第19話 ノアル VS.マッキン茜

 直に見たその人の笑顔は、思いのほか温かく感じられた。リモートの映像で見た笑顔よりもずっと、温かみがあって和やかだ。その人とは以前に二度、リモートで話をしていた。だから、初対面の挨拶はナシだった。

 その人、旧〈桃源教会〉の三代目教祖である導師GXは、あたしたちが今日初めて会った父子だという事実を、すっかり忘れているかのように振舞った。あたしのことを、よく知っている子どもたちと同様に扱った。昨日もおとといも、もっと前からのおよそ十五年間、ずっとそうしてきたじゃないかと、言いたそうな優しいまなざしで、あたしを包んだ。


 そこはいま〈国際経済総合研究所〉と名乗っているけれど、あたしたち、あたしとキーラにとってはやっぱり〈あっちの山のビル〉だった。たしかに、セキュリティは格段に向上したようだ。なにしろ、取っ手も何もない扉の前に立って少し待つと、グリーンのセンサーライトが明々と灯り、重そうな引き戸がしずしずと開いたのだ。


 その人はそこにいた。あたしを待っていた。

「やあ、ユリアさんだね?」

「はい、ユリアです」

 それだけだった。歓迎の言葉もねぎらいもハグもなかった。その人は一瞬、あたしの背後に鋭い視線を投げて、同行者がいないことを確かめた。その人の周りにも人はいなかった。従者なり護衛なり、だれかしら他者がいるものと思い込んでいたあたしは、拍子抜けがした。あたしとその人と、完全にふたりきりだった。なんとなく、奇妙な感じだった。


 次いで奇妙に思ったのは、その人が白いツナギの作業服を着ていたことだ。白は教祖らしい色かも知れない。けれどもツナギの作業服は、どう見ても教祖らしからぬ選択だ。その上、薄汚れていた。今日という日の始めに袖を通したときには、たぶん真っ白だったのだろう。けれどもいまは、袖口や胴回りや膝のあたりが滑稽なくらい、くっきりと黒ずんでいた。


 その人の傍らにはL字型のカートンがあった。小ぶりだが重そうな段ボール箱が二個、載っていた。白いツナギの作業服についた汚れと、ぴったり合致するサイズの段ボール箱だ。これらと同じような段ボール箱を、抱えたり運んだり積み上げたりした結果、こうなったのが一目瞭然だった。


「ちょうどよかった。運ぶのはこのふたつで終わりだから。さあ、おいでなさい」

 言うなりその人はごろごろとカートンを押して、通路を歩き始めた。長いスロープを下り、地階の保管庫へたどり着いた。重い鉄製のドアに貼り付けた〈保管庫〉のプレートは、段ボールの切れ端にマジックペンで手書きした間に合わせのものだった。

 この建物が〈あっちの山のビル〉だった頃には、どの部屋にもプレートなどなかった。でも、あたしはこの部屋に入ったことがある。あたしたち、あたしとキーラがIQテストを受けた部屋だと思う。


 奥の壁に沿って二段になったり三段になったりランダムに、数十個の段ボール箱が積まれてあった。よいしょ、と弾みをつけてその人は、最後の二個の段ボール箱を積み上げた。この作業を午後いっぱい、何度も繰り返してきたようだ。ぐったりと疲れた様子で段ボール箱の上に腰かけ、あたしにドアを閉めるよう、ジェスチャーで促した。あたしはその通りにした。


「引っ越しの真っ最中なもので、落ち着かなくて悪いね。いっそ段ボール箱に座りますか?高さと硬さがちょうどいい具合だ、なかなかいい」

「このお部屋には長い机と、椅子がふたつあったと思うんですけど」

「おや。このビルの中を、よく知っている?」

「このお部屋と通路と自販機のコーナーだけです。ここだってテストを受けただけなので、よく知っているわけじゃありません」


 導師GXと名乗るその人は、壁際に積まれた段ボール箱の裏側を覗き込み、隠れていた長机と二脚の椅子を見出した。

「なるほど。ありましたよ、机と椅子が。しかし、こいつらを引っ張り出すのは、ちょいとばかり難儀だな」

 ボヤきながら導師GXは、段ボール箱の山を端から順にずらし始めた。一個ずつ持ち上げては右から左へ積み替え、長机を引き出せる隙間を作ろうとする。あたしはただ、ぼんやりと眺めていてもよかった。気持ちの半分は、そうしていようと思った。でも、身体が先に動いた。単なる習慣の為せる技だ。その人におもねるつもりは毛頭なかった。


 あたしは重い段ボール箱を押して移動させた。導師GXが引っ張る長机を、反対側から押した。二脚の椅子も運んだ。すると崩れた段ボール箱の山の前に、長机と椅子のセットが出来上がった。あたしとキーラが半年に一度、IQテストを受けたときと同じ、長机と椅子だった。


「さてと」

 その人は口火を切った。さてと。前置きはそれだけ、極めて短かった。

「わたしにはあなたのほかに十二人の子どもがいるんですが、言いつける前に動いてわたしを手伝ってくれた子は、いままでひとりもいませんでした。まあ、まだ小さい子も多いので、しょうがないと言えばしょうがないんですけどね。

 女の子はあなたともうひとり、十七歳になる子がいて、それが第一子です。十五歳のあなたは二番目、三番目から下の十一人は皆、男の子なんです」


 あたしは目を見張った。あたしのきょうだいたち。訊きたいことがたくさんありすぎて、ひとつも言葉にならず口ごもった。導師GXはそんなあたしを横目に見ながら、委細構わずに続けた。

「ところであなたは、段田南海市長のことを知っていますか?」

「はあ?」

 不意を衝かれた。質問の意図が分からなくて戸惑った。ともかく、言葉通りに受け止めて返した。

「お顔とお名前は知っています。市長としてのスピーチもときどき聞きます」

「ほう。ほかには?知っていることがありますか?」

「ええと。段田家に住むようになって、お部屋とか昔の洋服とか写真なんかを見ました。なんとなく、お好きなものがわかった気がします」

「ほう。段田南海市長のお好きなものとは?」

「それは、プライバシーの侵害にあたる個人情報ですから言えません」

「たしかに。あなたは非常にしっかりした考えを持っている、聡明な娘さんだ。それがわかって、非常にうれしく思いますよ」


「導師GXさんは、段田南海市長をよく知っているんですか?」

 思い切って、あたしから尋ねた。

「お顔とお名前と、市長としてのスピーチを少々。似たり寄ったりですね」

「それなのに、精子提供を希望したんですか」

「はい。熱烈に希望しました。実は少々、ルールを逸脱してしまいました」

「なにか不純な動機があったのですか」

「とんでもない。ただ、愛したからですよ」

「ほとんどなにも知らない人なのに?」

「ユリアさん。知ってから愛するのではありませんよ。なにも知らなくても、愛してしまうのです。アプローチを却下されても、有り体に言って嫌われても、わたしはあの方を愛しました。ただ、それだけのことです」


 導師GXは淡々と語った。夢見るようなその口調に、不自然さや作為は感じられなかった。敵わなかった片恋の顛末を振り返り、虚心坦懐に語る人の口ぶりだった。あまりに自然過ぎるがゆえの不自然。そんな可能性がチラリと頭をかすめもしたが、敢えて無視した。なぜってそれこそが、あたしの聞きたかったコトバだったから。


 語りつつも導師GXは手を休めず、段ボール箱のひとつからPCのキーボードとマウスを取り出し、長机の上にセッティングした。コードレスのキーボードを叩き、マウスをクリックすると、段ボール箱の山とは反対側の壁に設置された大型モニターが起動した。


 大画面にいきなり若い女性の顔がクローズアップされた。髪を振り乱して唇を尖らせ、前方の一点を凝視している。いわゆる鬼の形相だ。丸みを帯びた正四角形の輪郭が導師GXとよく似ていた。どうやらこれが十七歳の第一子で、いままさにバトルゲームにハマっている真っ最中なのだと、見当がついた。


「なによ、パパ。邪魔しないで」

 十七歳の第一子は、鼻にかかってカン高くメタリックな声で言い放った。あたしはギョッとした。控えめに言っても、相当に耳障りな声だった。

「ノアルちゃん。パパがお願いしたお手伝いは、やってくれましたか?」

 導師GXがそれに輪をかけて、鼻にかかった甘ったるい猫撫で声を放った。あたしはこの上ないほどにギョッとした。そして、ガッカリもした。


 たとえば、心の奥底で密かに温めていたもの、言葉では表しにくいなにかが、ガラガラと崩れ落ちたような感覚だった。あたしと導師GXとの父子関係に、もっと熱いなにかが生まれるかも。ひそかに抱いていたささやかな願望は、あえなく木っ端微塵に砕け散った。

 失望することそれ自体は珍しくもない、これまでにも度々あったことだ。けれどいまここでは、直面したくなかった。最も恐れていた成り行きを見て、あたしは思い知る。導師GXとノアルの間に、あたしが入り込める余地は見つかりそうもない。


 導師GXが十七歳の第一子ノアルにお願いしたという、お手伝いの中身。大型モニターに表示されたのは、人の名前、電話番号、現住所、勤務先、備考欄の羅列だった。備考欄には別の筆跡で、『五百万』だの『一千万』だの『百坪』だのと、意味ありげな数字がメモされてあった。


 入力すべき情報は紙の名簿の束として、山積みの段ボール箱の中からキリもなく湧いて出た。それらすべてが旧〈桃源教会〉時代からの信者たちの記録と聞いてあたしはまた驚き、改めて段ボール箱の山を眺めやった。あまりにも予想外の多さだった。感嘆が思わず口に出た。


「信者さんて、こんなにたくさんいるんですか?」

 導師GXは気分を害した様子もなく、平然と言った。

「だったら万々歳ですけどね。まあ、ありがちな手違いや思い違いや怠慢などのせいで、重複しています。亡くなったり脱会したりした人たちも、正しく把握されていません。いつの間にかこんなにも溜まってしまいました」


 導師GXはそこでふと口をつぐみ、深いため息を吐いた。

「移転したこの際に、すべての記録をデジタル化してすっきりさせたいと考えましたが、なかなか思うようには進まないのですよ」

 モニター画面の右半分に表示された名簿は、たった一ページ足らずで途切れていた。導師GXは静かな口調で、左半分の画面の中でバトルゲームに興じる第一子、ノアルに呼びかけた。


「ノアルちゃん、きょうのお手伝いはこれでお終いですか?」

「だってパパ。超絶つまんないんだもん、字ばっかり書かなくちゃなんないのってさ。ノアルそんなのキライだもん、ゲームのほうがずっといいもん」

「でもねえ。ノアルちゃんはもう十七歳になったでしょ、パパの子どもたちの中では一番年上ですからね、みんなのお手本になるようにガンバるって、言ってくれたじゃないですか」

 バトルゲームはクライマックスに差し掛かったようだ。ノアルの目が爛爛と輝き、どことなく狂気を帯びてゲームに没入してゆく。が、やがて敗北すると顔を歪めて舌打ちし、コントローラーを壁に投げつけた。


 そんな行動をたしなめるでもなく、一呼吸おいて導師GXは淡々と告げた。

「きょうは二番目のユリアちゃんが来てくれましたよ。だからね、みんなで一緒にやりましょう。パパが紙の名簿にチェックマークをつけますから、ノアルちゃんとユリアちゃんはPCに入力してください。ふたりしてヨーイドンで、競争するのも楽しいね、きっと。ユリアちゃんはタイピングが得意そうですよ、ね?」

「まあまあ、ですけど」


 振られて思わず答えたあたしを、左半分のノアルがじろりと睨んだ。

「ふん。あんた、身長何センチあんの?」

「百六十センチですけど」

「ふん。あたしより二センチも低いじゃん。パパ、だるいけどもう一ページだけなら、特別にやってあげてもいーよ」

「そう言ってくれると思ったよ。やっぱりノアルちゃんはパパのいい子だ」

 最後の健康診断で測ったとき、あたしの身長は百六十三センチだった。咄嗟の思いつきで低めに答えたが、ノアルの反応を見てそうしたのは正解だったと思った。並んで立って比べたら、すぐにわかることだけど。


「ノアルさんはどこにいるんですか?」

「四階のノアルちゃんの部屋ですよ。引っ越してからずっと、そこにいます。前の家でもノアルちゃんは、部屋にいるのが好きでした。四階にはもうひとつ空き部屋がありますからね、もしよかったらユリアちゃんがそこに…」


 導師GXの声音は尻すぼみに小さくなって曖昧にぼやけ、どこへともなく消え去った。望めば四階のひと部屋があたしのものになる。そう匂わせただけ、実際はなんの約束もしていない。そのことはきっと、後で明らかになるのだろう。あたしが四階のひと部屋を使わせてほしいと、望んだときに。でも、そんなことにはならない。このビルで、導師GXやノアルと一緒に住むなんて、あたしには考えられない。


 入力作業を始めて間もなく、気づいた。導師GXがふるった詭弁と欺瞞のあれこれに。思い返せばあたしは導師GXから、ひと言も訊かれていなかった。この辛気臭くて面倒な入力作業をやってくれますか、とはひと言も。導師GXがしきりと念を押して頼んだのは、ノアルに対してだった。あたしがこの作業をするのは至極当然と思っている、導師GXの振る舞いはそう告げていた。つまりこれこそが、あたしをここへ呼んだ主な理由なのだと。


 暗然とした気分に落ち込んで手が止まった。あたしはここで何をしているんだろう。そう思ったら、胸が詰まったように苦しい。得体の知れない大きな手に、からめ捕られてしまったような気分だ。

 すると左手首につけたマッキン茜が、控えめに点滅して着信を知らせた。ディーとホーリーから借用した携帯端末が、あたしをどん底気分から救い上げてくれた。あたしはまだ、ひとりぼっちじゃないのだと。


 友だちですと告げて、導師GXから離れた段ボール箱の山の陰に隠れた。

『見て』

 キーラからのメッセージが、うれし涙に滲んだ。

『ラスキン旭があの映像を解析した』

 そして、何度も見たあの事故映像の断片がクローズアップで現れた。白い闇の中を対向車線から跳んで来る直前、BМWのフロントガラスの内側に、ヤシマさんとトルティーさんの顔がはっきり見えた。たしかにあの二人だった。


 突然トルティーさんが両手を振り上げ、運転中のヤシマさんに体当たりで殴りかかった。結果、右ハンドルのBМWは右へ大きく傾き、対向車線へ跳んで行った。

 あたしはもう一度再生して、体当たりするトルティーさんの顔を凝視した。悲嘆と怒りと絶望がないまぜになった女の顔。決意も見て取れた。

 それから、キーラにメッセージを送った。


『どうして?』

『事実=Tさんは免許の試験にまた落ちた。免許ナシじゃ自立できない。Yくんに頼らなくちゃ生きていけない。たぶん=TさんはYくんから離れるつもりだった』

『なんか悲しいね』

『悲しい。でも、Tさんはあの家をアタシに返してくれたと思う。だからムダにしない。ユリアと住めるようにがんばる。なるべく早く帰っておいでよ』

『わかった。けど、きょうはムリっぽい。あとで知らせる。待ってて』

 

 それから何日経ったのだろう。

 二日?三日?たったの三日目だなんて、ウソみたいだ。もう何週間もこの部屋に、段ボール箱の山とPCだけの地階の部屋に、籠っている気がした。籠っていると言ったら、あたしが自発的にそうしているみたいだ。けれども、監禁されていると言えば、あたしは被害者だ。加害者はTGXなる宗教団体、というよりむしろあの父娘、つまりあたしの実父と異母姉だった。つい三日前に会ったばかりだけど。それでも法的に家族とみなされるのかしら。


 どう思う?

 マッキン茜に尋ねたら、わたくしの見解ですがと前置きした上で、丁寧に答えてくれた。『ユリアさんが警察に助けを求めたとします。およそ88%の警察官はこの件を家庭内トラブルと見なすでしょう。親族内の然るべき仲介者に相談し、親子でよく話し合い、穏便な解決をはかるよう諭して一件落着です。ユリアさんは、監禁されていることになりません』


 導師GXは不在だった。外出したのかも知れないし、ビル内のどこかにいるのかもしれない。それさえ、あたしには知らされていない。あたしにあるのは段ボール箱の山だけ。どうしようもなく疲れた昨夜はこの段ボール箱を平たく並べ、ベッド代わりにして眠った。固くて冷たかったけど、床面に寝るよりはマシだった。四階にあるという空き部屋は遥かに遠く、あたしがそこにたどり着ける日が来るとは思えない。


 それから、長机の上に山と積まれた紙の束。導師GXがチェックマークを加え、あたしのこの手がPCに入力作業をすべき紙の名簿の束が、苦痛の大もとだった。

 もうひとりの入力作業をすべき手の主は、大型モニターの左画面にいた。その手が握りしめているのは、やっぱりゲームのコントローラーだ。導師GXの第一子で、いずれは宗教団体TGXの四代目教祖になるだろう十七歳のノアルは、ゲームに熱中しながらも抜かりなく、あたしの一挙手一投足を監視している。それが自分の特権的役割だと自認して、思い上がっている。


「ふん。あんた、よく見たら全然パパと似てないじゃん」

 あたしは手もとの資料から目を離さず、タイピングの手も止めない。

「そうね。あたしもそう思う」

「ノアルはパパとそっくりだって、みんなに言われてる」

「そうね。あたしもそう思う」

「あんた、あのオンナとよく似てるじゃん、段田南海市長と」

「そうね。そうかも知れない」

「だからあのオンナ、あんたをオモテに出したくないんだな」


 あたしは手を止めて、大型モニターの左画面を見た。ノアルは導師GXと同じ、金ピカのメタルフレームのメガネを架けていた。そのせいで不気味なほど、父娘の目もとはそっくりに見えた。

「それ、どういう意味?」

「わっかんないの?バッカじゃない?あのオンナ、次は国会議員になる気でいるからさ、出来損ないの子どもはジャマなんだって。まあ、いまどきは体外受精の子どもがいるくらい、珍しくもなんともないけどさ。それでもチチオヤがウチのパパってのは、インパクトがデカすぎるわけ。あのオンナにとってはバリューゼロ、ダメージ特大のインパクトがついてまわるんだよ、あんたっていうおジャマ虫には。だからいっそのこと、TGX本部に放り込んで隠しておこうと思ったわけだ」


「デタラメ言うのやめて。あたしを虐めたくてウソばっかり言ってるんでしょ」

「ウソじゃないもん。あのオンナがウチのパパに頼んでるとこ、聞いたんだもんね。『しばらく預かっていただけたら有り難いんですけど』なんてさ、甘ったれるネコみたいにニャンニャン言いやがったんだから」

「やめなさいよ。あんたこそ出来損ないのバカ娘でしょ。十七歳になっても、全然大人になれない役立たずのナマケモノだから、あたしがあんたの分も仕事してやってるんじゃないの」

 

 ひとしきりノアルと毒づき合った後、あたしはマッキン茜の電話機能を開いた。携帯端末本来の原初に立ち戻り、電話を架けようとした。段田南海市長のプライベートな番号へ。それがわからない。見つけられない。少し考え、このマッキン茜はディーとホーリーのものだったと思い出す。段田南海市長のプライベートな電話番号が登録されているはずはない。それならと、心を凝らして考えたが動揺しているせいか、電話番号の数字はひとつも浮かんで来ない。


 じゃあどうしよう。どうすればいい。迷っている間に、段田南海市長と直に話したい気持ちは萎んでいった。またウソを聞かされるだけ、それもとっておきの巧妙なウソを。詭弁と欺瞞のプロフェッショナル。あたしのチチオヤのみならずハハオヤもまた、そういう生き方をしてきた人物なのだった。


 せめてキーラには、いろいろな出来事をあったままに知ってほしいと願う。記録していた会話と動画は最終的に、ラスキン旭へ自動送信する設定になっているのを確かめた。それからホーリーが去り際に説明してくれたことを思い出し、このマッキン茜一体だけ、試験的に装備されたという特別な機能がオンになっているのもチェックした。ホーリーはなんて言ったんだっけ?もしものときに。リスクはあるけど。キミを守ってくれるように。


 いきなり、ドアが開いた。四階にいるはずのノアルがそこにいた。息を切らし、右手はまるで王笏のように、ゴルフクラブを握りしめている。運動も力仕事もしない怠惰な毎日を送っているせいで、丸ぽちゃ小太りのノアルが、ゴルフクラブを大きく振りかざし、あたしに向かって来る。


 けっこう素早く動けるんだと、意外に思った。咄嗟に上げた左の上腕部と肘が、ゴルフクラブの一撃で砕かれたのを感じた。頭の左側面に強烈な衝撃を受けて吹っ飛び、うずくまるあたしに、ゴルフクラブを構えたノアルが迫った。


「ふん。パパに買ってもらったこのゴルフクラブ、高かったぶんパワーもすごいわ。こんなデカいやつでも一発で倒してやった。これだったらウチのうるさいチビども全部、バシバシ潰してやれるわ」


 うるさいチビどもとは、十一人もいるという弟たちのことだろうか。二打目の構えで迫るノアルが、一列に並ばせた幼い弟たちを害虫のように叩き潰す不穏な光景が目に浮かんだ。

 でも、それどころじゃなかった。いまピンチに直面しているのは十一人の弟たちじゃなく、このあたしだ。リアルに絶体絶命だった。


 ノアルの動きが止まった。ゴルフクラブは王笏の位置に戻された。屈み込んだノアルが、あたしの左手首をぐいとつかんだ。


「へえ。あんた、いいもの持ってるじゃん。これ、すっごく高いんじゃね?」

 ノアルのぷよぷよした太い指が、あたしの手首からマッキン茜を外そうとしている。ホーリーはなんて言ったんだっけ?たしかこうだった。あたし以外の者がマッキン茜に触れて外し、奪い取ったらきっかり七秒後にそれは起こるだろうと。


 それは起こった。マッキン茜が火花を噴出した。金属製品を研磨するグラインダーが放つような火花だ。きらきら星の群れのごとくに煌めきながら、火花はノアルの顔面や胸もとに噴きつけた。


 ノアルが着ているピンク色の部屋着は、混紡のモコモコした起毛素材だ。極めて燃えやすい冬物衣料の代表格だと、リツコさんから聞いたことがある。だからモコモコ服を着て火を使うときは、よく気をつけて。でも、グラインダーのような火花で着火するなんて、リツコさんは教えてくれなかった。


 ノアルのピンク色の部屋着はあっという間に燃え上がった。炎に包まれたノアルの悲鳴が一拍遅れて聞こえた。驚いたあまり、すぐに声が出なかったのかも知れない。


 逃げなくては。逃げられる?逃げたいのかしら、あたし。

 右手を支えにして身体を起こしたら動けた。燃え盛る火柱となったノアルの熱を浴びながら、スプリンクラー設備はどうなっているのかと思った。水は降って来ない。黒煙が立ち込める。照明は消えた。PCもダウンした。暗い室内で火柱ノアルが放つ明かりを頼りに、床を這って右手を伸ばし、落ちているはずのマッキン茜を探した。あった。つかんだ。でもあたし、ここから出られるのかしら。


 火柱ノアルは広げた段ボール箱の上でのたうちまわり、紙の名簿の束に火を移した。大人になりたくなかったノアルは、これでもうならずにすむ。

 あたしだって、似たようなものだ。十五歳になる前のあたしたち、あたしとキーラとふたり、谷を越える前の〈山の家〉に戻れたらどんなにいいだろう。

 でも、わかってる。そんなことは、決して起こらない。

 

 あたしが描けなかったもう一枚の絵は、きっとキーラが描いてくれる。

 それでいいのかしら。

 わからない。

 答えは、出ない。

                             終

 

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走り出すもう一枚の絵 千田右永 @20170617

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