縞ほっけ定食

 昼から降り続けている雨は、夕方になった今でもやむ素振りを見せない。

 傘から滑り落ちる水滴が靴の先を濡らす、一円玉くらいの不快感を覚えながらも進むしか選択肢は残されていない。

 そういえば、今日は晩ご飯の材料を何も買っていなかった。まぁいつものことだけど。スーパーによるのも面倒くさいから、手近な定食屋でも探そうとスマホを起動する。

 

 あった。しかも今の場所から数百メートルしか離れていない。口コミも悪くなく写真から判断するに清潔感のある和風の店だった。値段も安い。

 ここしかないと、案内を開始させる。

 

 「いらっしゃい。お兄ちゃん1人?」

 「はい、そうです」

 「ん、なら好きなところに座りな」

 暖簾をくぐると、50代前半くらいの陽気なおじちゃんが出迎えてくれる。

 ぐるりと見渡すと、奥で騒いでいる4人組の大学生と、カウンター席でお酒をちびちびと飲む女性だけしかいない。

 夜もまだ始まったばかりだからだろうか、お客さんが少ない。こうなれば、席の選択は難しい。数秒だけ迷った結果、僕はお姉さんから2人分空けたカウンター席に座ることにした。

 入り口に傘立てがなかったから、机にそっと傘を掛けた。


「お兄ちゃん、これメニューね」

「ありがとうございます」

「どれにするか?」

 お品書きを渡された途端に、料理を決められるほど出来た男ではないから、悩むそぶりを見せた。

「どれがお勧めですか」

「そうだな。大将、まあ俺なんだけど、が作るから味はどれも保証する。けどな、鮭のホイル焼きが1番美味いぜ」

 「じゃあそれでお願いします」

 「おう、任せとけ」

 まだ会って数分しか経っていないのに馴れ馴れしく話しかけてくる大将。だが、それが嫌にならないのが不思議でたまらない。そんな大将のおかげもあって肩の力がすっと抜けた。


 「姉さんお待ちどう。縞ほっけ定食だよ」

 「大将ありがと。日本酒切れたからお代わり頂戴」

 お姉さんはこの店の常連なのだろうか、大将と軽口を叩きつつも仲良く会話をしていた。彼らの会話を聞こうと思っても、数分も経たないうちに終わるだろう。

 となれば暇がうまれてしまう。もともと僕は、料理を待つ間の暇つぶしにスマホを触ることが多い。

 けれど、この店でそれを使うのはあまりにも場違いすぎて、ポケットにスマホを深く入れなおした。

 それでも暇なものは暇で、どうするべきか。僕は仕方がないので店内を見渡す。

 

 するとお姉さんが味噌汁を耳に髪をかける動作が目に留まった。味噌汁を食べるためだった。

 先程まで見えていなかった、お姉さんの頬が顕になる。

 はらはらとかかりきらなかった髪の数本がたらりと垂れる。お酒が入りほんのりと赤くなった頬と合間って、じゅわり、色気が溢れ出す。

 先程まで大将と喋っていた時の無邪気な子供らしさはなく、僕よりも大人のお姉さんがいた。

 味噌汁をかき混ぜる、シルバーの指輪が映えるその絹のような指は、僕が握れば壊れそうなほど細く繊細である。「あぁ沁みるねぇ、大将」なんていうおじさん臭い喉も、そこに喉仏なんてものは存在しなかった。


 ほっけに彼女が手を伸ばした。

 まずは身を骨に沿って軽く押す。それから、ぺりぺりと骨をめくる。途中で疲れたのか、くいっと日本酒を煽る。また骨を剥がし始め、綺麗に剥がれたところで、味噌汁をひと啜りした。

 茶碗を置いて、箸で身をほぐしていく。食べなれているのか、美しいまでに動作が洗練されていた。

 それに、箸の持ち方一つ、椅子の触り方一つ、彼女を取り巻く全てが綺麗なので、彼女自身が何か一つの作品のようであった。

 「美味しい、大将あんた天才だよ」

 口にほっけが入った途端に、目が溢れるほど見開かれ、そのまま頬がだらりと蕩けていく。

 そして一口、また一口。米を挟んでまた一口。

 本当に美味しそうにご飯を食べる。自分が食べているわけでもないのに、幸せな気持ちになる。

 大将が僕の目の前にお盆を置く。

「ほい、お待ちどう。お兄ちゃん、あんま見惚れ過ぎんなよ」

 彼女を見続けていたせいでぼうっとしていた意識が浮上する。

 慌ててお礼をいうと、大将はふっと笑う。それから、僕に早く食えとでも言うように、備え付けの棚から箸を渡す。

 「いただきます」

 鮭のホイル焼きは、旬のきのこがたっぷりと入り芳醇な香りがたちのぼり、玉ねぎの自然な甘さがたまらない、本当の絶品だった。

 けれど、僕の頭の中央には、ほっけを食べる彼女の姿がある。美味しそうに顔を蕩けさせる彼女が。美しい所作で大人の顔をだす彼女が。

 味噌汁だってそうだ。どれだけ、じゃがいもと大根の味噌汁を混ぜても彼女が食べているものには見劣りしてしまう。

 心臓がもうもたなくなって、急いでご飯をかき込んだ。憎らしいことにかき込んだとしても米粒の美味しさは変わらなかった。それほどまでに大将の腕が凄いのだろう。


 けれど、大将の腕よりも彼女の指が心臓を掴んで離さない。何に対してなのか分からないが、急に申し訳なさが込み上げてくる。

 だから、ご飯を食べ終わるとすぐにお会計をした。最後に彼女を一目見ようと、目だけを横に動かすと、デザートの山葡萄ゼリーを満面の笑で頬張っていた。

 そのあどけなさの内に九尾にも負けず劣らずの女性がいるなんて信じられない。

「ごちそうさまでした」

「今度はゆっくり食べにこいよ」

 大将は僕の胸の内を知っているかのようにウィンクを飛ばす。

 次回は、彼女がいない内に食べてしまおう。だがしかし、彼女を見ることが出来ないのも心が苦しい。きっと常連になるしかないのだろう。

 そう結論付けて、いつのまにか雨の止んでいた、星が浮かぶ道へ歩き出そうと一歩を出す。



 「あの、お兄さん。傘忘れてますよ」

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