②神の名を誤るべからず

 寄せては返す激しい波の音が背後から響く。容赦なく照りつける日差しは鬱蒼うっそうとした木々のおかげで遮られ、陽向に比べて体感温度はぐっと低い。蝉の声が四方八方から降りそそぎ、視線を落とせば無数のフナムシが這いまわっている。

 僕は首筋に流れる汗をハンカチで拭い、目の前にある石造りの鳥居を見上げた。取り替えられたばかりと思しき注連縄しめなわが眩しい。

 ここに足を運んだのは、ある生徒の話がきっかけだった。


 僕は民俗学、中でも各地の習俗や信仰を主に研究しており、大学で講義することもある。その生徒――Aくんから話しかけられたのも講義終わりのことだ。

「先生、助けてください」

 彼の第一声はそれだった。目元の色濃い隈と、からからに掠れた声からなにやら尋常ならざる気配を感じる。しかも「助けてください」とは穏やかではない。僕は彼を座らせて話を聞くことにした。


「何日か前に、友だちと二人で出かけたんです」

 Aくんはなにかに怯えるように、たまに視線を左右に振りながら肩を縮めて口を開く。

 どこへ行くか話し合った結果、彼らは海へ向かった。日ごろビルの立ち並ぶ都会で過ごしているのと、梅雨明けの暑さに嫌気が差して〝自然を味わえて、かつ手っ取り早く涼しくなれそうなところ〟を求めたとみえる。Aくんは車の助手席に友人のBくんを乗せて出発した。

「最初に着いた場所は、砂浜に人が溢れかえってました。これじゃゆっくり出来ないって思ってたら、友だちが『海岸沿いをもう少し走れば人が少ない場所が見つかるんじゃないか』って言うからしばらく車を走らせたんです。結局一時間くらい走ったかな……ようやく人があまりいない所を見つけたんで、近くの駐車場に車を置いて砂浜に行ったんですけど」

 観光地化したエリアと違い、到着したそこはAくんたちの他に家族連れが数組いるだけの穏やかなスポットだったそうだ。ここならゆっくり出来る、と彼らは海辺に近づいて、あるものを見つけたらしい。

「小さな島があったんです。三十分もあれば一周出来そうで、島全体に樹が生い茂ってて」

 島と砂浜の間には橋が架かり、よく見ればその終点、つまり島の入り口には鳥居があった。

「神社がありそうだったし、興味を惹かれたので行くことにしました。橋を歩いていたら向こうから地元の人っぽいおじいさんが来て、『あんたたち観光客か?』って話しかけてきました」

 そうです、と答えた二人に、地元民の老爺ろうやは眉をしかめながら島に振り向いた。

「『神さまの名前を間違えるなよ』とだけ言って、おじいさんは去っていきました。その時は正直、意味が分からなくて。気にしないまま島に行って、びっくりしました」

 Aくんはスマホに画像を表示して僕に見せてくれる。島に到着した際に撮ったものだそうだ。

 そこには石の階段と、無数の白いのぼり旗が映っている。階段沿いにそれがずらりと並んだ光景は圧巻で、驚くのも無理はない。よく見れば旗には黒色で文字が書かれているけれど、風で翻っているものもあって、はっきり読めなかった。とりあえず文章ではなさそうだ。

 二人は百段近い階段を上り、島の中腹にある神社に到着した。境内にも旗が乱立しており、整然と並んでいるならともかく、秩序らしいものが感じられない光景にAくんは少しばかり異様さを覚えたという。

「けど神社に旗があるのはおかしなことじゃないでしょう? ちょっとゾッとはしましたけど、オレたちの他にも結構参拝客がいて賑わってたのですぐ気にならなくなりました。ひとまず手とか清めようと思って手水舎てみずしゃに行ったら、近くに由緒書きの看板があったんです」

 看板には大抵、創建日や例祭日とともに祭神も記されている。僕の講義を聞いているだけあって、Aくんはどんな神が祀られているのか気になって読んでみたそうだが。

「神さまの名前だけ分かりませんでした」

 日本の神々はある程度把握していた自信があったのだろう、Aくんは悔しげに項垂うなだれた。

「分からなかったというより、微妙に難しくて読めなかったんです。別名も書いてあったんですよ、『ミクギさま』って。でも正式名称が全然……読めそうで読めなかった。友だちも見てたんですけど、あいつも分からなくて」

 参拝を済ませてから改めて看板を見ても、やはり読めなかったという。

「どっちが先に神さまの名前を解読するか勝負しよう」とBくんに提案されたのは、Aくんが諦めかけた時だった。


『なに言ってるんだ。さっき会ったおじいさんになんて言われたか忘れたのか? 「神さまの名前を間違えるなよ」だぞ。わざわざあんな忠告されたんだから、間違えたらバチが当たるのかも』

『なんだよ、ビビってんのか。どうせ「尊い存在の名前を間違えるような失礼をするな」くらいの意味だって。だから勝負しようぜ。ルールはシンプルに、先に神さまの名前を言い当てた方が勝ちだ。負けた方は勝った方に飯を奢るってことで。言っとくけど、オレ漢検一級持ってるから難しい漢字はお前より圧倒的に知ってる自信がある』

『上から目線な物言いだね。こっちだって日本の神は専門分野だし、絶対先に解読してやるから』


 答え合わせのため島に再訪するのは次に休みが被った日にしようと決めて、その日は互いに名前の候補をあれこれ上げながら帰ったそうだ。

 異変が起きたのはその日の晩だという。

「夜中に声が聞こえたんです。酔っ払いか不良が外で騒いでるのかと思いながら目を開けたら、お、女の子が、オレを見下ろしてて」

 歳は小学校高学年くらいだったという。白衣はくえ緋袴ひばかま、つまり〝巫女服〟と聞いて想像されるような衣装をまとい、腰近くまで伸びた髪は結ばれずにぞろりと垂れていた。部屋に明かりはついていないのに姿が分かったのは、少女自身が淡く輝いていたからだ。仰天したAくんは飛び起きようとしたけれど、なぜか体が動かない。金縛りである。

 身動きの取れないAくんに、少女は「わたしの名前はなあに」としゃがれた男の声でくり返し問いかけてきた。しかし彼はその少女に見覚えが無く、聞かれたところで分からない。恐怖でまともに声も出せなかったものの、首だけは横に振れた。

 その途端、少女の目は吊り上がり、耳まで裂けるほど口を大きく開いて、そこからどぼどぼと大量の水を吐き出しながら理解出来ない言葉でAくんを怒鳴りつけてきた。パニックになって訳が分からないまま「ごめんなさい」と謝っても許してもらえない。

 水はあっという間に部屋を満たした。Aくんは溺れて意識を失い、気がついた時には朝になっていた。少女はどこにも居らず、部屋もまったく濡れていない。悪い夢だったのだ。

「でも夜になると毎日毎日、その子が部屋に現れるんです。オレだけじゃない。友だちも同じだって言うんです」

 自室で眠るのがいけないのかと思って別の友人の家に転がりこんだり、ホテルに泊まったりしても変わらず少女は現れた。島に再訪するどころでもなくなった上、Aくんは眠るのが恐ろしくなったという。隈が濃いのはそれが原因か。

「オレたちきっと神さまの名前を間違えて、そのバチが当たったんだ。先生、オレたちどうすればいいんですか。もう一週間も眠れてません。どうすれば神さまに許してもらえますか」

 Aくんは藁にも縋る思いで僕を頼ったのだろう。

 残念ながら僕は信仰に少々詳しいだけの准教授であって霊能者などではなく、彼の身に起きているのが果たして祟りであるかどうか、判断は出来ない。だからといって彼の頼みをすげなく断るほど無情でもない。

 考えた末に、僕は島に向かうことにした。彼らのもとに毎夜現れる少女の手がかりはそこにしかない、と直感が告げていた――というのは建前で、本音を言えば単なる好奇心だ。

 読めない神の名前と、「名前を間違えるな」という忠告。あらゆる信仰を研究する身として、興味を惹かれないわけが無かった。


 Aくんに見せてもらった石段は、鳥居をくぐってすぐ目の前にそびえていた。僕はそこを上りつつ、両脇に並ぶ白い旗、そこに記された黒い文字を横目で見る。太い筆で豪快に書かれたようなそれはお世辞にも綺麗な字とは言えず、歩きながらの解読は難しい。

 いくら枝葉のおかげで日光が遮られていても、暑いものは暑い。境内に着いた頃には汗だくだった。参拝客が通る道には石畳、そうでない部分には砂利が敷かれ、僕以外に十人程度は人がいる。そのうち半分ほどが、階段を上ってすぐ脇にある休憩所のような場所で歓談していた。

 休憩所の中には自販機がある。なんでもいいから冷たいものを飲みたくて、僕は引き寄せられるようにそこに足を踏み入れた。

 ペットボトルの緑茶を買ったところで、「こんにちは」と声をかけられた。振り向けば年配の男――今回は仮にC氏と呼ぶ――が笑顔で立っている。歓談していたうちの一人で、装束を着ているから神社の関係者なのは確かだ。

「観光客の方ですか」

 Aくんが地元民の老爺に問われた文言とほぼ同じだ。僕は「はい」とうなずいた。

「そうでしたか。では一つお願い、というか注意がございまして」

 C氏に言われるより先に、僕は「神さまの名前を間違えるな、ですか」と訊ねた。驚いた様子のC氏に、ここに来た教え子が神さまの名前を間違えたらしいこと、彼の身に起こっていることを伝える。

 途端、C氏は苦々しそうに眉を寄せて、「こちらをご覧ください」と自販機の横を指さした。休憩所の壁には、四季折々の島の写真が飾られている。C氏が示したのはそのうちの一つだ。夕暮れに染められた島は美しいが、海岸に打ち寄せる波は豪快な飛沫がはっきり見て取れるほど荒れている。

「かなり昔の話ですが、島の周囲の海はひどく荒れていました。対岸に渡ろうにも波が高かったり、潮に流されるなどして困難を極めた。当時の島民たちは『こんなに荒れるのは海の神さまが怒っているからだ』と考えた。なんとか怒りを鎮めようとした島民たちは、生贄を捧げることにしたんです」

 選ばれたのは島で一番美しい少女だった。彼女はめいっぱい着飾られ、島民たちの手によって断崖絶壁から海に投げ入れられたという。

 しかし海は荒れ続けた。それどころか、島民たちのもとには毎晩、生贄になったはずの少女が現れて、かつての美しさを感じられない男の声で「わたしの名前はなあに」と訊ねてくるようになった。Aくんに起きていることと同じである。

「島民たちは少女の名前を答えましたが『違う』と怒り、少女は人に聞き取れない言葉でなにか訴えました。そんな日々が続いた中、ある島民が『神さまが少女に乗り移ったのではないか』と閃いたんだとか」

 島にはその頃から神社があったが、祀られているのは穀物の神――宇迦之御魂神うかのみたまのかみで海の神ではなかった。きっと海の神は自分を祀ってほしくて荒れており、少女を通してそれを訴えているのではないか、というのが島民の行きついた答えだ。

 要求に応えて海の神を祀れば海が鎮まるかもしれない。行動に移した島民たちだが、ある問題が浮上する。

「誰も海の神の名前を知らなかったんです。名前が分からないことには祀りようがないでしょう? 数ヵ月かけて神社に残っていた文献を隅々まで確認してようやくそれらしいものを見つけ、少女に『あなたは〇〇さまですね』と伝えれば大変嬉しそうに笑ったんだとか。ああ、合っていた、これで海は鎮まると思ったのに波は一向に高いまま。どうにもならないと思われたある日、島民の一人が現れた少女に『新しい名前をあげる』と提案しました」

 それがAくんの見た別名〝ミクギさま〟か。海に捧げた供儀くぎだから〝海供儀ミクギさま〟――単純なネーミングではあるが、追いつめられていた島民は他に思いつかなかったのだろう。

 少女は静かに受け入れたそうだ。翌日、島民たちは早速、海を鎮めて豊漁を約束してくれる神として〝ミクギさま〟を祀り、生贄になった少女の供養も手厚く行った。するとついに少女は現れなくなり、海にも平穏が戻ったという。

 僕はAくんが見たという由緒書きの看板をC氏とともに確認しに行った。そこには〝ミクギさま〟の横に海の神の正式名称らしきものが記されているが、読めそうで読めなかった。

 漢字自体は小学生でも習うくらいシンプルな並びだ。しかしよく見ると漢字の一部が欠けていて違う文字になっている。ゆえに読解がうまくいかない。

 これはなんと読むのかC氏に訊ねれば、彼は首を横に振った。

「お教えできません。教えてしまうと神さまにそれが伝わって、海が荒れてしまいます」

 どういうことだ。僕の表情から疑問を悟ったのだろう。C氏は指先で字をなぞる。

「島民たちが少女……神さまに別名と新たな役割を与えてからしばらくは安泰でした。しかし島に新たな住人が加わったり、子が生まれたりすると、そういった人のもとにまた神さまが現れて『わたしの名前はなあに』と聞いてきたんです。〝ミクギさま〟と答えられればなにも問題ないんですが、もとの名前を答えたり、間違えたりすると海が荒れて不漁になってしまうんです」

 C氏の話を聞いて、僕は一つの仮説を思いついた。

 日本古来からの考え方で、神には穏やかで平和的な〝和魂にぎみたま〟と、読んで字のごとく荒々しい〝荒魂あらみたま〟――二つの側面があるとされている。神社によっては一つの神に和魂と荒魂それぞれに名前があり、別々で祀られているところもあったりするのだが、〝ミクギさま〟もこの考え方にあてはめられるのではないか。

 つまり〝ミクギさま〟は海の神の和魂で、正式名称として辛うじて残されていた名前が荒魂なのだ。海の神は島民の答え次第で二つの性質を行き来しており、海が荒れ続きだったのは和魂としての名前が忘れられていたか、あるいはそもそも無かったのかもしれない。

 これを踏まえて新たな疑問が生まれる。もとの名前を答えて海が荒れるのなら、〝ミクギさま〟を正式名称として残しておけばその名前だけが後世に伝わる。そうすれば少なくとも元の名前を答える可能性は低くなりそうなものだが。

 しかしC氏は「いけません」と穏やかに、けれど強く否定する。

「ある島民が『名前なんか忘れた』と答えたことがありました。神さまは大変お怒りになって、そこから七日七晩、島が海に沈んでしまいそうな嵐が続いたんです。なのでもとの名前も忘れてはいけない、しかし決して読んではならないとの思いから、あえて字を少し変えて残すことになったんです」

 それから島では夢に少女が現れるたびに、夢では〝ミクギさま〟と答えて和魂の性質を保ってもらい、「もとの名前も忘れたわけではありませんよ」と示すために名を記した旗を奉納するようになったそうだ。

 話を聞いた後、僕は手を清めて拝殿に向かった。島の最奥にあるそこは一層涼しく、耳を澄ませば波が岩肌に打ちつける音が聴こえてくる。二礼二拍手一礼とともに心の内で〝ミクギさま〟の名を唱えて、結果的にその依り代になった少女に思いを馳せた。

 ひとまずAくんには「〝ミクギさま〟と答えれば解決する」と教えれば良さそうだ。石段のところまで戻りかけた僕だが、ふと違和感が首をもたげ、小走りでC氏に再び話を聞きに行った。

 C氏は「新たな住人が加わったり、子が生まれたりすると、そういった人のもとに神が現れる」と言っていたが、現在、観光客として訪れたAくんや友人のBくんのもとにも現れている。そういった事例はあるのかと問えば、C氏は「ないわけではない」と唸る。

「観光客全員に、というわけではないんです。基準が分からないので、神さまが気に入った人のもとに現れているのではないか、としか。私も出来るだけ観光客の方にはお声がけして〝ミクギさま〟のお話をするんですが、全員にしているかと言われれば難しく……」

 稀にAくんのように対策を知ることなく島を出てしまう観光客もいる、というわけか。

 続けてC氏は「教え子の方が来られたのは一週間前ですよね」と訊ねてきた。

「でしたら急いで〝ミクギさま〟のことを教えてあげてください。神さまの名前を七日間答えられなければ、波が落ち着くのと引き換えに、海の底へ連れて行かれると伝わっています」


 結論から言えば、僕は間に合わなかった。

 島からも、島を出てからも何度かAくんに電話をかけたが彼は一向に出ず、大学にも突然来なくなってしまった。彼の友人たちは彼が借りている部屋を訪ねたらしいが、そこにAくんの姿はなく、ただなぜか、部屋中が水浸しだったという。

 島に行ってから一ヵ月が過ぎたけれど、Aくんは未だに行方不明のままだ。恐らくBくんも、彼と同じ運命を辿っている。

 今のところ僕の夢に例の少女は現れていない。拝殿で〝ミクギさま〟の名を、心の内でとはいえ唱えたのが功を奏したのか、僕は神さまに気に入られなかったからなのかは定かではない。

 Aくんはどこに行ってしまったのか。「助けてください」と必死の形相で訴えてきた顔を、僕はきっと忘れることは出来ないだろう。

 耳の奥で、無情な潮騒の音色が響いた気がした。

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とある准教授のフィールドワーク 小野寺かける @kake_hika

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