第17話 キーラとトルティーさんの細部について
あたしたち、あたしとキーラはいつもふたりきりだった。
だってリツコさんはやっぱり別格、あたしたちにとって大切な人だけど、あたしたちと同じ括りでは語れない。エレナちゃんも段田南海市長も、同じ理由であたしとキーラを囲む、特別な◎の中には、入れない。
あたしたちはいつも、ふたりしておでこをくっつけ合い、ふたりだけの内緒話として、嘆き合ったり励まし合ったり知恵を出し合ったりしてきた。
それなのに。
いきなりこんな大勢で、一緒にひとつのものごとを考えなくちゃならないなんて。あたしたち、あたしとキーラとトミージェイ、そしてヤシマさんとトルティーさん。たった五人でも、あたしはこんな大勢と感じている。そんな中にいると、あたしの輪郭がぼやけてしまう。あたしという者を成している色合いの元々の色が、どんなだったかわからなくなる。
だからあたしは耳だけを、ハンナさんの黒檀の化粧台に置かれたノートパソコンに向けて、その前に集まった人たちの会話を聴くともなく聴いている。あたしの身体と心はじっとしていられず、足音を忍ばせてハンナさんのお部屋を歩きまわる。キーラの大嫌いなトゥシューズを履いたつもりになって、壁伝いにそろりそろりと歩きまわる。
ハンナさんのお部屋。白い小花模様を散らした薄茶色の壁紙とカーテン。遥か昔にだれかの手が、ほんとうにひと目ずつ編み上げたような、文字通りに重厚なレースが窓を覆い、陽射しを和らげている。あたしはその柔らかな光の中で、ハンナさんの飾り棚に並んだ小物や写真立てを眺める。とりわけ、ランダムに置かれてひしめき合う数多の写真立ては、圧巻の眺めだ。
赤ちゃんのキーラがいた。白鳥の衣装とメイクのハンナさんは、大きめのポートレートの中で羽ばたいている。そして、素顔でくつろぐハンナさんをとらえた、たくさんのスナップ写真。大人っぽい時代と少女っぽい時代、それぞれの中くらいの時代、様々な年代のハンナさんがいる。その笑顔の中心にあって煌めいているのはキーラと同じ、アイスブルーの目だ。その目を眺めているうちに、ふっと思いついた。
あたしはそっと歩み寄って、ささやきかけた。
「ねえ、トミージェイ。ネットバンクにログイン、できそう?」
「いーや。いまのところは全然ダメっぽい」
「あのね。思ったんだけど。キーラの右目で、やってみたら?」
「右目?さっきPC開くのに虹彩認証やったろ。あー、あれは左目だったか」
最初はまず、右目を試した。その後、左目でハンナさんのパソコンの入り口は開いたのだ。だったらもう一度、右目で試してみれば、ネットバンクにログインできるかも知れない。ハンナさんのスナップ写真を眺め、ハンナさんの身になってみて、思いついたことだった。幼いキーラが成長した後も、確実に持ち続けているもの。ハンナさんと同じアイスブルーの瞳。大切なものを託そうとするなら、きっとそれだ。
そして、あたしの思いつきは当たった。ハンナさんのノートパソコンの画面に、あたしにはひと言も読めない外国語の文書が現れた。
「だれか、これ読める人いる?いないよな」
一応確認、と軽口を叩いた後でトミージェイは、少なくとも十年前の翻訳ソフトとぶつぶつ語り合い、ひねり出した〈ナンチャッテ〉な日本語文を読み砕き、解きほぐしてゆく。それから後、知り得た事柄をかいつまんで説明してくれた。
「ここはキーラだけが入力できるページだ。二〇三一年七月三十一日現在で、信託預金から振替可能な百二十万円が必要かと、尋ねている。二〇三〇年までは、毎年自動的に振替入金されていたカネと、同じ金額だな。どうする?このカネ必要かい?」
トミージェイの軽口に合わせたつもりなのか、キーラはどうしようかしらと考え込むジェスチャーをした。
「まあね。ていうか、もちろん必要なんだけど。そのおカネもらったら、代わりにもっと困ったことが起きるとか、あったりしない?」
トミージェイとヤシマさんは、揃って肩をすくめた。ふたりだけじゃなく、あたしたちみんな、返事のしようがなかった。キーラも小さく肩をすくめ、イエスのボタンをクリックした。すると魔法のように、預金残高に百二十万円が加わった。
ただの数字を見て、こんなにもホッとするなんて、いままで経験したことがなかった。おカネのチカラというものを、つくづく実感した。〈もっと困ったこと〉なんか決して起こりませんように。あたしは願った。
あたしたち、とりわけキーラとトミージェイは、疲れ果てていた。とりあえずハンナさんの家は、キーラが使える家としての機能と価値を取り戻し、蘇った。万事めでたし、の感が漂ういまここで、過去十年余りにわたって毎年信託預金から振替入金されていたという、百二十万円の使われ方について、これ以上細かく追求していこうとする気力は、イマイチ湧いて来ない。
でも。
あたしは思い出している。前世紀の高名なミステリー作家の代表作に登場する〈細部をおろそかにしない男〉が述べていたこと。〈張りつめた空気の中では、どんな些細なものごとも立派な演技となり、重大な意味を持つ際立った動きとなるからだ〉。
読んだときは、意味するところがさっぱりわからなかった。けれど、わからないなりに心に残った。あたしたち、あたしとキーラとトミージェイが、ハンナさんの行方とおカネの使途について、あやふやで嘘っぽい話を繰り返すヤシマさんと対峙するに至ったいまこそ、そのときではないのか。初めて直面した〈張りつめた空気の中〉にあって、あたしはその言葉を噛みしめる。
おろそかにはできない細部。
この口座の支払い内訳が明らかになった時点で、ようやくヤシマさんは一枚のクレジットカードを取り出した。毎月の使用限度額が五万円と指定された、諸経費用のカードを〈預かっていた〉というのだ。名義人はキーラ・バルドーだった。
それによって、当面の謎は解けた。ひと月あたり十万円の内、光熱費と税金を引いて残ったはずのおカネが、計ったように支出されていたこと。たしかに、家とBMWのメンテナンスに、それなりの費用がかかるだろう。しかし、全くかからない月もあったはずだ。そして、およそ十年間の物価上昇分を考え合わせても、幾ばくかは残り、積もっていくのではないだろうか。それなのに、ひと月当たり十万円のおカネは、毎月数百円の端数だけを残して、例外なく引き出されていたのだ。
ヤシマさんは初め、この口座の存在を知らないと言った。でも、光熱費と税金がどこかで支払われていることは承知していて、毎月使用限度額五万円のクレジットカードを持ち、フルに活用していた。知らないはずはなかった、と思う。口座にアクセス出来ないと、正直に言ってくれたほうがよかった。
気にかかっていることは、もうひとつあった。
細部のように見えて、実は大きな疑問を招き寄せる事実。
諸費用込みで月額十万円という、この入金額だ。ヤシマさんに委ねる諸経費としては、まずまず妥当なのかも知れない。でも、キーラの養育費を含むとしたら?これでは、少なすぎるんじゃないのかしら。
あたしは養育費というものの実情を知らない。子どもひとりにつき、どれくらいのおカネが必要なのか、見当もつかない。あたしとキーラを育ててくれたリツコさんに、実際はどれくらいのおカネがかかっているのか、訊いてみなければ、たしかなことがわからない。この件に関して、ぜひともリツコさんの考えを聞いてみたいと思う。
それにしても。
あたしは今日、ハンナさんの家を見た。ハンナさんがキーラのために残しておいた家だ。キーラの左手に仕込まれてあったマイクロチップで、ロックを開錠できた四階の部屋に、いまこうして足を踏み入れている。
それからキーラの瞳の虹彩認証によって、パソコンが開く場面にも立ち会った。キーラにとって大切な情報が他にもまだ、たくさん詰まっていそうなパソコンだ。
今日ここで目にしたものごと、あれやこれやの事実から、あたしは感じ取っている。
ハンナさんはキーラのことを、大切に思っていたのだ。すると、諸費用込みでひと月分が十万円のおカネは、キーラの養育費としては少ない気がした。相応しくないと思われた。
そう考えたら、ハンナさんがキーラを、ヤシマさんに託して去ったなんて、そんなこと、本当とは思えなくなった。
そうすると。
当人のキーラが、幼いなりになんとなく感じていたように。再会したヤシマさんがいけしゃあしゃあと、言ってのけたように。代理母に返すという名目で、キーラが棄てられたという解釈は、決して成り立たない。
そんな世迷言は、とても受け入れられなかった。あたしはむしろ、ハンナさんがキーラを、どこかは知らないが自分の故郷へ、連れ帰るつもりだったのではないかと、考え始めている。
あたしたち、あたしとキーラとトミージェイ、そしてヤシマさんとトルティーさんは、列を成してぞろぞろと、一階への階段を下りてゆく。ハンナさんのノートパソコンを抱えたキーラが、しんがりだった。
四階の部屋から出たキーラは、左手に埋め込まれたマイクロチップの性能を確かめるように、ドアを何度か開閉してみた。閉めてしまったら、もう二度と開かないのではないかと、恐れているようでもあった。
十二月の日暮れは早い。あたしとキーラは、段田南海市長の両親の家に帰らなくてはならない。リツコさんが待ちわびているだろうし、エレナちゃんも気にかけているだろうから。ひとまず帰って、今日出会った人たちと知り得た事柄を、報告したいと思う。
リツコさんが待つ仮住まいの家へ帰るには、トミージェイのハイ&チェで送ってもらうことになる。けど、それでいいのだろうか。あたしはためらいを覚えている。トミージェイはきっと、当然のように送ってくれるだろう。でもそのことが、かえってあたしの心に重くのしかかってくる。
キーラとリツコさんとエレナちゃん。あたしはこの三人以外の人と、ちょうどいい距離を取るのがむずかしい。トミージェイはエレナちゃんと知り合いで、信頼もされている人だ。だからあたしも、信頼していいはずだと思える。それは、うれしいことだった。信用できないかも、などと警戒するよりはずっといい。
けれど、その代わりに。
トミージェイがまた一歩か二歩、あたしの◎に近づいてくる気がする。もしかしたら、グッと踏み込んでくるかもしれない。そんな気配をひしひしと感じる。それでもあたしは、当然のことのようにそれを許さなくちゃならないのかしら?拒んではいけないのだろうか。親しくなるって、そういうこと?考え始めたら、だんだんと気持ちが沈んでくる。
すると、キーラのYKセンセイから貰った一万円札が心に浮かび、沈みかけたあたしの気分を引っ張り上げてくれた。そっとポーチの中身を確かめる。都市間長距離バスの料金と、サワタリホットのランチセットに使った残りが七千円余り、ちゃんとあった。キーラの分と合わせたら一万四千円、それだけあればもしもの場合でも、タクシーを呼ぶことができるはずだ。
そう思ったら、途端に気持ちがラクになった。たとえば最悪、トミージェイが機嫌を損ねて帰ってしまったとしても。ヤシマさんにはバス停まで送ってほしいなんて、金輪際頼みたくなかったから。
速度規制を巧みにすり抜けて爆走する、トミージェイのハイ&チェでも、市の中心部まで行ってからサワタリ方面へ戻ると、相当の時間がかかって真夜中になりそうだ。あたしはその懸念を前置きして、提案した。
「あたしはバスで帰ってもいいんだけど、キーラはどう思う?」
口にした途端に、トミージェイはひどく傷ついた表情になった。いまにも泣きそうな。それでいて、烈火のごとく怒りだしそうな。まるで、もう会わないと、カノジョから宣告されたカレシのように。あたしとトミージェイは、カノジョでもカレシでもないのに。ちょっと、狼狽えてしまった。
キーラは、あたしとトミージェイの顔を見比べながら言った。
「ユリアは心配してるんだね。トミージェイが、夜中にひとりで走る帰り道の長さとか、地吹雪でホワイトアウトになったりしないか、とか」
「へえ?」
「アタシだって、トミージェイとハイ&チェが事故って壊れちゃったりしたら、すっごく悲しいし。それだけじゃなくて、実際すっごく困るもんね」
身も蓋もないキーラの言い草を笑い飛ばして、トミージェイは請け合った。
「大丈夫。運転するのはハイ&チェだから。あいつに任せておけば全然OKだよ」それから声のトーンをグッと落とし、あたしにささやいた。
「頼むから。バスで帰るとかそんな水くさいこと、二度と言わないでくれ」
引き揚げようとしたあたしたちは、慌ただしく二階から降りて来たトルティーさんを見て驚いた。よそ行きっぽい臙脂色のダウンコートを着て、パンパンに膨らんだバッグパックを肩にかけ、臙脂色のニット帽を被りながら階段を降り切ると、ポカンとしているあたしたちにこう言った。
「街まで乗せてもらっても、いいでしょ?ちょうどよかったわ。ヨシユキは疲れているのに、わざわざ送ってもらうのは悪いから。ね、そうよね?」
ヤシマヨシユキさんは、うんともすんとも答えず、低く呻いただけだった。思うに、ヤシマさんがあたしたちのだれより一番驚いて、ポカンとしていたのかも知れなかった。
皆がハイ&チェに乗り込んで走り出すまでの間、トルティーさんは饒舌だった。携帯端末を握りしめ、ひっきりなしにしゃべり続けた。
曰く、勤務するデイサービスで介護を担当している馴染みの利用者から、自宅へ来てほしいとついさっき電話があった。それはわりとよくあることで大いに歓迎なのだが、なにしろ自分はまだ運転免許証を取れていない。もちろん取ろうとして、もう何か月も教習所に通い続け、試験を受け続けているが、未だに合格出来ないのだ。
クルマの運転はけっこう得意で上手い方なのに。どうしてだか、漢字と平仮名と片仮名の違いを覚えられず、学科試験が×だらけになった。人の名前や商品名や好きな歌の詞なんかは、わりとすんなり覚えられるのに。同じ日本語でもテキストに書かれた文章となると、何回読んでも頭に入って来ないのだった。
そうして締めくくりに、今夜は泊まりになりそうだから、夕食はキッチンにあるものを食べてと、トミージェイの肩越しにヤシマさんに告げた。
これと言って急ぐ理由もなかったけれど、パタパタと慌ただしいトルティーさんのペースにつられてあたしたちとハイ&チェも、慌ただしく出発した。
サイドミラーの中で、家の戸口に立って呆然と見送るヤシマさんの姿が、どんどん小さくなっていった。
ハイ&チェが国道に入って家とヤシマさんから遠ざかるにつれ、トルティーさんの口数は減り、やがてひっそりと黙り込んだ。膝に置いた手編みらしい赤いミトンを、握りしめたり引き延ばしたりひねって結んだり、どこか上の空だ。トミージェイがナビの市街地図を指して、問いかけた。
「トルティーさんが行きたい家の住所は、どの辺ですか?」
「わからないわ」
「じゃあ、だいたいの場所がわかりそうな、目印とかは?」
「目印もないの」
「あれ?なんか、ハナシが違うみたいな」
「そうね。嘘つきなのは、ヨシユキだけじゃないわね」
トルティーさんは、暗い窓の外へ顔をそむけた。見開いた両の目に溢れる涙が、その頬を濡らしていた。涙は滂沱のごとくに、とめどなく流れ続けた。
トミージェイもあたしたちも、かけるコトバを失くしていた。たったいま、ヤシマさんが嘘つきだと、トルティーさんは言った。あたしたち、あたしもキーラもトミージェイも、ヤシマさんは嘘をついているような気がした。でも、この部分のここが嘘だと、はっきり指摘は出来ない。ただ漠然と、そんな感じがするだけだった。
席の近いあたしが、トルティーさんにティッシュボックスを差し出して念を押した。
「だれかに呼ばれたから、街へ行くんじゃないんですね?」
「家にいたくなかったのよ。あなたたちが街へ帰ると聞いたから、乗せてもらおうと思ったの。免許が取れてないのはホントだから。ごめんね。ヨシユキには言いにくくて、嘘をついたわ」
「どうして家にいたくなかったのか、訊いていいですか?」
トルティーさんはティッシュで涙を拭くと、またひとしきり、赤いミトンをもみくちゃにしながら語り始めた。
「うまく言えないんだけど。もしかすると、今夜ひと晩ビジネスホテルに泊まったら、頭が冷えるのかもしれない。そうしたら明日はまた、なんでもなかったような顔をして、家に帰ったりするかも知れない。
それで済ませてしまいそうな自分がいるの、以前にも似たようなことがあったから。でもね、今度は少し違うような気がしている。あなたたちが来て、ハンナさんのキーラちゃんに会えて、やっとほんとのことがわかったから」
「ほんとのことって?」
「いまさらだけどね。ヨシユキはいまでも、ハンナさんを愛してるんだわ」
ええっと、あたしたちは申し合わせたように仰け反り、息を呑んだ。ややあって、トミージェイがおずおずと尋ねた。
「あの。ハナシの腰を折るようで悪いんだけど。一体全体なにを根拠にそんなことが、わかったんですか?よく言う〈オンナの勘〉なんてのは、ナシですよ。オレは全然、そんな感じしなかった。むしろヤシマさんは、ハンナさんに怒ってるみたいだと、思ったんだけどな」
「ええ。怒ってもいるわね。自分は愛していたのに、あちらが愛してくれなかったから。今日ヨシユキはずっと、ハンナさんを〈あのひと〉と呼んでいたわ。名前を口にしたのは一度きりだったかしら?すごく動揺していたし、キーラちゃんのことを、まっすぐ見れないでいたのが、よくわかったわ」
「なるほど。愛してるから腹が立つのか。たしかに、アリかも知れないな」
トミージェイは、しみじみとつぶやいた。
ひっそりと静かに、なにやら考え込んでいたキーラが、口を開いた。
「ヤシマくんはアタシに、自分はLGBТQのGだって、言ったことがあったよ、ずっと昔に。それも、初めから嘘だったことになる?」
「そうね。噓だったと、言ってしまったらカンタン過ぎるかも知れないけど。ヨシユキはわたしに、ハンナさんから仕事をもらいたい一心で、つい口が滑ったと話したことがあったわ。ゲイだとカミングアウトしたら、ハンナさんはすっかり真に受けて、家の管理を任せてくれたので、ゲイのふりを続けるしかなかったんだと。
キーラちゃんがいたことを、話してくれたのはつい最近だった。家にかかるおカネが、足りなくなってからね。おかしな話だと思ったわ。わざわざ代理母に生んでもらって、せっかく授かった子どもなのに。その子を捨て置いて自分だけ国へ帰ったなんて。そのまま、行方知れずになったなんて。いま考えてみても、やっぱりおかしな話だと思うわ。
それまでのわたしはヨシユキのことを、連絡のつかない雇い主から預かった家を、黙々と守っている忠実な番人だと、信じていたのよ。それこそが、笑っちゃうくらい、おかしなハナシだったかもしれないわね」
胸にわだかまっていた思いの丈を吐き出したせいか、トルティーさんは心なし、すっきりとした表情で微笑んだ。
「ハンナさんがいまどこにいるのか、ヤシマくんは知ってると思う?」
そう尋ねたキーラを、トルティーさんはキッと強いまなざしで見つめた。
「知ってるなんて言えないし、知ってるかもしれないとも言えない。どちらもただの憶測だから。軽々しく口にしていいことじゃないと思うから。
でもね。
わたしにも考えがあって、自分なりに書いた物語みたいなものはあるのよ、ずっと前から。たぶん今夜も一晩中、その物語を読み返したり書き加えたり、繰り返して過ごすことになりそうだわ。でもそれはあくまでも、わたしの頭の中だけの物語にすぎないもの、だからいまは口に出せないの。ごめんね」
「それでも。トルティーさんは自分の考えを、ちゃんと持っているんだね?」
言わずもがなの念を押したキーラのアイスブルーの瞳を、怯まずに毅然と見つめ返してトルティーさんは答えた。
「ええ、もちろん。ちゃんと持っているわ」
ハイ&チェが検索して予約を取った最寄りのアパホテル前で、トルティーさんは降りた。はにかんだように微笑んであたしたちに小さく手を振ると、重そうなバックパックを担ぎ直し、しっかりとした足取りでエントランスの中に消えて行った。
「さてと。次はどっちへ行けばいい?」
トミージェイに行く先を問われ、あたしは丸暗記したばかりの住所を告げた。すると、段田南海市長が生まれ育った両親の家は、ナビの住宅地図にくっきりと表示された。
「段田って市長と同じ名前だね。ひょっとして親戚だったりする?」
軽口のつもりで言ったらしいトミージェイに、あたしも軽口のように言い返した。
「オヤって親戚のうちに入ると思う?赤の他人でないのは同じだから、どっちかと言えば親戚のほうに近いよね」
あんぐりと大口開いたままであわあわと、たっぷり一分間ほど絶句していたトミージェイの顔は、ちょっとした見ものだった。
「ええと。一応カクニンさせてくれ。つまり、あの段田南海市長がユリアのハハオヤだって、言ってるように聞こえたんだけど、それで間違いない?」
「そういうこと、みたいね」
「みたいって、何だよ?」
「自分の目で確かめたわけじゃないから。子どもの立場から見れば、みんなそうでしょ?オヤだと名乗った人たちを、オヤだと信じて受け入れるしかないんだもの」
「たしかに。それは言える、けどさ…」
「なに?」
「ユリアは受け入れてないような、そもそも信じてない感じがするような」
「信じられないって言った方が近いかな。そっちはどうなの?オヤたちがどんな人か、ちゃんと知ってるの?」
「まあな。っていうか、全然知ってるさ、イヤになるくらい」
「おしえて」
「ええと。チチオヤってヤツは赤ん坊のオレを殴り殺しかけた。ハハオヤは見ないふりをしてた。どころか、チチオヤをかばったんだとさ。以上」
「養護施設で育って、そこでオヤよりもマシなオトナに出会えたんだね」
「まあまあ、だったかな」
「よかったんだよ。なんとなくわかる。トミージェイの根っこは、あたしなんかよりずっとポジティブで明るい感じがするから」
「ユリアだってべつに、ネガティブじゃないし暗くもないでしょ」
意外なことに、そこでキーラが口をはさんだ。いつもながらの過大な期待と評価。あたしはそんなに立派なよい子じゃないのに。いつもなら言わずにすませることを、つい言いたくなった。
「いいないいな、キーラはいいな」
「アタシのなにがいいって?そんなもん、一個もないよ」
「あるある。あんなにステキなハンナさんがオヤだったし、キーラのことをあれだけ大切に思ってくれてたって、わかっただけでもいいじゃないの」
「なんもよくない。ハンナさんはとっくに死んじゃってる」
「死んじゃってると思う?」
「ユリアだって、そう思ってるくせに」
「まあ、そうだね。そこはつくづく残念無念だけど。YKセンセイにはまた会えるでしょ。ねえ、今度はいつ会えるの?」
「YKセンセイって、だれさ?」
焦り気味に食いついてきたトミージェイは、その人が自分のチチオヤだと言うキーラから名前の表記を聞き出し、YKセンセイを検索した。ハイ&チェのモニターに、お馴染みの学者っぽいポーズでキメた、いまより十歳ほど若いYKセンセイがアップになった。それはあたしが一番好きなポートレート、何度見ても惚れ惚れするほどステキなYKセンセイだ。
「ユリアも知り合いなのかい?どういうこと?」
あたしの目の中のハートマークに気づいたのか、トミージェイは血相変えて詰め寄ってきた。その様子を見た途端、あたしの口から思いがけず蓮っ葉な言葉が滑り出た。
「スキー教えてもらったの。楽しかった。あたし、YKセンセイが大好き」
「えー。その好きってさ、どのくらいのレベルの好き?」
「レベルってなに」
「だってさ。このオッサン、かなりの確率で既婚者だろ」
「かも知れないけど。だったらなに」
「レンアイ対象にしたら、マズイ相手じゃないの」
「なんで?」
「えっえっ?なんでって…」
「あたしはただ、好きなだけだから。YKセンセイがキコンでもミコンでも、どっちだってカンケイないよ」
「へえ。それじゃ、なんもしなくていいのかい?」
「なにするっていうの?」
「だってさ。好きになったらその人と、ずっと一緒にいたいと思うだろ」
「会えたらうれしいけど。ずっと一緒でなくても、いいような気がする」
「へえ。ケッコンしたり子どもつくったり、したいと思わないの?」
次いであたしの口からこぼれ出た言葉に、トミージェイもキーラも驚いたようだが、実はだれよりも言った当人のあたしが、一番びっくりしていた。
「それはイヤだな。ケッコンするのも子どもつくるのも、したいと思わない。いまはね、YKセンセイの写真見ていられたら、それでいいの」
参考文献
「ロング・グッドバイ」早川書房
レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳
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