粘っこいものが盛んに跳ね回る音、その他何のものだか分からないような濡れた音に満ちており、その中から微かに柔らかな衣擦れの音がした。あの少年だ、と英は何故か直感で思った。窓の奥で、あの美しい少年が一糸纏まとわぬ素裸になり、戦慄わななく息を無理に抑えて肉の蛸に巻かれている様子を英は思い浮かべた。肉が擦れ合う音はいよいよ激しさを増し、柔らかな肉を捏ね回す様な湿った音の間から、引きった吐息や鼻にかかった甘い声が切れ切れに聞こえてくる。声は時折苦しげな唸りとなって肉音の間に消え、かと思えばアアと甘い悲鳴を上げて啜り泣く風である。其の度に肉の蛸は嬉しげに触手をのたくらせ、泣きじゃくる少年の声を自身の中へ引き込んで舐り回す。其れが何度も何度も飽きることなく繰り返される。頬までをもベタリとガラスに押し当てながら、知らずの内に英の右手は自らの股間をまさぐっていた。

 

 其の日から、人の目を盗んでふくらを訪ねることが少年の日課となった。勿論、父母兄弟には秘密である。いや、家族だけでなく村の誰にもふくらの事は明かさなかった。少年は塩豆や干し柿を持ってあの不思議な少年を訪ねた。少年の方も英のことをすっかり見知った様子で、姿が見えると自ら窓の鍵を開けて英に手を振った。二人はまるで昔からの友のように、尽きせぬ話に花を咲かせた。だがやがて夕暮れになると、決まってあの肉の蛸が少年の首筋にぬらついた足を這わせに来る。少年は其の度に顔を僅かに青ざめさせて、英に別れを告げると静かに窓を閉める。英は来た路を戻りかけるが、少年の姿が窓の奥へと消えたのを見ると足音を忍ばせて窓辺に歩み寄る。ピチャピチャと云う水音が、少年の甘い悲鳴が、肉と肉の触れ合う濡れた音がする。英は息を殺してその音を聞きながら、得体の知れぬ甘い疼きが——彼がを知るには余りに幼すぎるのであるが——下腹したはらに込み上げてくるのを感じる。

 部屋の暗がりで行われているらしい少年と肉蛸の奇妙な饗宴を、英は決して口に出そうとしなかった。其れは少年の方も同じで、二人で窓越しに遊んでいても、その話については決して触れてはいけない禁忌のように、お互いが固く心の奥底へ仕舞い込んだままだった。

 斯うした奇妙な友情は半年程続いた。翌る日、英が何時ものように少年の元を訪ねてゆくと、奇妙なことに少年は最初から窓を開け放って英を待ち構えている。其の顔色は平時よりもさらに青ざめ、すっかり血の気が失せているように見えた。

「如何したんだい、今日は、うちで何かあったの」

 英の問いかけに、少年は薄青い唇を引き上げてみせた。部屋の中から漂ってくるえた匂いは普段よりずっと濃いようである。

「君に言わなきゃならないことがあるんだ。僕、君とお別れしなきゃならない」

 少年は喉を震わせて呟いた。其れがただ少年がこの村から出ていくという意味ではないであろうことは、その深刻な表情から容易に察せられた。少年はしばらく口をつぐんだままだった。

「トルソ、君ここから出てゆくのかい」

 英の問いかけに少年はコクリと頷いた。其の瞳が俄かに猫のようにきらめいた。

「君、僕と離れるのが嫌かい」

 夕暮れに照らし出された少年の顔はゾッとするような静かな気迫に満ちていた。英は魔術によって操られているかのように小さく頷いた。目の前に立っているのが少年の皮を被った得体の知れぬ怪物のように感ぜられた。少年は窓辺からついと姿を消すと、やがて玄関の方で錠を外す音がした。ペンキのすっかり剥げた扉がギイと軋んだ音を立てて開き、少年はその隙間から顔を半分だけ覗かせて英を手招いた。

「屋敷の中を見たいかい?……最後に見せてあげる、君にだけだよ」

 英の身体はまるで英の意思を無視したかのようだった。曲芸師が操る糸人形のように、英の身体は独りでに屋敷の中へ歩み寄った。まるで少年の命ずるがまま、我と我が身が恐しい魔法にでも掛けられたかのようであった。屋敷の中は窓の中から覗いたと同じように黒々とした深い闇に満ちており、窓から差し込む夕日が廊下を毒々しい赤色に染め上げていた。少年は美しい手で英の片手を握り、英を屋敷へと招き入れた。少年の手は滑らかな石鹸の肌触りであったが、その素肌の奥にはあの肉の蛸と同じぬらついた気配が確かに感ぜられた。英はやや躊躇ためらい気味になりながら、少年に引かれるまま屋敷の奥へと誘われていった。

 廊下を歩く間中、英は靴裏に何かフカフカとした柔らかな感触を感じていた。分厚い絨毯が敷き詰めてあるようだったが、光の加減ででもあろうか、その布地が時折ザワリザワリと揺れて見えるのは妙である。少年はようやく屋敷の突き当たりで歩みを止めた。其れは固く閉め切られた扉の前であった。英の手を固く握ったまま、少年がノブへ手を添えると、まるで向こう側で誰かが待ち構えていたかのように扉が大きく開いた。英は目を見張った。

 其れは確かに、英がいつも少年と語らっていた裏手の小部屋であった。外から見ていたのでは全く気付かなかったのであるが、見ると部屋の壁も天井も一面が脈打つ肉の薄膜ですっかり覆われている。家具や調度品も同様で、椅子や机と見えるのはいずれも一抱えはありそうな肉の塊である。部屋のどん詰まりには天井近くまで伸び上がった肉の塊が、何時いつも少年をさらってゆく肉の触手で自身の身体を撫ぜ回しながら、身体中に空いた穴からブズブズと濁った音を立てている。肉塊の裾からはのような肉厚のひだが盛んに湧き出しては床を一分の隙間もなく覆い尽くしている。真っ赤な天鵞絨ビロードの絨毯と見えたものは全てこの肉塊から生じている細かな肉襞であった。そして此の部屋にあるもの全てがドクリドクリと脈打っていた。英は零れ落ちそうな両目を少年へ向けた。少年は英の手を固く握ったまま不思議な沈黙を保っている。その首筋に太い肉の管が深々と刺さっているのを英は見た。そしてその管は真っ直ぐに部屋の奥のあの巨大な肉塊と繋がっていた。英はイヤイヤと首を振ったが、少年は微笑んだまま片手でブラウスのボタンを外し始めた。

「見たかったんだろう、僕の正体を。いいから、ねえ、ご覧よ」

 少年の手が胸へそして腹の方へと移ってゆき、ついにブラウスの合わせ目から少年の肌が覗いた。その肌は美しく整った手や顔とは裏腹に、挽いた生肉を塗りたくったような醜さであった。幾つもの醜い引きれやあばた、無数の肉芽が少年の華奢な身体を一面侵蝕し、其の全てがそれぞれ別の生き物であるかのようにビクビクと痙攣していた。呆然とする英の前で、少年はすっかりブラウスを脱ぎ捨ててしまった。

「僕の代わりに、君がここへ住んだらいい」

 少年を繋いでいる肉塊が、穴から白く濁った液を吐いた。微笑んでいる少年の口からも同じものが噴き出した。顎から胸をグッショリ濡らしたまま両腕を差し伸べて此方へ歩み寄ってくる少年を、英は突如弾かれたように突き飛ばした。少年はもんどり打って倒れたが、やがて身体を引き攣らせながらゆっくりと起き上がった。その動きは肉塊に操られているかのようにぎごちなかった。少年が再び手を伸ばす前に英は窓に取り付いて留め金を外そうとしたが、留め金は何かで固められたかのようにビクともしなかった。濡れた音を立てて部屋の奥から肉蛸の足が迫ってくる。少年が英をジッと見つめている。英は捨て鉢で窓に体当たりした。その途端に窓枠が軋み、砕けるような音を立てて外れた。勢い余った英の身体は真っ逆さまに地面へと落下し、そこで英の意識は途絶えた。

 

 気がついてみると、英の身体は見慣れた家の寝床へ寝かされていた。時刻はもうすっかり朝であった。英の身体は一面切り傷や引っ掻き傷だらけであった。

 看病していた母親の言うところには、英は村のはずれ、ふくらへ通ずるとされている山路の入り口に倒れ込んだまま気を失っていたらしい。母親は英を厳しく叱り飛ばし、森で何があったのかを問い正したが、ついに英は口を割らなかった。ただ兎を追って山道に迷っただけなのだと言い張った。何も知らない顔でただそう繰り返すだけなので、母親もついに諦めてしまったのか、其れ以来英が森でどんな目に遭ったのかを詮索するのはしたようだった。英も、あれ程親しんでいた森での遊びはふっつり止めてしまい、まるで人が変わったように、学校から帰ると父母兄弟と共に蚕の世話に勤しんだ。あの恐ろしくも妖しい少年の思い出は実に忌まわしい記憶として英の脳裏に暫く焼き付いていたようだったが、やがて其の記憶も徐々に埃を被ってゆき、他のとめどない思い出と同じように頭の片隅へと追いやられていった。

 ただ一度のみ、あれから大分時間が経った後、英は人目を忍んでふくらへ通ずる秘密の山路を辿っていったのだが、あの森の中の広場に確かに見たはずの煉瓦の屋敷は跡形もなく、代わりに何の変哲もない雑草が辺り一面生い茂っているのみであった。あの不思議な少年と語らっていた筈の場所には人の頭ほどもあろうかというが一つきり、半ば土に埋まるようにして生えていた。指で刺したような穴が三つボカリと空いており、其れがまるで人の顔のように見えた。

 

 ふくらを『腐蔵ふくら』若しくは『不具蔵ふぐくら』と書くのだと知ったのは、成人した英が東興とうきょうの新聞社に勤めて随分経ってからのことだったという。かつて流行り病に罹った村人をこの蔵へ閉じ込めて火を放った、という禁忌めいた話も一緒に伝わってきたのだが、その真偽は定かではない。

 

 此れが私の聴いた話の全てである。

 十八年前の大規模開発に伴い、天午乞てまごい村は治水ダムの底へ沈んだ。

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ふくら 江古田煩人 @EgotaBonjin

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