第18話 クリスマスにサンタは来ない
画面に色彩は一切なく、全き〈白い闇〉だ。
上下左右の区別もつかない〈白い闇〉の直中を、ドライブレコーダーを搭載した車は、おっかなびっくりのろのろと進んでいる。そうするしかないからだった。後戻りするなど論外、停止するさえ以てのほかに恐ろしい。だから、進むしかなかった。
ときおり影のような黒い物体が現れ、〈白い闇〉の世界をモノクロームの光景に変えた。瞬く間に流れ去り、まさしく影そのものだったが、それでもドライブレコーダーの持ち主である運転者をホッとさせた。
たとえば路肩の位置を指し示す、背高ノッポの下向き矢印。カーブの外縁であることを知らせる、申し訳程度のガード柵。路面の積雪が強風に吹き払われたほんの一瞬、垣間見えた二本の轍。たったそれだけでも、目に止まって識別できるとうれしくなる。まったくなにも見えない、〈白い闇〉よりは余程マシだった。
せめて先行車のテールランプが見えたら、どんなにか心強く走りやすいことだろう。単調さに耐えかねてボヤいたそのとき、ドライブレコーダーの持ち主である運転者は、視界の隅にあり得ない変化をとらえた。右前方の反対車線に現れた黒い車体が、突然ぐいとこちらにフロントを向けたのだ。弾みでスリップし、傾いた黒い車体はふわりと浮いて跳んだ。路肩の雪山の天辺をワンバウンドで乗り越え、こちらの車線に突っ込んで来た。
まさしく正面衝突のタイミングだった。ドライブレコーダーの持ち主である運転者は、どうにも為す術がなかった。ロングシュートされたサッカーボールのように迫り来る黒い車体を、ゴールネットの如くに受け止めるしかない。そう思われた瞬間だった。
ところが黒い車体は、思いのほか高く跳んで頭上を越えた。
ドライブレコーダーの持ち主である運転者は、迫り来たフロントガラスの中に、驚きおののく二人の人物を見た。左右対称にふたつの腎臓を並べたような、特徴的なフロントグリルも見た。その真ん中のボンネット上で、我こそはと印籠の如くに名乗りを上げている、BМWのロゴマークも見て取れた。
ガシッとルーフに重い衝撃を感じたとき、ドライブレコーダーの持ち主である運転者は、肝を冷やして首を竦めた。しかし幸いにも、高速道路のその区間の路面温度は、雪と氷が融けかかる氷点下零度前後だった。がっちりと凍りついた氷点下十数度の路面よりも、よほど滑りやすいコンディションだ。それゆえにBМWの後輪は、ギリギリかすったルーフの上でもスリップして、その勢いのまま路外へと転落して行った。
アタシたち、アタシとユリアは、この事故映像を何度も繰り返して見た。
最初に見たのは、朝のテレビニュースだった。よくある事故映像かと思ったけど、のっけから完全無欠なホワイトアウトの画面が怖かった。そこへ対向車線のクルマがまっすぐ跳んで来て、もっと怖くなった。アタシとユリアは怖いもの見たさで金縛り状態、映像から目を離せなかった。
それから後は、全チャンネルのニュース番組を追った。その映像はほぼ一日中、繰り返し流されていた。アタシとユリアは取り憑かれたように、何度も繰り返して見入った。
なんと言っても。
ゾッとしたのは、跳んだクルマに見覚えがあると気づいた瞬間だ。
ねえ、ほら、あれ。アタシはバカみたいにその三語を言い募った。テレビ画面を指さすばかりで、それ以上のコトバは出て来なかった。
それでも、ユリアにはどうにか通じた。
ああ、そうね、あのクルマだわ。静かにつぶやきながら、アタシのタイミングに合わせて何度も頷いてくれた。
ふたつに分かれたユニークなデザインのフロントグリル。真ん中にあったBМWのロゴマーク。もちろん、ナンバープレートの四桁の数字も、覚えていたのと同じだった。だからそのクルマは、ハンナさんのBМWに違いなかった。
アタシたち、アタシとユリアは固唾を呑んで、アナウンサーが読み上げるニュースの続きを待った。朝の放送では、乗っていた人の安否や名前はまだわからなかった。午後三時を過ぎた今、アタシとユリアはなによりそれが知りたかった。
『…大破した車内から沢渡町の造園業八洲吉行さん(四十九歳)と、外国籍と思われる四十歳くらいの女性が救出されましたが、その場で死亡が確認されました。警察はこの女性の身元の確認を急いでいます…』
アタシとユリアは、その女性がトルティーさんであることを確信し、頷き合った。アタシは頭の中が痺れたようで、なにか言おうにも口が利けなくなっていた。するとそのとき、テーブルの向こう側から場違いにのんびりした調子の声がした。
「あらまあ。すっかり壊れちゃったわ、あのクルマ外車でしょ、高かったのにねえ、買ったばかりなのに、ナウミちゃん、もう壊しちゃったって、ねえあなた、どうしましょう?」
段田南海市長のハハオヤであり、要介護の入所者でもある女性は、衝撃的なニュースの映像を見るなり、たちまちその惨状をわが娘の過去の行動歴と結びつけたらしかった。おっとりとした語り口ではあったがいかにも呆れた様子で、傍らのチチオヤであり、やはり要介護の入所者でもある夫に賛同を求めた。
「ふむ。ありゃBМWだな、えらく高いクルマだった、値段が高いぶん事故ったときに死なない確率も高いとか、ナウミのやつ、うまいこと言いやがったもんだから、つい買わされちまった。あいつ、死ななかったんだろ?」
「だれが?ナウミが?死ぬわけないでしょ、わたしたちを放ったらかして」
「そりゃそうだ。ほんなら、だれが死んだ?」
「だれも死んではいないでしょ」
「いいや、さっきのニュースが言ったろ、二人死んだってさ、男と女が」
「やだあなた。ナウミは二人もいないでしょ、一人っ子だもの、わたしたちの大事な娘は。ねえ、ナウミちゃん?」
段田南海市長の年老いた両親は、難解不条理な問答集から抜粋したような会話を交わしていた。そのやりとりは明るく軽快なアップテンポで、いかにも楽しそうだ。ついさっきまで行われていたクリスマスパーティーのにぎやかさが、尾を引いていたせいかも知れなかった。
そこは段田南海市長の両親が暮らしている、介護付きの高齢者施設だった。クリスマスツリーが飾られたホールでのランチタイムに、ささやかながらケーキとチキンも供され、入所者とその家族が集まったクリスマスパーティーが、お開きになったところだった。
家族の席を埋めていたのはもっぱらアタシたち、アタシとユリア、リツコさんと段田南海市長、それに加えてディーとホーリーもいた。売れっ子アニメーターのディーは、持ちキャラの可愛らしいイラストでツリーを華やかに飾ってくれた。ピアノ弾きのホーリーは、ノンストップでクリスマスソングを弾きまくり、パーティーに参加した人たちを大いに喜ばせてくれたのだ。
主催者である段田南海市長はついさっき、お時間ですとささやきかけた秘書と共に帰って行った。風のように素早く爽やかに、居合わせた人々に幸福感という余韻を残して。それ自体は以前にも度々あったことなので、意外でもなんでもなかった。ただ、今しがた段田南海市長のハハオヤが、ねえナウミちゃん、と呼びかけた相手はナウミでなく、ユリアなのがちょっとばかりモンダイだった。
「あたしはユリアですよ」
健気にもユリアはにっこり微笑んで、続柄では祖母にあたるはずの女性にやさしく答えた。たしかにその笑顔は、遡ること十数年前、最初の選挙ポスター写真で微笑んでいた若き段田南海候補と、似ていなくもなかった。いや、有り体に言ってしまうと、とてもよく似ていた。
ただし、似ているのは今の段田南海市長ではなく、あくまでも市長以前のナウミーだった。ポスター写真のその人とユリアは、まるで同じひとりの女性のようだ。渋々ながら、アタシは認めるしかなかった。十五歳のユリアと、アラフォーのユリア。介護を必要とする段田南海市長のハハオヤが、この二人を混同したとしても、まったく無理ないことだった。
「あら、ユリアちゃんなの。そうそう、ウチのナウミちゃんのお部屋に泊まってるユリアちゃんね、ちゃんと覚えていますよ。ねえ、サンタさんはもう来た?あら、まだなの。ウチのナウミちゃんのお部屋にいれば、サンタさんはきっと来るはずなのに。変ね。ベッドの下とか隅っことか、よく見たの?プレゼントが落っこちたりしてなかった?」
プレゼントって、〈あの本〉のことかな?ユリアがアタシにくれた目配せには、そんな問いかけがこもっていた。かもね。アタシは頷き、〈あの本〉のことを言い出したらややこしくなりそうだよ、と伝えるつもりで小さく首を傾げた。ユリアは読み取ってくれたらしく、シンプルに答えた。
「ベッドの下にもお部屋の隅っこにも、なかったですよ、プレゼントなんて」
〈あの本〉なら、段田南海市長の両親の家の、至るところにあったけどね。それは、携帯端末と同じくらいの厚さの文庫本のことだった。本として手に取ると、薄くて軽い感じがする。表紙カバーの色合いが落ち着いたベージュ系なので、木目調の壁紙やフローリング材の色調とマッチして、見た目に違和感がなかった。〈あの本〉は、段田南海市長の両親の家のインテリアに、すっかり溶け込んでいた。
違和感があったのは、その数の多さだ。
玄関に入ると、まず一冊目が靴箱の上の花瓶に立てかけてあった。二冊目はリビングのど真ん中、大きなソファのひじ掛けの上に横たわっていた。テレビのリモコン立ての中にも、ボールペンやメモ用紙と一緒に三冊目が収まっていた。その後はもう、数える気がしなくなった。
食卓テーブルの箸立て、固定電話の脇、ドールハウスの屋根にもあったし、トイレのペーパーホルダーや洗面所の鏡の傍にも、やっぱりそれはあった。
アタシたち、アタシとユリアはベージュ系の文庫本を見つけるたび、手に取って表紙の文字を読んだ。どれも同じ、太宰治『女生徒』だった。そして、手作りらしい押し花のしおりが挟まっているページを確かめた。決まって26ページか54ページ、どちらかにそれはあった。
けれども、段田南海市長の部屋の隅っこやベッドの下で、〈あの本〉を見つけたことはなかったのだ。
「あら。あなた、よそのサンタさんから、べつのプレゼントを貰ったのね?」
段田南海市長のハハオヤの問いに、ユリアは精一杯答えようとする。
「いいえ。あたしは貰ったことないですよ、どこのサンタクロースからも、プレゼントなんて、一度も貰ったことがないんです」
「あらやだ。プレゼントを貰ったことがないなんて、そんなウソついちゃダメよ、一度もないんですって?どうしてそんなウソつくのよ、ナウミちゃん」
だってあたしたちにはサンタクロースなんか一度も来なかったからだよ。ユリアの代わりにそう言ってやりたくなったアタシをじっと見つめて、リツコさんは大きく首を振った。ここで口を出しちゃダメ、の合図だ。
「あなた、〈あの本〉読んだ?読んでくれたらわかるでしょ、ママはね、ナウミちゃんに、〈あの本〉の中のハル子さんみたいになってほしかったの、お母さん思いのやさしいハル子さんに。そうしていればきっと、ナウミちゃんも可愛いお嫁さんになれたのにね」
それは介護を必要とする段田南海市長のハハオヤが、面会のたびに発するお約束のフレーズだったので、アタシたち一同は今日も笑顔で聞き流した。
そうね、きっとそうですよね。
いまではアタシもユリアも、ちゃんと知っている。
〈あの本〉の中に〈ハル子さん〉という女性はいない。どこにもいなかった。段田南海市長のハハオヤのコトバを真に受け、アタシたちは目を皿にして探したものだった。つまり、〈あの本〉を何度も精読した。けれど、〈ハル子さん〉は見つからなかった。それどころか、〈あの本〉の中で一番肝心な女生徒の名前が、明かされていないことに気づいた。
名前は知らないままでも、何度も読み返すうちにあの女生徒さんは、ある意味アタシのヒロインになった。だって、彼女の家事能力はすごいのだ。時は昭和の十年代、家電などまったくない時代だ。ガスコンロがなかったら代わるものは何か、まるで思いつかないのであったことにする。
女生徒さんは井戸端で手足を洗った。ならばその井戸水を汲んで、台所へ運んだのかもしれない。どうやって?それも見当がつかないので、詳細は割愛する。ともあれ、水道の蛇口なんてものはなさそうだし、食器用洗剤やキッチンペーパーなんかも、なくて当たり前だったんだろう、きっと。
インフラと厨房設備がそんな有り様なのに、女生徒さんは電車通学から帰ったその日、来客を含めて五人分の夕食を調え、供し、後片づけもひとりでやってのけた。とりわけ、丸ごと一匹届いた大きなお魚を三枚におろし、お味噌につけたらきっとおいしい、なんてさらりと言ったところがすごかった。超絶すごい。
もしかすると昭和十年代の女生徒さんはだいたいみんなが、この程度のスキルをふつうに持っていたのかも知れない。だとしても、やっぱりこの名前も知らない女生徒さんは、アタシのスーパーガールだ。
介護を必要とする段田南海市長のハハオヤは、ナウミちゃんと呼んでユリアの手をつかみ、いっかな離そうとしない。ナウミちゃんと行くからいいの。そう言い張って担当の介護士やリツコさんを拒んだ。若返ったまっさらなナウミ、今度こそ〈ハル子さん〉に育ってくれるかもしれないナウミに、ありったけの希望を託し、しっかりとその手を握りしめる。
楽しかったクリスマスパーティーの余韻が台無しにならないうちに、介護を必要とする段田南海市長の両親やほかの入所者たちは、それぞれの居室へと帰された。お部屋まで送りましょうね。促されてやむなくユリアもそう言い、介護士とともに付き添って行った。見送りながらアタシたちは、それぞれが相当に頑張って貼り付けていた笑顔をゆるめ、ホッと息をついた。
それでも。
アタシの頭の中には、強烈な痺れが残っていて、思うように働いてくれない。なのに、ユリアはいない。ここにいるアタシはまるで、半分だけだ。それなのに半分だけのアタシはこの後、段田南海市長と両親のものであるあの家に、帰らなくちゃならないのだ。
そうしたいのか?自分の胸の奥底に問えば、答えはノーだった。一ミリの迷いもなくノーだ。ならば、どうにかしなくちゃ。たとえ、ユリアがいない半分だけのアタシでも。
「さっきの事故のニュースだけど」
アタシは思い切って話しかけた。リツコさんと、帰り支度を始めたディーとホーリー、つまり、そこにいたみんなに向けて。あの、跳んで行ったBМWの?みんなは口々に言って動きを止め、アタシのハナシの続きを待った。
「死んだ人たち、アタシの知ってる人だった。八洲吉行っていうのは、ハンナさんの家で留守番していたヤシマくんのことだし、女の人はトルティーさんっていう名前で、ヤシマくんと一緒にいた人だと思う」
ええーっと、みんなが一斉にどよめいた。リツコさんには前もって、ハンナさんの家のことを話してあった。行方も生死も知れないハンナさんが、アタシのために準備してくれた家と預金口座のこと、そこに住みついている自称ゲイだったヤシマくんのことを。
途端にリツコさんは、テーブルに両肘ついて身を乗り出した。
「それでキーラは、どうしたいの?」
ふだんのリツコさんとは違う真剣なまなざしが、アタシから本当の気持ちを引っ張り出してくれた。言いにくかったコトバが、するすると出た。
「アタシはあの家をだれにも取られたくない。ハンナさんがアタシのために残してくれた家だから。ヤシマくんたちが住んでるのも、ホントはイヤだった。ケーサツとか役所の人とか、入って来たらもっとイヤだ。でも、どうしたらいいか、わからない。リツコさん教えて。アタシはどうしたらいいの?」
見る見るうちに、リツコさんの顔つきが変わっていった。別人になったようだった。長い間アタシたちの世話係であり続け、だいぶマンネリ気味の今日この頃は、何かにつけてボヤキまくりのガミガミオバサン(ごめんねリツコさん)になりがちだったのに。
とりわけ最近は、段田南海市長の個人的サポート係として、専ら両親とその家のメンテナンスに追われる日々だった。こんなに忙しいのに、なんて退屈。リツコさんの口癖になった定番のボヤキを、アタシたちは毎日聴かされていたのだ。
いま、そんなリツコさんの目が、かつてなかったほど鋭く煌めいた。問題処理に立ち向かう脳内の特定分野が、最大出力でパワフルに回転を始めた、そのさまが見えるようだった。かつて市役所の総務課第三係長として、八面六臂の活躍をしていた時代に、すっかり立ち戻ったリツコさんがそこにいた。
「考えなくちゃ。わたしたちに何ができるか、どこまでイケるものか。さて、何から始めよう?ハンナさんの家を見たい気持ちは山々あるけど、やっぱり、まずは法務局で登記簿の確認をすべきだわ。いまやすっかり多民族社会になってフリーな雰囲気だけど、この国はまだまだ法治国家なんだからね。さあキーラ、出かけるわよ」
「えっ?アタシも行くの?」
「もちろんよ、アンタが大将でしょ、いなきゃハナシになんないのよ」
いきなりの号令にびっくり仰天したアタシは、背後にユリアの声を聴いた。
「リツコさんと行っておいでよ、キーラ。あたしは一緒に行けないけど」
いつの間にか戻って、アタシたちのやりとりを聞いていたらしいユリアは、いつにも増してひっそりと佇み、心なし青褪めて見えた。段田南海市長のハハオヤの相手をしたせいで、ずいぶんと消耗したみたいだ。
「なんで行けないのよ?」
「TGXの本部に呼ばれたから、行ってくる。でも、だいぶ遠回りになるので、リツコさんに送ってもらうのはムリみたい。ディーとホーリーに、お願いしてもいいかな?」
「いいけど。TGXって、なに?どこにあるの?」
不思議がるディーに、ホーリーが答えた。クリスマスソングの続きを歌っているような美声だけど、高音は心持ちトーンダウンしていた。
「昔の〈桃源教会〉が名前を変えたんだよね~。本部も都心の駅前通りから、西の山脈の中腹あたりの、ポツンと建ってるビルに移ったらしいんだな~」
「わ。それってもしかして、〈あっちの山〉のビルのことだったりする?」
「だよね~。だれだってわかるよね~。いろいろドンピシャだからね~。〈国際経済総合研究所〉なんて、もっともらしく名乗ってるアレの正体、実はTGXだったんだね~」
「ホーリー。そのハナシいつ知ったの?なんでわたしだけ知らないの?」
「ディー。ソースは昨夜のネットニュースだよ~。キミはそのとき締め切り間際の奮闘中で、おしゃべり一切NGだった、そうだろ~?」
ディーとホーリーの問答は掛け合い漫才みたいだったけど、居合わせたアタシたちはみんな腑に落ちた。なるほど、そういうことだったのね。アタシたち、破綻した子どもプロジェクトの最後の二人であるアタシとユリアが、リツコさん共々〈山の家〉から追われる破目になった直接の原因はTGX、かつての〈桃源教会〉だったのだ。
そうと知ったらアタシは俄然、そこへ呼ばれて行くというユリアの身が、心配になってきた。
いつだったか、段田南海市長から聞いたことを思い返した。曰く、ユリアのセイシさんである〈桃源教会〉の三代目教祖、導師GXと名乗る人物には婚外子を含めて十人以上の子どもがいる。充分な人数だ。ゆえに、精子を提供しただけの子、ユリアにはさほど関心がないのだと段田南海市長は言った。たしかにそう言った。
しかし同時に段田南海市長は、こうも言ったのだ。導師GXは、非常に危険な人物であると。先方から接触があっても、決して応じてはいけないと。まるで自分は些かも関りがないような口ぶりで、癪に障る言い方だったが、あれがユリアに与えた忠告だったことは間違いない。
もうひとつ、アタシはひしひしと感じたことがあった。段田南海市長は導師GXを嫌っている。たぶん、半端ないくらいに激しく。
ユリアだって気づいたはずだった。もちろん、なにもかも覚えているだろう、アタシよりもずっと、細部にわたって鮮明に。
「TGXのだれから呼ばれたのよ?電話があったの?いつ、どこの電話に」
ユリアのことが心配で堪らないと、ただそれだけのひと言が、なぜかアタシは言えない。ムッとむくれた仏頂面で、問い詰めるしかできない。
「事務室に電話があって、スタッフの人が呼んでくれたのよ」
「だから、だれから?」
「あの人。本人だって言ったわ、導師GXと名乗ってる人」
「会いたいの?」
「会ってみたい。行くって返事したし」
「なんか、危ない感じする。ユリアがひとりで行くなんて」
「だから。送り迎えは断ったのよ。帰り、リツコさんと迎えに来て」
「アタシも行くよ。はじめから一緒に」
「いいの。ひとりで行くことにしたの。後で迎えに来てよ、キーラ」
アタシとユリアの中間あたりに座っているディーが、バッグの中を探っていた。取り出したのは、アタシとユリアが贈ったクリスマスプレゼントの包みだ。ライトブラウンとブルーグレーとブラックの眉ペンシル、それとオーガニックコットンのレッグウォーマー。ほとんど文無しのアタシたちから、売れっ子アニメーターであるディーへ、気持ちだけはたっぷり込めたプレゼントだった。
ちなみに、アタシたちがホーリーへ贈ったプレゼントは、同じオーガニックコットンの指切り手袋だ。暖房のない街角や広場でも、ピアノを見つけたら弾かずにいられないホーリーの手を、寒気から守れるように。
アタシたちがプレゼントした眉ペンシルを手に取り、ディーはアタシとユリアを描いている。クリスマスケーキの箱を開いて裂いて裏返し、白い厚紙の面をスケッチブックの代わりにして。
柔らかなライトブラウンの眉ペンシルを手にしたディーは、その色合いに似つかわしいユリアを描く。実は優れた肖像画家でもあるディーは、どんな筆記具より眉ペンシルで描くのを好んだ。〈山の家〉にいた少女の頃から、人物を描こうとするとき、いつの間にかその手は、リツコさんの眉ペンシルを持っていた。アタシとユリアは幼かったけど、そのことをよく覚えている。
ブルーグレーの眉ペンシルに持ち替えたディーは、同じケーキ箱の厚紙にアタシの顔を描いている。ライトブラウンで描かれたユリアの傍らに立つ、ショートボブの女の子といえばアタシの他にはいない。でも、何かが違う。その女の子はアタシとわかるけれど、アタシがアタシでなくなったような、強烈な違和感を醸し出していた。
「それ、アタシじゃないみたい」
「そう?わたしはただ、見えた通りに描いてるだけよ」
「ホーリー、これがアタシに見える?」
「えっと。いつもよりちょっと、尖った感じするかもね~」
「リツコさんは?」
「キーラ、カッカしないで。ユリアと別々になるときはいつか来るって、わかっていたでしょ。そのときが来たのよ、いきなりだけどね。それにしてもまあ、TGXへひとりで行くなんて、わたしもちょっと心配になるわ」
リツコさんはケーキ箱の厚紙をディーから受け取り、アタシとユリアが描かれた眉ペンシルのデッサン画を、とっくりと眺めた。
「キーラは怒りまくってる。なのに、ユリアはなんか悲しそう。なにもかもしょうがないって、端から諦めちゃってるみたい。いつも思うんだけど、あなたたち二人、合わせてシャッフルして二分割したら、ちょうどいい塩梅の女の子二人に、生まれ変われるのにね」
アタシたち、アタシとユリアのことをリツコさんは、ドールハウスに収まりきらない人形みたいに言った。リツコさんはだいたいいつも、こんな感じの人だ。大きくなりすぎたせいで。あるいはもともと、規格外かサイズ違いか、なんらかのミスがあったせいで。要するに、アタシたちは決して唯一無二のドールじゃないのだ。代わりさえあれば、いつでも捨てる踏ん切りのつく、オンボロのラグドールだった。
描かずにはいられなかったと、後になってディーは言った。久しぶりに会ったアタシたち、十五歳になったアタシとユリアが、人目も憚らず本気モードでやり合っている、その場に居合わせたからには、記録せずにはいられなかった。ディーではない他のだれかなら、携帯のカメラを向けてスナップ写真を撮ったに違いない。ディーだから、眉ペンシルとケーキ箱の裏紙で、スケッチを描いてくれたのだ。
後ろ髪を引かれるような、とはこういうことだったのか。
思い知り、立ち去りがたいアタシたちの〈分離の苦しみ〉を目の当たりにして、ホーリーは歌うのをやめ、ディーに提案した。
「ボクのスマートウォッチをユリアに預けよう。袖に隠れて目立たないからね。キーラにはキミのスマホを持ってもらう。そうすれば、わかるだろ?この子たちは繋がってるから、二人は離れていても通じ合えるし、お互いの様子を見聞きできる。少なくとも、迷子にはならないはずだ」
ディーの憂い顔がパッと明るくなった。
「ホーリー、ステキ、それいいわ、そうしましょう」
ディーは手もとに置いてあったスマートフォンをアタシに差し出した。
「この中にいるAIには、ラスキン旭という名前をつけたの」
「その名前、なんかどこかで聞いたような気がする」
「でしょうね。由来はアップルだけど、要するにわたしたちも、酸っぱいリ
ンゴが好きなのよ」
次いでディーは、ホーリーが手首から外したスマートウォッチを、ユリア
の手にのせた。
「なので、こっちのAIはマッキン茜になったわ。どっちも素直で賢くて、
いい子たちなのよ、ユリアとキーラみたいにね」
ユリアは躊躇っている、アタシと同じように。だってアタシたちが知って
いるのは、リツコさんの旧型スマホだけなのだ。ラスキン旭とマッキン茜な
んて、いかにも手ごわそうな名前のついたAIがいる最新機種なんて、使い
こなせると思えなかった。
「大丈夫。全然モンダイないわよ」
ディーはあっさりと請け合ってから、ラスキン旭に呼びかけた。
「ねえラスキン旭、わたしたちの会話を聴いていたでしょ?」
するとスマートフォンは、澄んだ美声で淀みなく答えた。
「はい、ディーさんたちの心配事は理解しました。要点はユリアさんとキー
ラさんの〈はじめの一歩〉ですね。ラスキン旭はキーラさんの指示に従い、
マッキン茜と連携してユリアさんをフォローします。それでOKですね?」
ラスキン旭と名乗ったスマホは、頼もしくもハキハキと答えた。
参考文献
太宰治「女生徒」 角川文庫クラシックス
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