ふくら
江古田煩人
ふくら
けして触れてはならぬものがある。
それは例えば村外れに住む気狂いの家であったり、絞めた
大抵の大人は
聞いた話である。もう数十年前にもなろうか。
元々、村民の多くは養蚕を主な
金岡
そんな訳で
先程も書いたように天午乞村は田舎の寂れた山村である。なかでも山奥の、この様な
「ハテ、妙だな。こんな森の中に住んでいる人が居るのかしら」
英は木立の隙間からソッと様子を伺ってみた。目の前に立ち現れたのは、英の見間違いでなければ、確かにどっしりとした
『ふくらに近寄ってはならないよ』
と常日頃から言い聞かされていたのを思い出した。森の奥にひっそりと隠されるようにあるという其れはヤミの肉売りが
壁一面を蔦に覆われた建物は相当に古びて見えたが、窓に嵌め込んであるガラス窓は綺麗に磨かれており、割れ窓なぞは何処にも見当たらない。すると
時刻はもう夕暮れ近い。窓の中には灯りの一つも見えず、ただ静寂を伴う闇が部屋一面を満たしている。その中に何か白いものがフワリと動いたような気がして、英は爪先立ちをすると思い切って窓の奥をよくよく覗いてみた。
見るに其れは、実に美しい顔立ちの少年である。透ける様に白い絹のブラウスを
「君、
少年は優しく口を開いた。その玉を転がすような声は、
「ウン迷ってしまったんだ。遊んでたら帰り路が解らなくなっちゃった」
其れを聞くと、少年は人差し指で英の後方を指差した。
「君あすこの村から来たのだろう。帰りたかったらね、後ろに続いている路を真っ直ぐ歩いていけばいいんだ。ね、存外近いだろう、でも村からは簡単に行けないようになっているんだよ」
其れを聞くと英はようやくホッと胸を撫で下ろした。実際の所はこの見ず知らずの少年の言うことが何処まで本当なのだか、散々歩き迷って来た筈のこの場所が本当に村から近いのか、確かめる術は何もないのだが、少年の不思議な美しさと柔らかな微笑みに、英の心はまるで痺れ粉でも嗅がされたようにウットリと麻痺してしまった具合なのである。すっかり日が暮れてしまうまでにはまだ少し時間があった。英は安心して
「君、名前は
「いいや、ずっと此処に住んでいたよ。僕のことはトルソと呼んだらいい」
「トルソ?君外国から来たのかい」
「アハハ、僕はずっと昔から此処に住んでいたったら。ねえ君の名前は?」
「英って言うんだ。母ちゃんは家でお蚕の世話をして居るよ」
「へえ君の家では蚕を飼っているのかい。今度僕にも見せてよ」
「良いともさ。こっそり持ってきて見せてあげるよ」
そうして話を続けながらも、英は時折少年の肩越しに部屋の中を覗こうとした。何かは分からなかったが、重い質量を持ったものが少年の背後の空間をみっしりと満たしている気配がする。そしてそれは如何やら人ではなかった。乳飲み子を抱えたままねぐらの奥で
「君ここに住んでるのかい。随分と
「ここは『ふくら』なんだよ。本当は此処に来たらいけないんだ、村の大人から聞かされてるだろう」
少年の口から『ふくら』という言葉が出た途端、英の心臓は兎のように跳ねた。大人達がおどろおどろしく聞かせた言葉の数々が刹那に英の頭の中へドッと蘇ってくる。あれ程大人達が忌み嫌っていたふくらが確かに英の目の前にあり、そしてこの不思議な少年はあろうことか其の中へ住まっているのだ。英はよほど回れ右してこの場から逃げ出そうかと思った。しかし子供らしい向こうみずな好奇心は、英の胸の内へ蘇りかけた恐怖心を
「そいじゃ……そいじゃ、此処では蛆蛭を飼ってるのかい」
「いいや」
「そしたら此処はざらまき(爬虫人の蔑称)小屋かい」
「いいや」
少年は何が面白いのか、ほっそりした指を唇に添えてくすくすと笑っている。その秘密めいた様子に痺れを切らした英は、駄々を捏ねるように大声で尋ねた。
「君、教えておくれよ。ふくらって一体何なんだい」
「シイッ、静かに」
「僕もう行かなきゃならない。英、さっき言った帰り路は覚えているね、もう暗いのだから足元に気を付けて帰るんだよ」
其れだけ言うと、少年は英が言葉を返す間もなく窓を閉め、部屋の暗がりへと引っ込んで行ってしまった。俄かに部屋の中がザワザワと
其の日から、人の目を盗んでふくらを訪ねることが少年の日課となった。勿論、父母兄弟には秘密である。いや、家族だけでなく村の誰にもふくらの事は明かさなかった。少年は塩豆や干し柿を持ってあの不思議な少年を訪ねた。少年の方も英のことをすっかり見知った様子で、姿が見えると自ら窓の鍵を開けて英に手を振った。二人はまるで昔からの友のように、尽きせぬ話に花を咲かせた。だがやがて夕暮れになると、決まってあの肉の蛸が少年の首筋にぬらついた足を這わせに来る。少年は其の度に顔を僅かに青ざめさせて、英に別れを告げると静かに窓を閉める。英は来た路を戻りかけるが、少年の姿が窓の奥へと消えたのを見ると足音を忍ばせて窓辺に歩み寄る。ピチャピチャと云う水音が、少年の甘い悲鳴が、肉と肉の触れ合う濡れた音がする。英は息を殺してその音を聞きながら、得体の知れぬ甘い疼きが——彼がそれを知るには余りに幼すぎるのであるが——
部屋の暗がりで行われているらしい少年と肉蛸の奇妙な饗宴を、英は決して口に出そうとしなかった。其れは少年の方も同じで、二人で窓越しに遊んでいても、その話については決して触れてはいけない禁忌のように、お互いが固く心の奥底へ仕舞い込んだままだった。
斯うした奇妙な友情は半年程続いた。翌る日、英が何時ものように少年の元を訪ねてゆくと、奇妙なことに少年は最初から窓を開け放って英を待ち構えている。其の顔色は平時よりもさらに青ざめ、すっかり血の気が失せているように見えた。
「如何したんだい、今日は、うちで何かあったの」
英の問いかけに、少年は薄青い唇を引き上げてみせた。部屋の中から漂ってくる
「君に言わなきゃならないことがあるんだ。僕、君とお別れしなきゃならない」
少年は喉を震わせて呟いた。其れがただ少年がこの村から出ていくという意味ではないであろうことは、その深刻な表情から容易に察せられた。少年は
「トルソ、君ここから出てゆくのかい」
英の問いかけに少年はコクリと頷いた。其の瞳が俄かに猫のようにきらめいた。
「君、僕と離れるのが嫌かい」
夕暮れに照らし出された少年の顔はゾッとするような静かな気迫に満ちていた。英は魔術によって操られているかのように小さく頷いた。目の前に立っているのが少年の皮を被った得体の知れぬ怪物のように感ぜられた。少年は窓辺からついと姿を消すと、やがて玄関の方で錠を外す音がした。ペンキのすっかり剥げた扉がギイと軋んだ音を立てて開き、少年はその隙間から顔を半分だけ覗かせて英を手招いた。
「屋敷の中を見たいかい?……最後に見せてあげる、君にだけだよ」
英の身体はまるで英の意思を無視したかのようだった。曲芸師が操る糸人形のように、英の身体は独りでに屋敷の中へ歩み寄った。まるで少年の命ずるがまま、我と我が身が恐しい魔法にでも掛けられたかのようであった。屋敷の中は窓の中から覗いたと同じように黒々とした深い闇に満ちており、窓から差し込む夕日が廊下を毒々しい赤色に染め上げていた。少年は美しい手で英の片手を握り、英を屋敷へと招き入れた。少年の手は滑らかな石鹸の肌触りであったが、その素肌の奥にはあの肉の蛸と同じぬらついた気配が確かに感ぜられた。英はやや
廊下を歩く間中、英は靴裏に何かフカフカとした柔らかな感触を感じていた。分厚い絨毯が敷き詰めてあるようだったが、光の加減ででもあろうか、その布地が時折ザワリザワリと揺れて見えるのは妙である。少年は
其れは確かに、英がいつも少年と語らっていた裏手の小部屋であった。外から見ていたのでは全く気付かなかったのであるが、見ると部屋の壁も天井も一面が脈打つ肉の薄膜ですっかり覆われている。家具や調度品も同様で、椅子や机と見えるのは
「見たかったんだろう、僕の正体を。いいから、ねえ、ご覧よ」
少年の手が胸へそして腹の方へと移ってゆき、ついにブラウスの合わせ目から少年の肌が覗いた。その肌は美しく整った手や顔とは裏腹に、挽いた生肉を塗りたくったような醜さであった。幾つもの醜い引き
「僕の代わりに、君がここへ住んだらいい」
少年を繋いでいる肉塊が、穴から白く濁った液を吐いた。微笑んでいる少年の口からも同じものが噴き出した。顎から胸をグッショリ濡らしたまま両腕を差し伸べて此方へ歩み寄ってくる少年を、英は突如弾かれたように突き飛ばした。少年はもんどり打って倒れたが、やがて身体を引き攣らせながらゆっくりと起き上がった。その動きは肉塊に操られているかのようにぎごちなかった。少年が再び手を伸ばす前に英は窓に取り付いて留め金を外そうとしたが、留め金は何かで固められたかのようにビクともしなかった。濡れた音を立てて部屋の奥から肉蛸の足が迫ってくる。少年が英をジッと見つめている。英は捨て鉢で窓に体当たりした。その途端に窓枠が軋み、砕けるような音を立てて外れた。勢い余った英の身体は真っ逆さまに地面へと落下し、そこで英の意識は途絶えた。
気がついてみると、英の身体は見慣れた家の寝床へ寝かされていた。時刻はもうすっかり朝であった。英の身体は一面切り傷や引っ掻き傷だらけであった。
看病していた母親の言うところには、英は村のはずれ、ふくらへ通ずるとされている山路の入り口に倒れ込んだまま気を失っていたらしい。母親は英を厳しく叱り飛ばし、森で何があったのかを問い正したが、ついに英は口を割らなかった。ただ兎を追って山道に迷っただけなのだと言い張った。何も知らない顔でただそう繰り返すだけなので、母親もついに諦めて
ただ一度のみ、あれから大分時間が経った後、英は人目を忍んでふくらへ通ずる秘密の山路を辿っていったのだが、あの森の中の広場に確かに見たはずの煉瓦の屋敷は跡形もなく、代わりに何の変哲もない雑草が辺り一面生い茂っているのみであった。あの不思議な少年と語らっていた筈の場所には人の頭ほどもあろうかというおにふすべが一つきり、半ば土に埋まるようにして生えていた。指で刺したような穴が三つボカリと空いており、其れがまるで人の顔のように見えた。
ふくらを『
此れが私の聴いた話の全てである。
十八年前の大規模開発に伴い、
ふくら 江古田煩人 @EgotaBonjin
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