第3話 微震(二)
シレア国王都シューザリーン。中心に国の宝たる時計台の建つ城下町のほど近く、シレア王城でのことである。
いつの間に秋が深まっていたのか、思いのほか気温が下がった。上着を取りにカエルムが日中に執務室から自室へ戻ると、扉の前で待つ娘がある。
「アウロラ。どうかしたのか、こんな時間に」
「お兄様!」
こちらの姿を認めるや、娘はぱたぱたと駆け寄ってきた。今年十六になったシレア国第二子第一王女アウロラ。カエルムの九つ下に当たる妹姫である。
「お仕事、お疲れさまです!」
兄に軽く抱きつき、よく通る声で述べる。目鼻立ちのはっきりした相貌と茶に近い柔らかな髪は、どちらもカエルムによく似たものだ。しかし兄妹に通じる最たる特徴はその瞳だろう。落ち着いた兄の蘇芳色に対し、妹王女の双眸は、秋の紅葉を映したような輝く橙色。
「お待ちしてたの。やっぱりお戻りになると思ったわ」
「やはりとは?」
「朝、上着をお持ちにならなかったでしょう。お兄様がその程度のことで人を使ったりしないわ。それなら自分で取りに行くと思ったのよ」
「相変わらずよく見ているな」
「お兄様のことですもの」
二人が別れたのは朝食を済ませた後、アウロラが宮中で行われる個人授業に赴く前である。普通なら城内に留まる人間の上着のことまで気に留めそうにないが、そこに思い至るあたりは観察眼が鋭く記憶力の良いアウロラらしい。
カエルムは自室の扉を開け、アウロラを中へ促す。
「外で待たずに入っていたら良かったのに。アウロラなら私の許可など無用と言っただろう」
「お部屋だったら寝ちゃうわ。あまりに居心地いいんですもの」
軽く笑い、カエルムは布張りの椅子をアウロラに勧めると、自分は書見台の前へ座った。無駄な飾り物などは無いが書物だけは多い兄の部屋で妹が読書を楽しむのは常のことで、そのまま寝てしまうのも日常茶飯事だ。
「それで」
引き出しから帳面を取り出し、カエルムは机上に立ててあった羽根ペンに触れた。
「何かあったのだろう」
「お兄様なら気づいて当然ね。ええ」
朗らかだったアウロラの表情が瞬時に真剣になる。声の調子が一段下がった。
「西の国境の話。ちょっと怪しい話を聞いたわ」
「ドゥリウスルスか」
アウロラが首肯する。シレアの南に広がる大国と西部で接する辺境の街である。
「どうも以前に増して物資の注文が一部で増えているらしいの。それもシレアの特産ばかりだというから」
「物は」
「そこまで詳しいことは……でも鋼があるというのは不安要素だと思うの」
言い澱むと、アウロラは落ち着かないのか揃えていた脚を組む。カエルムは帳面に書きつけようとしていた手を止めた。
「鋼、か。案じる理由は十分だな」
蘇芳の瞳が鋭く光る。アウロラの顔に不安が浮かんだ。群衆や臣下の前であれば、王女たる者、内心の動揺を表すべきではない。だが兄と二人のせいか感情が正直に顔に出ている。無理もない。隣国に接する地理的位置と重なれば、鋼の仕入れから自然と連想されてしまうのは、剣である。
シレアは古来より絶対中立を守り、他国の争いごとには関与しない姿勢を貫いてきた。しかし自ら火種を撒かないとはいえ、国防軍の実力は高く国の守護に手落ちはない。国際会議に参する国々から眠れる獅子と恐れられる所以はあるのだ。
しかしそうはいうものの、肥沃な土地に恵まれ交通の要所として地理的にも有利なシレアを羨み、隙がないかと機を窺っている様子が見え隠れするも確かである。その筆頭がシレアの南に広がる大国、テハイザである。
かつてテハイザはシレアと固い友誼を結んでいたというが、それももう伝説のごとき昔ばなしになってしまった。記録で見る両国の関係は常に緊張状態であり、特に先代のテハイザ王の政策には、軍事強化をはじめとしてシレアに対する威嚇めいたものもあった。
兄が黙考したので自分の懸念が確信に近づいたのだろう。沈黙を避けるようにアウロラが口を開いた。
「場所が場所でしょう。それにこんな時だし」
「ああ。時期的には考えものだな。母上が政権をとってからというあたり」
テハイザでは先頃に先王が崩御し新王が即位したが、この新王は先代に増して好戦的との噂がある。さらにシレアの方もあまり時を違えず、カエルムとアウロラの父である国王が逝去、現在は二人の母の王妃が国を統率している。テハイザ先代の動きを抑えていた父王の政治力が無くなった現在、テハイザ側としては障壁が薄くなったと見えるのであろう。王妃の実力もさることながら、カエルムが実務に加わることで先代に引けを取らない良政が敷かれているとはいえ、国外から見れば先王時代の安定した防護とは比較にならない、といったところだろうか。
テハイザとの交易は今のところ支障なく行われている。流通経路は複数あるが、交易には当然ながら双方に理不尽な不利益が生じないよう規制もある。しかし首都シューザリーンから遠い西の地となれば、行政上、王都とは話が別になってくる。監視の目から逃れようとした時に選ぶならばこの地だろう。
カエルムは書見台から離れ、妹を安心させる意味もこめて、アウロラのそばの椅子に座り直した。
「このことは、母上には?」
「申し上げたわ。ただお母さまは今日、朝の政務を終え次第、城からお出かけでいらしたでしょう。お兄様に伝えておくようにって」
大丈夫、という言葉が表層的でしかないことくらいアウロラにはわかるはずだ。現状確認からいまできることを議論した方がよほどアウロラの気力を保たせる。
「分かった。大臣には……まだ、だろうな」
「ごめんなさい、言いづらくて」
しょぼんとする理由は分かる。城を抜け出して市井を走り回っていたと知られたら、延々と続く小言があるだろう。しかし、国や民の様子は目で見なければ解らないものだ。妹を咎めるつもりもない。カエルムは優しい眼差しを妹に向けた。
「分かった。大臣には私から伝えておくから。誰から聞いたか、大臣には伏せておく」
「本当?」
「アウロラのおかげで知れたことだから、手柄を横取りするみたいで気がひけるが」
すると、アウロラの口からふふ、と笑いが漏れた。
「そういうところがお兄様、好きだわ」
そう語る顔からは、暗い影が消えている。こうなればもう妹は大丈夫だろう。明るくなった妹の瞳に安堵を覚え、カエルムもつられて微笑んだ。
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