3-3 入学と再会
入学式の日の夜。
ルイス・エクレールは男子寮庭園の
指でたどる文字列は、およそ十年前のもの。
――どうして入れ替わりなんてやったのか、ね。
昨日、ぶつけられた言葉を反芻して、苦笑する。
やはり、アルティ・チノは憶えていなかったのだ。
「簡単だよ」
ぽつりとつぶやく。
「以前、会ったことを憶えているかどうか、試したかったから」
文字をなぞって、思い出す。
ルイスが五歳のころ、父親について大平原に赴いた際の話だ。
いま思えば、和平交渉に関するあれやこれやについての会談だったのだろう。
ルイスは生まれて初めての大平原、広大な地平線や
二百を超える大きな天幕で形成された集落は、季節ごとに丸ごと移動するのだと教わったが、信じられなかった。
整然と並び、太く設けられた道には商人たちが露店すら構える集落は、王都に引けを取らない活気を誇っていたからだ。
しかも、これでも
当時のルイスはわくわくを隠さずに天幕のすき間を駆け巡り、遊牧民や砂漠商人が構える露店を冷やかしながら探検して、五分も経たずに迷子になった。
――いま思えば、とうぜんの話だけどさ。
苦笑する。
大きさや飾りに違いはあれど、天幕はほとんど同じ構造で、ルイスに見分けられるはずもなかった。
涙を浮かべながらとぼとぼ歩いていると、馬を引いたひとりの少女に話しかけられたのだ。
黒髪黒目で、当時は眼鏡をかけていなかったが、いまと同じく背は低かった。
「……まいご?」
片言の西洋言語で話しかけられて、とっさにルイスは見栄を張った。
「ち、ちがうもん! ちょっと冒険してるだけだもん!」
「わかった」
少女は短く言って、首をかしげた。
「……いっしょ、ぼうけん?」
少女、アルティ・チノはその辺の木箱を踏み台にして、馬にまたがった。
そして、無表情のまま、ルイスに手を差し出したのだ。
――五歳の僕の見栄に、つきあってくれたんだ。
五歳の児童が馬に二人乗りで、かぽかぽと集落を歩き回った。
「あれ、りんご。れるむ・で・うぇすとからきた」
「我が国自慢のリンゴだよ!」
「とんでゅあんきんのりんご、ちいさい。れるむのりんご、おおきい。すごい」
「でしょ! えへん」
とか。
「あれ、さばくのひと」
「砂漠商人なら、ぼくの国にもいるよ」
「がめつくて、きけん」
「……がめついって西王国語は知っているんだね……?」
とか。
「これ、
「……それ、言ってることが正反対だよ?」
でも飲んでみると砂糖と岩塩が両方入っていて、たしかにあまじょっぱかった。
山羊の乳とスパイスも入っているらしく、クリーミーで香り高い、不思議な味わいだった。
――よく考えたら、あのお茶、かなり高級品でしたよね。
遊牧民だ。お茶を栽培なんてするはずがない。
東端京をはじめとした東洋地区を支配しているがゆえに、茶葉を大量に確保、輸送できる遊牧民支配層ならではのぜいたくだったのだろう。
そのぜいたくを、少女は涙目の少年に与えてくれた。
「おいしいです!」
「そう。よかった」
と、無表情ながらも、ほっとした様子だった。
当たり前のようにやさしさを他者に分け与えてくれた。
それから、なんと驚いたことに、黒髪黒目の少女は集落を出て、その外周を馬で走った。
大した速度ではなかったが、ルイスは少女の腰にしがみついて、風を感じた。
――すごい、って。気持ちいいって、思ったんだ。
子供ならではの、飾り気のない感想だ。
大平原の壮大な土地。天幕で構成された巨大集落。ひっきりなしに人々が行きかう、活気の塊。
あらゆる光景に圧倒されて、涙も寂しさも、どこかへ引っ込んでしまっていた。
アルティは、ルイスが『西王国から来た一団の子供』だと理解していたのだろう。
――会談がおこなわれている天幕の前に、おろしてくれた。
ルイスは最後まで迷子だと認めなかったし、アルティも迷子を送ったとは言わなかった。ただ、冒険の礼として、ルイスは王族の一員として優雅に片足を引いてお辞儀をした。
アルティはきょとんとそれを見て、首を傾げた。
「……なに? それ」
「お辞儀です。知らないの?」
うなずいたので、ルイスは女性のマナーを教えたのだ。
ドレスの裾を摘まんで、片足を下げ、背筋を伸ばして膝を曲げる
そのとき、少女が履いていたのはドレスでもスカートでもなく、
当時の護衛だった老齢の騎士にさんざん叱られ、それ以降、会談中は天幕から出ることを禁じられた。
会談が終わって、西王国に戻ってからも、ルイスは少女のことを忘れなかった。
やがて婚約者が決まっても、少女のことを忘れなかった。
初恋を、忘れなかったのだ。
だから、馬に乗ったアルティ・チノを見たとき、一目で気づいた。
あの時の少女だと。
向こうが自分を憶えているかどうか試したくて、入れ替わりのいたずらを仕掛けたりもした。
憶えてはいなかったが、あっさりとバレた。聡明な女性に育ったらしい。
「……憶えていないなら、いないでいいさ。その代わり……これからたくさん、新しい思い出を作っていくだけだし」
羽ペンを手に取り、日記に今日の出来事を記していく。
これからの学園生活が楽しみだ――と、微笑みながら。
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