第16話 Home Sweet Home
ヤシマくんは冬囲いの仕事を中断し、アタシたちを促して、屋上庭園から地下三階へ下るエレベーターに乗り込んだ。二つ目のアジサイの冬囲いを、始めたばかりで放り出したのが、気になった。あのままでいいの?思わず尋ねたら、ヤシマくんは平然と言った。いいんだ、今時分は誰もここまで来やしない、来るのは冬だけ、続きは明日にしたって、どうってことないさ。
ヤシマくんのクルマは、あのときと同じ、ハンナさんのBMWだった。アタシがそれに乗り、ユリアはハイ&チェに乗ると決まった。大丈夫?ユリアは心配そうにささやいた。アタシたちが別々のクルマに乗ること、アタシだけがヤシマくんのクルマに乗ること、そのクルマが、昔々棄てられたときと同じBMWであること、等々、ひっくるめて心配している。
そしてユリアはアタシの手に、リツコさん名義の携帯端末を押しつけた。トミージェイからの着信履歴が残っている、困ったことになったらすぐコールして、迷ったり躊躇ったりしないで。心配性のユリアは、いつでも最悪の事態を想定せずにはいられない。ヤシマくんとBMWが、アタシを拉致して走り去ってしまう可能性も決してゼロではないと、考えている。
アタシだって、ちょっぴり不安を感じていた。ユリアと二人きりになりたくてウズウズしているトミージェイが、チャンス到来とばかりにアタシを見限り、BMWの追尾をやめて逆方向にハイ&チェを走らせ、ユリアを連れ去ってしまわないとも限らない。そんな気がしてならないのだ。
それもこれも、アタシたち、アタシとユリアが別々のクルマに乗るなんて、かつてなかったことだから。ユリアと離れ離れになることが、心細くてたまらない。でも。そんな不安はグッと堪えて胸におさめ、なんでもないふりをした。ここでベソをかいて立ち止まったら、アタシはこの先どこへも進めやしない。そう、思うからだった。
直角三角形の赤いとんがり屋根。右側の傾斜から突き出た正方形の煙突。そして、レンガ造りの外壁。用水路にかかった小さな橋を渡った突き当り、ポプラ並木に囲まれてその家はあった。記憶していた通りだった。
覚えてるのより、だいぶ古ぼけてるだろ、なんせ十年経ったんだから。ヤシマくんは言った。そうかも知れない。全体に、いくらかくすんだような感じはする。でも。もともとが、ピカピカではなかった。そもそも、ハンナさんの家がどれくらい古ぼけたか、そんなことはいまのアタシとって、それほど大切なことではなかった。夢でも幻でもなく、本当にそこにあった。ただそのことに、心奪われていたのだった。
なにより目を引かれたのは、正方形の大きな煙突からもくもくと、立ち上る白い煙のさまだった。煙が出てるよ。アタシは思わず、煙突を見上げた姿勢でつぶやいた。見ればわかることなのに、言わずにはいられなかったのだ。
「そりゃそうさ。ストーブ焚いてるからな。冬の間はずっと焚いておかなきゃならないんだ。覚えてるだろ?」
「ええと。シャワーの出口が、凍っちゃうから?」
「そうだ。トイレも流し台も、下手したら元栓まで凍っちまう。器具が古くなった分、昔より凍りやすくなったから、ストーブの火は消せないんだ」
「でも。ヤシマくんは、仕事に行かなくちゃならないでしょ」
「まあな。だから家には、ストーブの番をしてくれる人がいるのさ」
「へえ。どんな人かな?」
それは、女の人だった。
意外すぎて、びっくりだ。しかもその人の雰囲気が、まるで〈主婦〉そのものだったので、二度びっくり。つまり、アタシのアタマの中にある〈主婦〉たち、例えば、ТVニュースの中の食品売り場で、買い物をしているような女の人たちのことだ。
インタビューに答えて、食料品の価格高騰や品薄や品質低下なんかを、控えめに嘆いていた女の人たち。決して怒ったり過激な言葉を使ったりはせず、曖昧な口調で、困りますねえ、などと他人事のように言うだけの人たち。
ハンナさんの家でストーブの番をしていた女の人も、アタシを見て困った様子だった。この子はだれ?なにをしに来たの?その目はそう言っていた。少なくとも、客を迎える心づもりが、まったくなかったのはたしかだ。本当はバタンと、ドアを閉めたかったのかもしれない。けれども、そうはせずに渋々ながら一歩下がり、アタシたちを家の中に入れてくれた。
その人の名前はトルティーさんだと、ヤシマくんが言った。わ、なんか旨そうな感じ、腹減ってくる。背後でトミージェイが、無作法につぶやいた。皆が聴こえなかったふりをした。けれども、当のトルティーさんだけは、ごくごく控えめに、にっこりした。すると、いかつく厳しい感じだった丸顔が、ほんの一瞬だけ、ふわりとキュートに見えた。案外、茶目っ気のある人なのかも知れない。
でも、なんだか腑に落ちないことがあった。
アタシは覚えていた。ヤシマくんはLGBТQのGだと、アタシにカミングアウトしてくれたことを。実際のところ、Gだと公言していて、バレエの素養もあって、その上抜群に家事が得意だったから、ハンナさんは家とアタシをヤシマくんに預ける気になったのだ。
だからなんとなく、ストーブの番人をしている人というのは、オジサンかオニイサンだろうと、アタシは予想した。オジイサンである可能性もゼロではないと、思ったくらいだ。
なぜかって考えると。
アタシはヒトの性的指向のことなんて、まるでわからない。Gの人たちの行動パターンとなると、もっとずっと深い闇の中だ。ただ、思い出せることがあった。気にかかってならないこと、とも言えた。ハンナさんとヤシマくんの間に、そこはかとなく漂っていた、緊張感に満ちたあの空気だ。
それは、ユリアと出会って一緒に育つうち、アタシにもだんだんとわかってきたことだった。例えばアタシたち、アタシとユリアの間に、あのような緊張感に満ちた空気は存在しない。ごくたまに、喧嘩してピリピリすることがあっても、決して長くは続かない。こんな状態はイヤ。アタシたちがお互いに、そう思い始めるからだった。
いつしかアタシは、ハンナさんとヤシマくんは、親しい間柄ではなかったのだと、考えるようになった。ただの友だちでさえなくて、ヤシマくんはあくまでもベビーシッターとボディーガードを兼ねたハウスキーパーであり、ハンナさんはその雇い主だったのだ。そう思うと、ときおりハンナさんから感じられた、そこはかとない緊張感とよそよそしさも、納得がいった。
それなのに。
ハンナさんの家のキッチンテーブルについたヤシマくんは、まるで家長のようにくつろいで、熱いスープがほしいな、とトルティーさんに告げた。頼んだというよりむしろ、命じたように聴こえる告げ方だった。トルティーさんはその一瞬、抗議するような一瞥をヤシマくんに投げた。
それでもトルティーさんは不平を言わずに、背伸びして食器棚の上段を手探りし、不揃いなマグカップを三個取り出した。長い間使われずに仕舞われてあったらしい、色も形も材質もバラバラな三個のマグカップのひとつが、アタシの目を引いた。
それは、アタシのマグカップだった。うっかり床に落としても、決して壊れない銅製なので、危険な破片を撒き散らす恐れのない、ブロンズ色のマグカップ。素早く両手を伸ばして掴み、包み込んで引き寄せ、宣言した。
「これ、アタシの」
意図するところが通じたのは、もちろんヤシマくんだけだ。
「やっぱりその、ブロンズのマグがいいんだな、キーラは」
トミージェイが選んだ一番大きなマグカップにスープを注ぎながら、トルティーさんはアタシに忠告した。
「ブロンズのマグは、持ち手も熱くなるから気をつけて」
そうだった。アタシはそのことを知っていたのに、すっかり忘れていた。そもそも小さかった頃には、熱い飲み物を注いでもらったことがなかったのだ。トルティーさんは、スープを注いだブロンズのマグカップを布巾で包み、そっと手渡してくれた。
かぐわしい香りを立ちのぼらせるそのスープをひとくち啜ると、キューブ状に刻まれたベーコンとポテトが、口の中に流れ込んできた。ベーコンはほどよい歯ごたえがあり、ポテトは柔らかくとろけた。どちらもあまりに美味しくて、熱いけどハフハフ言いながら夢中で食べた。
トミージェイはおずおずと、お代わりの特大マグカップを差し出しながら、トルティーさんに話しかけた。
「このベーコン、ひょっとして、サワタリベーコンじゃないすか?」
「さあ。どこのだったかしら。いつも道の駅の売店で、一番お買い得なのを買うんだけど」
「それってドンピシャ。一番お買い得で一番旨いのが、オレんちのサワタリベーコンすよ。だからトルティーさんのスープが、こんなに旨いんだな」
「あらま。ベーコンつくってる人なの?」
そんなふうには見えなかった、あんまりチャラいから。などと、トルティーさんは決して口にしなかったが、代わりに真ん丸な二つの目をクルリと廻して見せた。ユリアはそんな二人の間でクスクス笑いながら、トルティーさんからスープの作り方を聞き出し、メモを取り始める。
でも。
ヤシマくんは達磨ストーブを背にした定位置に座ったきり、ピクリとも動こうとしない。トルティーさんがジャガベエスープ(ジャガイモとベーコンだからと、たったいまトミージェイが名付けた)を注ぎ分けた、アタシたちのマグカップを配ろうともしなかった。ただ、いの一番に自分のマグカップを受け取っただけ、そうしてズルズルと派手な音を立てて、ジャガベエスープを啜るだけだ。
ヤシマくんのそんな姿を見ているアタシは、堪らないほどの違和感に襲われる。
アタシが知っているヤシマくんは、こんなんじゃなかった。椅子に座るのさえ、いつも一番最後だった。必要とあれば、いつでも素早く立ち上がり、アタシとハンナさんのサポートをしてくれた。まるで、昔の映画に登場した給仕か執事のように、身軽に甲斐甲斐しく、立ち働いてくれたのだ。
そしてその場所は、もっぱらこのキッチンテーブル周りだった。それがいまは同じテーブルの、かつてはハンナさんの定位置だった、達磨ストーブ寄りの上座に鎮座して、ヤシマくんは微動だにしないのだ。
アタシを苛む違和感は、一向に鎮まりそうもなかった。
その気持ちが高まって、溢れ出しそうになったとき。
ヤシマくんのまなざしが、真っ向からアタシの視線を捕らえた。暫しの間、アタシたちは睨み合った。そうしていれば、そこに探り出したいなにかを見つけられる、とでもいうように。けれどやっぱり、そんな都合のいいことは起こらない。アタシたちはどちらも、同じくらいの期待感とハズレ感とを、投げつけ合っている。
ヤシマくんは、深いため息をひとつ、吐いた。
「まったくもって。よく似てるもんだな、キーラ」
「だれに?あのひとに?」
「決まってるだろ。ほかに、だれがいるって言うんだ?」
「ハンナさんの家族とか、探しに来なかったの?いなくなったとき」
「いいや。だれも来なかったよ、わざわざこんなド田舎まで、来るもんか。代理人というやつが、書類を持ってきただけだ」
「どんな書類?」
「あのひとの預金口座もこの家も、オレにはどうすることも出来ない、なんてことが書いてあったな」
「ふうん。その書類、アタシにも見せてくれる?」
「どこにしまったんだったかな。なあトルティー、覚えてるか?」
「あら。あんたがストーブに放り込んだんじゃなかった?」
「ああ、そうだ。そしたら、あっさり燃えちまったんだったな」
「でもね。ヤシマくんは、この家に住んでるよね。どうして?」
「実際は誰も見張ってないし、出ていけと言ってくる奴もいなかったんだよ」
アタシはそこでひと呼吸おいて、ふたたびヤシマくんと睨み合った。
「例えば。もしかしての、ハナシだけど。アタシはヤシマくんに、お願いしたりできるのかしら。出て行ってください、とか」
「さあな。もしもの話として、キーラは言いたいのかい?オレに出て行けとか」
突然、キッチンテーブルの周りに、最大級の緊張がピンと張りつめた。
「そういうことじゃなくて。アタシはいま、自分の家が無いの。育ててくれたシセツが閉鎖になったから。ハンナさんのお部屋に泊まれたら、助かるんだけどな」
「あのひとの部屋って言ったら、三階と四階、両方のことかい?」
「ええと。三階はレッスン場だったよね。バスもトイレもある寝室だったのは四階でしょ。とりあえず、そっちだけ。あ、凍っていないよね?四階の水道管とか」
「たぶんな。熱は上の方に昇るから、大丈夫だろ」
ヤシマくんの含みを残したような言い方が、少し気になった。けれども、駆け引きは先へ進めなくてはならない。ここで引き下がるわけにはいかない。
「四階の寝室を使うために、アタシはなにをしたらいいのかしら?」
ヤシマくんは少しの間考えていたが、つと、決断した顔つきになって素早く手を伸ばし、アタシの左手首を掴んだ。驚いて引っ込めようとしたものの、ヤシマくんの力の強さは圧倒的で、とても敵わない。諦めて脱力したアタシの左手の甲を、ヤシマくんはしげしげと検めた。そして、親指と人差し指をつないでいる、柔らかなカーブの部分に目を止めた。
アタシのそこには、小さな突起があった。イボとも腫れ物とも違う、カプセル状の小っちゃな膨らみだ。痛くも痒くもない。なんでもないけど、なんなのかわからないので、ときどき気になった。でも、ただそれだけのことだ。
アタシの左手の小っちゃな突起物を見つけたヤシマくんは、ホッとしたようにニヤついた。次いで、アタシのアイスブルーの瞳を覗き込んだ。
「まいったな。あのひととおんなじ目だな、キーラ」
「そうみたいね。もっと黒い目のほうがよかったと、思うこともあるけど」
「いや、その目は役に立つかもしれないぞ。マイクロチップもあったし、両方揃っていれば完璧だ。たぶんイケるだろう。なあキーラ、試してみるか?」
なにを?
マイクロチップって、なんのこと?
アタシにそれを訊く間も与えず、ヤシマくんは先に立ってどんどん階段を昇って行った。アタシとユリアとトミージェイが続いて、ぞろぞろと昇った。トルティーさんは一階から、心配そうに見上げていた。
階段は覚えていたよりもずっと、狭くて急勾配で一段の高さが半端なかった。二階の踊り場にたどり着いたときは、だいぶ息が切れた。立ち止まって深呼吸をすると、開け放された二階の部屋の戸口から、ヤシマくんとトルティーさんの生活臭が漂って来た。
アタシがこの家にいた頃から、二階はヤシマくんの部屋だった。ドアが閉まっていてもこの踊り場に立つと、アタシはヤシマくんの生活臭を感じたものだ。でも、いまはなにかが違った。おそらくストーブの暖気を入れるために、開け放されたドアの中から漂い来る生活臭には、トルティーさんが感じられた。そして、アタシは確信する。やっぱり、ふたりはカップルなのだ。
三階の踊り場に立ったときは、なにも感じられなかった。ピタリと閉ざされたドア、ホコリの積もった床板には、人や物が動いた痕跡がまったくない。それは、四階も同じだった。長い間だれも、ヤシマくんもトルティーさんも、ここまで昇ってきてはいないようだ。
明らかに違ったのは、四階のドアの造りだ。まさしく、堅牢そのものだった。アタシとユリアがテストを受けるために通った〈あっちの山のビル〉に、これと似たようなドアがあったのを思い出した。でもたぶん、堅牢さではあっちのドアより、こっちのほうが遥かに勝っていそうだ。
鍵やカードを差し込む穴どころか、ピッキングができそうな隙間も、いっさい見当たらないドアだった。ヤシマくんは頑丈そうなドアノブに手をかけ、力一杯引いて見せた。ドアは軋みもしなかった。それなのにヤシマくんは、当たり前のようにアタシに言った。
「キーラがやってみな。左手のマイクロチップを、ここに向けて」
ああ、そういうことなのか。
アタシはやっと腑に落ちた。知識として聞き知ってはいたし、映像を見たこともあった。マイクロチップを仕込んだ手を近づければ、それだけでクルマや家のドアロックを開閉できると、さらに便利なスマートライフをPRする映像だ。でもでも。まさか。いつの間にか自分の手に、マイクロチップが入っていたなんて、だれが思い及ぶだろう。しかもアタシはそのとき、まだ小さな子どもだったのだ。
十年の歳月の経過をものともせず、アタシの左手のマイクロチップと、四階のドアロックの読み取りシステムは、互いに正常な反応を示した。固い電子音とともにロックは解かれ、さっきはビクともしなかった堅牢なドアが、するりと開いた。
アタシたちの全員が、口々に歓声をあげた。振り向くと、背後にはトルティーさんもいた。その目にはだれよりも、熱い期待と興奮が溢れ、輝いている。ふと、アタシがいまここにいるこの成り行きは、トルティーさんの意向に沿った結果ではないか、という気がした。それほど、彼女は喜んでいるように見えた。
ハンナさんのお部屋。
懐かしさとよそよそしさに包まれて、ありありと思い浮かんだ光景。言いつけに背いてしまったときの後ろめたい気分。許しを得ずに足を踏み入れてから、大わらわで言い訳を考えたこと。ここへ来ると、ハンナさんにとっての自分というものが、どんなに卑小な存在であったかを、弥が上にも思い出してしまう。
そうだった。アタシという子は、いつでも歓迎される子どもじゃなかった。ハンナさんの許可を得たときだけ、受け入れてもらえる子だった。だから、四階までの階段はこんなに高くて険しい。小さな子どもがたったひとりでは、おいそれと昇って来られない階段だった。
室内はほどよく整い、片づいていた。引き出しや扉や小物入れのフタなどは、すべてきちんと閉じられている。開けっ放しや出しっ放しは、なかった。ハンナさんは余裕をもって身支度をし、出かけたことが窺い知れた。
クローゼットを開けてみると、冬物の衣類と靴がたくさん残っていた。高価そうなコートやブーツが目についた。ハンナさんが出発したのは夏の初め頃だった。だとしても、もう戻らないもりだったら、こんなにたくさんの冬物衣類を置いて行くだろうか。人前に出る機会の多い、バレエ界のスターが。腑に落ちなかった。しつっこい違和感が、ぶり返してきた。
ハンナさんのノートパソコンにいち早く気づいたのは、トミージェイだ。黒檀の化粧台の天板に、同系色のノートパソコンがひっそりと置かれてあったので、アタシはうっかり見落とすところだった。室温はおよそ十八度、空気は極めて乾燥していて、精密機器にとっては悪くない環境だった。
でも、なにしろ十年余り経っているのだから、不安だった。怖気づいたアタシに代わって、トミージェイはつかつかとノートパソコンに歩み寄り、じっくりと検分し、いくつかキーを叩いてみた後、請け合った。
「こいつ、生きてるよ。起こしてみるかい?」
もちろんだった。すると、トミージェイはアタシに、カメラレンズを覗き込むよう促した。このアイスブルーの瞳で、虹彩認証を試みようというのだ。まず右、それから左。ノートパソコンは忽ち反応し、開いた画面にメッセージが現れた。
〈ようこそ、キーラ・バルドーさん〉
ハンナさんのノートパソコンが、アタシにフルネームで呼びかけた。それも、日本語だった。アタシの身体中に、ピンと張りつめていた緊張が一気に解けた。反動で、立っていられないくらい、脱力してしまった。くずおれる間際に、ユリアが素早く支えてくれた。そして、耳元でささやいた。
「ねえ。ハンナさんはキーラを、棄てたりしなかったと思うよ、絶対に」
トミージェイは、ハンナさんのパソコンの中から、なにかしらの役立つ情報を探し出そうと奮闘している。なにしろ、ほとんどすべてのデータが、外国語(たぶんフランス語)で書かれてあるのだ。アタシにとって必要なものかどうか、見極めること自体が難しく、厄介だった。
ハンナさんのパソコンの中にびっしりと詰め込まれた、アルファベットとは違う外国文字に、アタシは手も足も出ない。脇からこっそりチラ見しても、目に入った単語はことごとく意味不明、読み方さえ見当もつかない。
そんなチンプンカンプンの難読文に向き合い、トミージェイは翻訳ソフトを駆使して、外国文字の奔流と格闘してくれる。ファイルを開いては、翻訳ソフトが書き上げた〈ナンチャッテ〉な日本語文を読みこなし、アタシに有用なものと、そうでないものとを、選り分けていく。
傍らではユリアが、トミージェイの指先と画面とを、熱心に見つめていた。一緒に日本語文を読み、ときおり意見を述べる。アタシにとってユリアの意見は、いつでも的確で有益だった。トミージェイにとっても、きっと的確で有益であるに違いない。
ヤシマくんとトルティーさんは肩を寄せ合い、固唾をのんでトミージェイの仕事ぶりを注目している。何ひとつ見逃すものか、とでも言い交わしたような真剣さだ。少しばかり、真剣過ぎるような気が、しないでもなかった。
アタシだけが待ちくたびれて、飽き飽きして、退屈だった。張本人の当事者だというのに。この現象、以前ユリアに言われたけど、やむを得ないことであるらしい。当事者だからこそ、緊張の極みに耐え切れず、心が逃避したがっている。そのせいで、じっとしていられないのだと。
耐え切れずにアタシは、ぶらぶらとハンナさんのお部屋の中を歩きまわる。飾り棚に並んだ、可愛い小物やフィギュアやアクセサリーを、端から順に見てゆく。そして、見つけた小さな写真立てを手に取り、目を凝らした。
大人の女性がふたり、その間に挟まれた小さな女の子。ピンク色のワンピースには、赤と青の水玉模様。見覚えのあるその模様が、小さな女の子はアタシだと教えてくれる。もっと目を凝らしても、その顔に馴染みはないけど。どうしてだか昔の自分の顔って、自分のものと思えないのが不思議だった。
左側にいる年配の女性はだれだろう。右側の少し若い女性は、スッピンだけどハンナさんだとわかる。やさしく微笑む二人の表情は、どことなく似ている。真ん中の小さなアタシでさえ、うれしそうに笑っていた。しかも、なかなか可愛らしく。仏頂面で不細工なキーラ。そうなる前には、こんな可愛らしいキーラがいたのだ。
小さな写真立ての中の古い写真は、ざわざわとアタシの心の中を掻き乱す
「あった。キーラ、こっち来て」
トミージェイの歓喜の声が、四階の室内に響き渡る。室温十八度、乾ききったハンナさんのお部屋で、興奮気味のアタシたちは肌寒さを忘れ、いまでは汗をかいている。
パソコンの画面には、びっしり引かれた罫線と数字の羅列があった。
「これなに?」
アタシはわけがわからない。ユリアがにやりとして言った。
「これは、キーラの預金口座よ」
「そんなもん、持ってないよ、知ってるでしょ」
「だからね。ハンナさんが作っておいてくれたのよ、キーラのために」
次いで、記された数字の意味を説明する前に、トミージェイが確認する。
「キーラ、キミは二〇一六年七月二十六日生まれだろ?」
「えっ?アタシ、自分の誕生日がいつか、知らないのよ」
「そうなのか?じゃあ、いま知ったね。ここにメモしてあるから確かだ」
信じられない思いで、アタシはその日付を見つめた。〈二〇一六年七月二十六日キーラ誕生〉。たしかに、そう記されてあった。
それじゃ、ユリアと同じ十五歳なのね。衝撃のあまり、ぼんやりしてしまったアタシに、トミージェイは構わずテキパキと説明を続けた。
「この口座は二〇一六年の八月、つまりキミが生まれた翌月に開設されたものだ。この出金欄に、端数のついた数字がズラっと並んでるだろ。大体月単位で、数万円程度の似たような数字が、繰り返し記録されてる。これは電気や水道や燃料なんかの料金で、口座から自動的に引かれてるんだ。つまり、この家で使われているインフラの維持費を、支払っている口座だということがわかる。
それを踏まえて見て行くと、この、年に四回引かれてる、一回五万円前後の数字は、どうやら固定資産税だな」
「コテイシサンゼイ、ってなに?」
「家や土地を持ってる人が、払うことになってる税金だよ。ねえヤシマさん」
「ああ、そうだな」
ヤシマくんはかなり憮然としていた。トルティーさんもソワソワして、なにやら落ち着きがなかった。しかし委細構わず、トミージェイは続けた。
「二〇一六年から十五年にわたって、滞りなく引き落とされてきた固定資産税が、二〇三一年の七月分からは引き落とされていませんね、ヤシマさん」
「まあ、そうだろうな」
「なんで引かれてないの?それって、マズいんじゃない?」
「かなりマズイよ。問題は税金だけじゃない、ほら、二〇三一年七月三十一日以降は、光熱費も引き落とされていない。なぜなら、残高が足りないから」
「わ。ホントだ。一万三百五十八円だって。これだけしかないの?ヤバッ」
「だよな。このピンチをどう乗り切るつもりだったのか、ヤシマさんに訊いてみよう。ねえ、七月以降は督促状とか、来てるんじゃないですか?」
トミージェイは、アタシの悲鳴をヤシマくんに振り向けた。言われてみれば、たしかにその通りだ。少なくとも十年以上、この家に住んでいたヤシマくんのほうが、アタシなんかよりずっと密接な当事者なのだ。
「ああ、図星だよ。たしかに光熱費と税金が未払いになってる通知は来たが、どうすればいいのかわからなかった。つまり、この口座のことを知らなかったんだ。
電気はソーラー発電をやってるから、夏の間はなんとか間に合った。水道料金は役場の出納へ、直に持っていった。税金も、三回目までは役場の税務課へ持って行ったんだが…」
「十二月中に払うべき四回目は、まだなんですね?」
「まあ、そういうことだ」
「ヤシマくん、なんで税金払わなかったの?」
「そりゃまあ、払えるものなら、払ったさ」
そこでコホンと、トミージェイが咳ばらいをした。
「有り体に言うとその訳は、ヤシマさんの給料も止まったから、ですよね?」
「いいや。そこは違う。もともとオレはあのひとから、給料なんてものを貰ったことはないんだ」
「全然?一度も?そもそもヤシマさんは、いつからこの家にいるんですか?」
トミージェイは目を剥き、ヤシマくんは肩をすくめた。
「二〇一六年の六月からだよ。最初の取り決めは、ごくシンプルだった。オレはこの家の管理人というか留守番役で、あのひとから連絡があったら、空港へ迎えに行く。滞在中は食事や身のまわりの世話をする。あのひとが出発すると言ったら、空港へ送って行くんだ。
その代わりに、オレはこの家の二階に住んでいる、家賃なしで。あのひとが気に入るように、怠りなく家の手入れをして、次の到着予定の連絡を待つ。その繰り返しだった」
「キーラは?いつからいつまで、いたんですか?」
ユリアがアタシに代わって訊いてくれた。
「九月頃だったかな、あのひとの指示通りに山の方へドライブした。あのひとは、田んぼの中にポカンと浮いてる寺みたいな建物へ、入って行った。出て来たときには、赤ん坊を抱いていた。〈わたしの赤ちゃん〉だと、あのひとは言ったよ、うれしそうに。
後にも先にも、あんなに魂消たことはなかった。だけど、オレになにができる?なんにも、できやしない。狭い農道から脱輪しないように、気を張ってクルマを走らせた。それだけで、精いっぱいだった。
赤ん坊のキーラを育てたのは、オレじゃないさ。それはムリってもんだ。二年間くらい、元看護師だというかなり年食った婆さんが、通いで来ていた。三年目頃から、オレが世話するようになった。その婆さんが年のせいで弱って、来られなくなったもんだから、まあ、やむを得ない成り行きだった」
「ヤシマくんは、LGBТQのGだって、アタシに言ったよね?」
「そうだったか?つまらないことを、覚えてるんだな」
「つまらなくなんかない。肝心要の大事なことだよ。ヤシマくんがGの人でなかったら、ハンナさんは留守番役を頼んだりしなかったと思う」
「どうかな。あのひとが言ったりやったりしたことは、どうしたって理解出来っこないさ。一旦はキーラをオレに預けておきながら、五年後には突然返して来いと言い出した。そして、自分は行ってしまって、それきりだ」
「だからアタシを、往生寺前の農道に棄てたの?」
「他にどうしようもなかった。アンタを生んだ代理母が、どこのだれかも知らなかったんだから。あのひとだって、あの寺みたいな場所しか知らないと言ってた。オレは、あのひとが望んだ通りのことをしただけだ」
「ねえ、ヤシマくん。もしかしたらアタシはあの農道で、カラスかトンビに攫われるか、頭の毛が黒か金茶のケモノに捕まるかして、あれきり育たなかったかもしれない。そんな可能性が、大いにあったと思わない?」
「かもな。しかしキーラ、どうやってか知らんが、結局アンタは生き延びたじゃないか。こんなふうに、すくすく育って十五歳になって、オレを探し当てて家に戻って来た。大したもんだよ、さすがはあのひとの子だ」
「ヤシマくん。ハンナさんはどこにいるの?」
「知るもんか。アンタこそ、母親譲りの脳ミソなりDNAなりをフルに使って、探してみたらどうなんだ。オレなんかを問い詰めてるより、よっぽど効率よく、あっさりと見つかるかも知れないぞ」
張りつめてグンと冷え込んだ場の空気を、まるく和らげたのはやっぱりトミージェイだった。
「なるほどね。ヤシマさんの立場は大体わかりましたよ。なあキーラ、ハンナさんの行方も気になるけど、いまはちょっと脇に置いて、もっと差し迫ったピンチを解決する手を、考えたほうがいいと思うけどね」
「ピンチって、なに?」
「カネのこと。支払い口座の残高が、足りないモンダイだよ。これを放っておいたら電気や水道が止まるし、税金滞納したらいずれ差し押さえになる」
「サシオサエって、なに?」
「この家を取られるって言うか、使えなくなるんだ。どのみち、電気と水が止まったら使えないし、家自体が冬を越せなくてダメになるかも知れない」
「わ。そんなの、最悪。どうすればいいの?」
「考えよう。あ、ヤシマさんも一蓮托生ですからね、マジで協力してくださいよ。まず、キーワードは七月だな。キーラの誕生月だ。二〇三一年、今年の七月に、キーラは十五歳になった。すると、それまで毎年七月三十一日に必ずあった、口座への入金が止まった。おそらく信託預金から振替られていた入金が、十五歳で終わったんだ。ねえ、ヤシマさん、なんか思い当たること、ないですか?」
「十五歳か?そういえば、あのひとが言ってた気がする。『キーラが十五歳になったら…』、なんだったかな。『自分で選べるように』だったか、『決められるように』だったか、そんなようなことを」
「この家に住み続けるかどうかを、十五歳になったキーラの意思で決める、という意味ですかね?」
「あるいは、十五歳になるまでは必要経費を出す、という意味かも。あのひとはよく言ってた、自分は十五歳の頃には自立して、プロとしてやってきたと。だから、十五歳はあのひとなりの、自立の基準だったのかも知らん」
アタシは思わず首を竦めた。穴があったら入りたい、というか、どこかに隠れてしまいたかった。アタシが自立だなんて、そんな無茶な。遥か遠く、何万光年も彼方の絵空事みたいだ。しかも。ハンナさんが自立してほしいと望んだ十五歳になってから、アタシはいまさらのように、この家に住もうとしている。
これって、最低なのかも。
アタシとヤシマくんとトミージェイが交わすやり取りを、ユリアはじっと聴いていた。聴きながらハンナさんの飾り棚に並んだ、ポートレートやスナップ写真を眺めている。思いついたことを、頭の中でメモしているようなまなざしで。なにか、言いたそうに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます