第15話 ハンナ・バルドーの行方は

 携帯端末が着信音を発している。

この端末、今日だけはあたしたち、あたしとキーラが持っているけれど、もともとはリツコさんが契約した、タニナカリツコ名義の携帯端末なのだ。だから、これが着信音を発したからって、あたしたちがビクつく謂われは、全然ないのに。


 わかっているけど、あたしたち、あたしもキーラも、同じタイミングで同じくらい、ビクリとさせられた。ちょっと滑稽なくらいに。携帯端末の着信音って、そんなふうにヒトを狼狽えさせる、不思議なチカラを持っている、と思う。


 発信者は〈ナウミー〉とあった。なるほど、というか、やっぱり。あたしとキーラのどちらが出るべきか、となれば当然あたしだと、キーラは指さす。段田南海市長は、あたしのランコさんなのだから、まあ、やむを得ないことだった。

「はい」

「あら。リッチーじゃないのね?あなた、ユリアちゃんでしょ?」

「そうですけど」

「ああ、そうね。どこだかの養豚場を見学に行くとか、聞いたわ。どこだっけ?もう着いたの?」

「ええと。サワタリ農場の見学はこれからです。ついさっき、お昼のホットサンドを食べたばかりで。たったいま、バスに乗ったところです」

「あら、そうなの。バスの行く先、確かめた?帰りの時刻表、あるよね?」

「大丈夫、です」

「ところで、なんで養豚場なの?」

「ええと。リツコさんから聞いてませんか?」

「美味しいベーコンがあるから買いに行くって、聞いたけど。あなた、そんなにベーコンが好きなの?」

「みんな好きですよ、キーラもリツコさんも」

「まあ、そうね。わたしも好きだわ。じゃあ、なるべく早く帰ってきてね」


 返答する間もなく、唐突に通話は途切れた。おそらく段田南海市長は執務室にいて、そこへ職員かだれかが入って来たのだろうと、あたしは思った。ともあれ、通話が終わってホッとした。携帯端末をつかんだ指が痺れ、手首も痛む。ずいぶん力んでいたらしい。なんだか、ひどく疲れた。


「いまのヒト、キミのオヤかなんか?」

 運転中のトミージェイが尋ねた。といっても、実際に運転しているのはクルマ自身で、トミージェイは運転席に座っているだけだ。そうして、楽しそうにニコニコしている。〈…バスに乗ったところです〉。思わず口をついて出た、あたしのアドリブが気に入ったみたいに。


「まあね。そんなようなヒト。なにを言いたかったんだか、わけわかんない」

「本人も、わかってないんじゃないの。なんか、浮世離れした感じだったし」

「どんなふうに?」

「カネ持ってるか?とか、寒くないか?とか、一回も訊かなかっただろ」

「ああ。そうね」


 トミージェイに言われて、あたしは初めて気づいた。おカネ。初冬の寒さ。フツーのオヤなら、そこが真っ先に気遣うべきポイントであるらしい。おカネを持ってるか。寒くはないのか。なるほど、そういうものなのね。


 なにしろ、いつだって公用車の中にいて、堅牢な公宅と市庁舎の間を往復している段田南海市長なのだ。街を行き交う人々が負担する交通費や、日毎増してゆく木枯らしの冷たさなど、気に留める機会もない日々を送っているのだろう。 

 だから、思いつかないんだわ。つい、忘れてしまうんでしょ。けどね、それもこれも、仕方のないことだよね。なんてつい、あたしは思ってしまう。


 トミージェイが自らカスタマイズしたと宣った愛車、〈ハイラックス&チェロキーピックアップ〉には、自動運転以上の機能を備えた端末が搭載されていた。それがたったいま、ひと仕事終えたと知らせる鳴き声をあげた。子猫がミャアと、甘えるような声の合図だった。


 きっとネコが好きなのね、わざわざこんな仕掛けをするなんて。トミージェイの、茶目っ気のあるところに、プラス1点。

 トミージェイは端末画面に素早く目を走らせ、一言二言短く問いかけた。ワイヤレスイヤホンでその返答を聴くと、キーラに向き直って言った。

「キミが探してるヤシマヨシユキって、このヒトかな?」


 トミージェイが掲げた画面には、あたしの知らない人物の顔が大写しになっていた。たぶん四十歳前後、脂肪の層が薄い筋肉質で、黒い口ひげを生やしている。けれど不思議に、男性的な印象を受けない顔だった。

 キーラは画面をじっと見つめていた。それから、らしくもない神妙な顔つきになって、こくんと、ひとつだけ頷いた。


 こんなに神妙に、保護されたばかりの子猫みたいに、もじもじしているキーラを見るのは珍しいことだった。キーラという子は、いつだって不機嫌で怒っている。十年ほど前に、初めて〈家〉に来たときも怒っていた。むっつりと仏頂面で、小さな子どもにあるまじき怒りっぷりだった。

 名前なんていうの?あたしが声をかけたら、キッと睨まれた。言葉が通じないのかと、一瞬、思ったくらいだ。


 なぜって、あたしを睨んだのは、あのアイスブルーの目だったから。その場にいた何人かの子どもたちは皆、キーラより大きかった。年齢はともかくとして、体格で勝っている子ばかり集まっていたのだ。


 それでも、あの子はひるまなかった。自分よりも大柄な子どもたちに、取り囲まれていたのに。見知らぬ〈家〉に放り込まれて、ひとりぼっちだったのに。泣かないどころか、怖がる素振りさえ見せなかった。


 すごい子だと思った。あたしはすっかり魅入られた。いったいどうやったら、こんなふうに強くなれるのだろう。その秘密を知りたかった。だから、睨まれてもキレたりしなかったのだ。それどころか、リツコさんに言いつけられた通りあの子の手を引いて、シャワー室へ連れて行ってあげた。


 あの子の小さな手のひらはベトベトして、生ゴミみたいな臭いがした。着ていたピンク色のワンピースには、赤と青のシャボン玉模様のほかに、茶色っぽいシミ汚れがいくつもついていた。もしかしたらこの服を、何日もの間着たきりだったんじゃないかしら。そんな気がした。それほどピンク色のワンピースは、服の中で大きくなろうとするあの子の身体を押さえつけ、ピチピチに絞めつけていた。


 シャワーから出て来たあの子に、あたしのタオルとロングTシャツを貸してあげた。少し色褪せていたけど、洗い立てのゆったりしたTシャツを着せたら、あの子はアイスブルーの目を輝かせ、初めてにっこり微笑んだ。そうして、ちょっぴりはにかみながら、自分の名前はキーラだと名乗ったのだ。


 キーラはいま、考え込んでいる。

 トミージェイの〈ハイラックス&チェロキーピックアップ〉に搭載された有能な端末は、ほどなく、ヤシマヨシユキの居場所も突き止めた。そしてその場所は、高速道路の上り線を走行する〈ハイラックス&チェロキーピックアップ〉の進路から、そう大きく外れていなかった。


 全然近いよ。そう言ったトミージェイは、例によってカッコつけ過ぎでビッグマウス気味だ。オレのハイ&チェのパワーで走れば、すぐ行ってすぐ帰れるさ、暗くなる前に。その気持ちはありがたいけど、なんかムリっぽくて、ちょっと痛い。なので、マイナス0.5点。


 で、どうすんの?

 トミージェイは、迷っているキーラに返事を促した。彼なりにめいっぱい、それとなく軽い調子だった。でも、右ハンドルの運転席に座った右脚の膝から下を、細かく上下に揺すっている。それが止まらない。これ、ビンボー揺すりっていうヤツじゃないかしら。止めてほしいと、あたしは思う。


 もしかすると、トミージェイはものすごくせっかちな性格で、ちょっとの時間でも待たされるということが、苦手なのかもしれない。でも、もしかするとトミージェイには、あたしたち、とりわけキーラがヤシマヨシユキの居場所を知りたい気持ち、そこへ行きたい気持ち、行くのが怖い気持ちを、どうしたってわかりっこないヒトなのかも知れない。


「ねえ、トミージェイ?」

 あたしは言った。

「もし、都合が悪いんなら、あたしたち、バスで行ってもいいんだけど」

 トミージェイは運転席のシートから跳びあがった。ホントに五センチくらい、お尻が浮いたように見えた。

「なんで?オレ、ハイ&チェに乗せてどこでも連れて行く、って言ったろ?そっちだって、乗って行くって言ったろ。一回決まったことなのにさ、なんで変えたくなったのさ?」

「そうじゃなくて。ほかに用事があるのかな、あるんだったら悪いな、って思っただけ。クルマで送ってもらえるのは、すごく助かるよ、ね、キーラ?」

「うん。バスよりずっといい。ごめんね、トミージェイ」

「なにが?」

「アタシ、グズだから。ユリアに怒らないで。ユリアのせいじゃないから。これ全部、アタシのモンダイなのに、ユリアは付き合ってくれてるんだから」

「いいよ、べつに。怒ってなんかないさ。オレはね、ハイ&チェでドライブ出来ればいいの。どこだって行くし、理由なんかなんだって、全然OKだよ」


 そう言ったとき、トミージェイの右脚は、ビンボー揺すりをぴたりと止めていた。キーラのほうは、端末の画面いっぱいに拡大したヤシマヨシユキの顔を、矯めつ眇めつ眺めやっている。その顔の上で、およそ十年分の歳月を、加えたり差し引いたり、繰り返しているようだった。キーラなりに、納得がいくまで。


 ほどなく、心が決まったキーラは、トミージェイに頼んだ。

「ヤシマくんがいるところへ、連れて行ってくれる?」

 こんな殊勝な言い方をするキーラを、あたしは初めて見た。

「もち、OKだよ。けどさ、場所が場所だからさ、アポ取ったほうがいいかもな。ちょいと、準備が要るよな。作戦、練ってから行こうぜ」


 なんでもないことのように、軽い調子でトミージェイは言ってのけた。でも、ふざけたり法螺を吹いたりしてる感じは、ないのだった。案外、思いやりってものを知ってる人なのかも知れない。だといいな。希望を込めて、プラス2点。さっきのマイナス0.5点は、もちろん、帳消しにして。


 べつに、奇襲をかけて不意討ちしたり、脅してさらったりしたいわけじゃないよ。作戦会議と称した打ち合わせで、キーラはトミージェイに念を押した。アタシたち、ヤシマヨシユキに対して、暴力的なアクションは決してしない。そんなのは目的じゃない。アニメやゲームみたいに派手なバトルは、一切ナシだからね。


 どのみち、いきなり押しかけたって、追い返されちゃう可能性が大、それじゃなんにもならない。なにしろ相手は筋肉フェチのデカい大人で格闘技マニアだもの、敵いっこないし。へ?トミージェイの大口は、やっぱり閉じたままではいられなかった。  


 それってつまり、相手が筋肉バキバキのデカい大人で格闘技好きだとしても、勝てる見込みがありそうだったら、やってやるってことになる?けれどもキーラは乗せられず、きっぱりと首を振る。 


 いいえ、そんなふうにはならない。アタシはただ、五歳のときに起こったことが思い出せなくて、でも、どうにかして思い出したいから、ヤシマくんに手伝ってもらいたいだけ。ただそのために、会いに行くんだからね。

 どうかそのことを、忘れないで。


 あたしたち、あたしとキーラは、この街で生まれ育った。段田南海市長が、四期十六年間に渡って市政を運営してきた街だ。揶揄を込めて、〈ダンダシティ〉と呼んだメディアもあった。段田南海市長が比較的若く、相対的に絵になる美形を保った女性でありながら、時に強権的なリーダーシップを発揮しては、メディアに話題を提供してきたからだった。


 そうして、ついに今年は十六年目、来春には任期が終わる。段田南海市長は、市長でなくなるのだ。次は当然、国政にチャレンジするものと、大方の人々が予想しているようだった。言葉の端々から、リツコさんもそう考えていることが窺い知れた。


 でも。あたしはふっと、思ったのだ。そうじゃないかもしれない、と。あたしの勝手な希望的観測にすぎないけど。十六年も市長を務めた段田南海市長は、十七年目からの人生を、まったく違ったものに変えようとするかもしれない。違った色合いで、違った風景を描こうとするかもしれない。例えば生まれ育った両親の家で、盟友のリツコさんと、十五歳を過ぎたあたしと。

 まるで、夢のようなハナシ、なのかもしれないけど。


 トミージェイのハイ&チェに便乗して、あたしたち、あたしとキーラは〈ダンダシティ〉の中心部へと乗り入れる。実は、郊外の山間で育ったあたしたちは、都心部の街並みにあまり馴染みがなかった。この前ここを通ったのは、いつだったろう。何年も前だった気がする。だからいま、クリスタルな輝きに満ちたストライプ柄のビルが、迷路を仕切る壁のように建ち並んだ風景に、心底、魂消ていた。


 ねえ。あたしはキーラにささやきかけた。いつからこんなふうになったの?この街。キーラも目を丸くしてささやき返した。なんか違うね、知らない街だよね、べつの惑星みたいな感じする。


 ささやき合うあたしたちの間に、トミージェイの大口が割って入った。あのさ、コソコソしゃべるのヤメてくれよ。オレたち三人いるだろ、なんか言うんなら、もっとデカい声出して、みんなに聞こえるように言いなよ、な?


 もっともだった。いまハイ&チェに乗っている、あたしたちは三人いて、あたしとキーラだけじゃなかった。あたしもキーラも、つい、あたしたちを二人だけで括ってしまう癖がついている。気をつけなくちゃ。トミージェイはいまや、あたしたちのキーパーソンなのだから。


 不意打ちはフェアじゃない、なんて言ったくせにキーラは、ヤシマヨシユキにアポ電を架ける段になって、渋った。だって。キーラの言い分はこうだ。だれかに電話を架けるなんて、アタシ、一度もしたことがないから。


 ウッソだろ?トミージェイは、さっそく反応した。電話架けたことがないって、チビッ子じゃあるまいし、そんなのアリかよ?アレ?トミージェイは、あたしを振り返る。もしかしてユリアも、電話したことないとか、言うわけ?


 いいえ。一度もないとは言えないわ、辛うじてね。あたしたち二人のうち、あたしはリツコさんと連絡を取り合う係だったから、そうする必要があるときには。あと、〈家〉の固定電話に架かって来た、セールス電話に応答したくらいで、自分からすすんで、だれかに架けたことはないのだ。

 あたしだって、キーラと似たり寄ったりだけど、リツコさんの口真似をして、マナーに則ったアポ電を架けることは、ひょっとしたら出来るかもしれない。


 やってみたら、出来た。

 あたしは名乗り、仕事場にいるというヤシマヨシユキに邪魔することを詫びた上で、キーラを覚えているかと尋ねた。

「キーラだって?生きて…いや、元気でいるのかい?」

「生きていますよ。元気です。いま、代わりますね」


 コトバを選んで言い直したのは気になったが、ヤシマヨシユキの声音に、ネガティブな響きは感じとれなかった。驚き。懐かしさ。それと、興味津々。

「ヤシマくん」

 代わったキーラがよびかけると、ヤシマヨシユキは幾分カン高く、弾んだ声でたたみかけた。 


「やあ、キーラ。何歳になったの?身長は伸びたかい?」

 キーラは、ごくごくコトバ少なに答えた。

「ええと。たぶん、十四。あんまり伸びてない。チビのまんま」

「そうなのか?でも大丈夫、きっと、これからスラっと伸びるさ」

「あのひとみたいに?」

「ああ、そうだ。あのひとみたいに」


 思いがけないことが起こった。そこで突然キーラが、ハミングを始めたのだ。うろ覚えで切れ切れの歌詞を、繋ぎとめるための〈フムフム〉でたどったメロディ。いつかどこかで、聴いた覚えがある。昔々のビッグヒットソング、ビートルズの曲じゃなかったかしら。けれども、歌詞が違うような。


「ヘイキーラ、なにもしんぱいしなくていいよ、あのひとはきっとかえってくるから、だいじょうぶ、ぼくといっしょにまっていよう…」

「おいおい。参ったなー。そんなもん、覚えていたのかい?」

「うん。覚えてる。あのひとを待ってるときに、ヤシマくんが歌ってくれたから。アタシずっと、ひとりで歌っていたんだよ、忘れないように」

「ああ。そうか。あのひとのことを、訊きたいのかい?」

「うん」

「オレはもう、あのひとに雇われてないから、あんまり知らないんだよ」

「それでも、アタシよりは、知ってるよね?」

「まあ、そうかも知らんが…」


 ヤシマヨシユキは、ポキリと折れた。拍子抜けしたくらい、あっさりと。道順と駐車場所を訊くために、携帯端末はトミージェイの手に渡された。生まれて初めての通話を、それも旧知のヤシマヨシユキと交わしたキーラは、興奮冷めやらぬ様子であたしに抱きついた。できたできたできちゃった、とつぶやきながら。あたしも、まったく同じ、うれしい気持ちだった。


 ヤシマヨシユキの仕事場は、意外なところにあった。トミージェイのハイ&チェは、都心部の一等地と呼ばれる地域に乗り入れてゆく。選りにもよって、そのど真ん中に聳え立つ、超高層ビルに向かって突進する。


 地下駐車場の入り口前で、最初のゲートが開いた。地下三階の業者用駐車スペース前にも、また別のゲートがあった。ヤシマヨシユキから携帯端末に送られたナビに従い、あたしたち三人はハイ&チェから降り立つ。スポットライト型のセキュリティチェックを受け、ぞろぞろと移動し、スタッフ用のエレベーターに乗り込んだ。


 そうしてたどり着いた屋上庭園に、ヤシマヨシユキはいた。ハイ&チェの検索エンジンが探し当てた画像と比べたら、印象は違うが確かに同じ人物だ。画像では、イケメンぶりを前面に押し出し、あたかも面接用にメイクアップを施されたような笑顔だった。それがいま、屋上庭園で仕事中のヤシマヨシユキの顔面は、容赦なく降り注ぐ陽射しと吹き抜ける寒風にさらされ、赤黒くひび割れて、精悍そのものだった。


 そこは、広々として豪奢な屋上庭園のはずだが、なにしろ季節は冬が始まったところだ。大方の草木は、今年の生命を終えて枝葉を枯らし、脱ぎ捨て、イミテーションの地面を覆っていた。やがてはその上に、雪が降り積もる。決して少なくない積雪は、なかなか厄介なものだ。それが積もって固く凍りつく前に、落ちた枝葉を取り除かなくてはならない。


 ヤシマヨシユキはあたしたちに、今日為すべき仕事の内容を説いて聞かせた。枯葉を脱ぎ捨てたバラやアジサイやドウダンツツジの枝も、枯れない常緑樹であるマサキやコニファーやイチイの枝も、等しく丁寧に冬囲いをしてやらなくちゃならない。そうしなければ、雪の重さに押しつぶされ、来年の春が訪れるときまで、生き伸びられない破目になる。


 ヤシマヨシユキが熱心に語る、草木に関するウンチクを聞かされるうちに、あたしはだんだんと腑に落ちてきた。つまり彼は、よっぽど退屈していたのだ。あたしたちは本来、セキュリティチェックの厳しいこの超高層ビルの屋上庭園に、入れてもらえるはずのない者たちだ。門前払いされてもやむなしの訪問者なのに、思いがけず、こうして招き入れられた。


 それもこれも何故かといえば、初冬の寒風吹き荒ぶ超高層ビルの天辺で、たったひとり黙々と冬囲い作業を続けるヤシマヨシユキが、寂しさと人恋しさに囚われたからなのだ。本来がネアカでお喋り好きらしいこの人物の、話し相手がほしい気分は、ちょうどピークに達していたのだろう。


 そこへ、キーラが現れた。かつて小さな子どもだった頃、親代わりになって世話をした女の子だ。懐かしさのあまり、ついつい語りかけたくなった。共通の思い出もある。キーラが知りたがっていた、出来事の細部と時系列とオトナの事情も、きっとヤシマヨシユキの記憶の中にあるのだろう。


 二人の会話が聴こえてくる。ヤシマヨシユキは、ギザギザの尖った葉っぱをまだ落とさずに、たっぷりと纏っているヒイラギの若木を支柱で囲む。細口の荒縄をぐるぐると巻きつけたり結んだり、繰り返して固定する。その手を休めることなく、キーラの問いかけにも答える。


「…ハンナさんは、帰ってきたの?」

「いいや。あれきり帰ってないよ、一回も」

「きっと帰ってくるって、ヤシマくん、言ったよね?」

「それは、もっと前のことだよ。あのときは、言ってない。帰るかどうか、オレにもわからなかったからね。あのひとは、はっきり言わなかったんだ」

「でもね。いつもはおうちの玄関で、ハンナさんとバイバイしたのに。あのときだけ、三人で一緒に、クルマに乗って行ったよね、どうして?」


 ヤシマヨシユキは一瞬ギョッとして、日焼けした頬が激しく引き攣ったように、あたしには見えた。トミージェイの横目も眉を吊り上げ、同じものを見たとあたしに告げていた。

「どうだったかな。ああ、そうだ。キーラが飛行機を近くで見たいって言ったから、空港までドライブすることに、なったんじゃないかな」

「そうだったの?でもアタシ、空港で飛行機を見た気は、全然しないよ。遠くの空を飛んでる飛行機なら、何回も見たけど」

「よく覚えてるんだなあ、そんな、細かいことまで」

「うん、覚えてるよ。イヤになっちゃうくらい」

「オレのほうは、あんまりよく、思い出せないな。トシも取ったし、もともとが、キーラみたいに血統のいいアタマじゃないし」


「血統がいいって、ハンナさんのこと?」

「すっごくいいって、聞いたことがあるから、きっとそうなんだろ」

「あのね、アタシ覚えてるんだ。パーキングエリアのフードコートで、メロンソーダを飲んだの、バニラアイスがのってるやつ」

「ああ。ソーダフロートだろ。ミドリ色のやつが、好きだったよな」

「最初にバニラアイスを半分食べて、あとの半分はメロンソーダと混ぜて飲んだの、いつもしていたように」

「へえ」

「スプーンでくるくる混ぜてから、ストローで飲んだけど、わりと大っきなグラスだったから、きれいに飲みきるまで、けっこう時間かかった」

「ああ」

「フードコートは人が大勢いて、すごく混んでたから、ハンナさんとヤシマくんがいなくなったこと、すぐにはわからなかった。メロンソーダのグラスが空っぽになって、テーブルの向こう側の席を見たら、知らない人たちが座ってたの」


 ヤシマヨシユキは、すぐに返事をしなかった。考え込んだ様子で、緑色を保ってはいるけどギザギザに尖った葉っぱの姿が剣呑な、ヒイラギの冬囲いを仕上げた。

 その後、枯れたアジサイの前に立つ。枯れてはいても、何本もの太い棘のような枝が、寄り集まって力強く天を指している。その先端の所々に、ハンドボールほどの枯れた花が、丸い形のままで残っていた。これもまた、剣呑な眺めだった。

 どこから手をつけようかと、戸惑っている風情で、ヤシマヨシユキは立ち竦んだ。頭と身体の連動が、瞬間的に途切れてしまったようだった。


「なあキーラ。そんな古いハナシを持ち出して、いまさらどうする気だ?」

「どうもしないよ。ただ、知りたいだけ。ねえ、アタシを捨てていこうって、決めたのはハンナさんだったの?」

「そうだ。なんだって、あのひとが決めたことさ、ボスだったんだから」

「ハンナさんは、フランス行きの飛行機に、乗って行ったの?」

「あー、たぶんな。空港の入り口で降ろしてやったから、オレは飛行機に乗ったところを、見たわけじゃないけど」

「ヤシマくんは、それからどうしたの?」

「オレ?オレがどうしたって、なんのことだ?」

「ハンナさんのクルマで、どこへ帰ったの?」

「そりゃ、ハンナさんの、あの家だよ」

「すぐに?ひとりで?」


 ヤシマヨシユキとキーラは、そこで真正面から見つめ合った。にらめっこをしていると言った方が、むしろ相応しい様相だった。

「参ったな。覚えてるのか?」

「なんとなく、だけど」

「なるほどね。〈プリンター並みの記憶力〉があるんだとか、あのひとも言ってたよ。キーラは小さくても、そっくり受け継いでいたんだな」

「うん。そうみたい。ヤシマくんはあの日、フードコートへ戻ってきて、アタシを探したんでしょ?」

「そうだ。探した。そして、見つけてやっただろ」

「でも、アタシはおうちに帰らなかった、あれきりずっと帰ってない、どうして?」


 ヤシマヨシユキの手もとから、ハンドボールのように大きなアジサイの枯れ花が、ボトリと落ちた。不気味な落ち方のせいか、べつに珍しくもない枯れ花が、奇怪な物体のように見えてハッとした。ヤシマヨシユキも、足もとに転がったアジサイの枯れ花を、じっと見つめて呻いた。


「キーラは、あのひとの家に帰りたかったのか?」

「そうでもないけど。言ったでしょ、ただ知りたいだけ。ヤシマくんがアタシを、フードコートからどこへ連れて行ったのか」

「どこって、言いようがないな、ただの山だよ、国道をずっと行った先にあったけど、場所も名前も覚えてない」

「山の、どんなところ?」


「なんとかいう、寺みたいなところだった。子どもが大勢集まってるらしいと、クチコミで聞いたからさ、その、もうひとりくらい…」

「捨てていっても、拾ってくれるだろうと、思ったの?」

「そう、だったかな。だけどキーラ、結局正解だっただろ?十年後のいま、ちゃんと人並みに育って、オレに会いに来れたんだからさ。しかしなあ、一体どうやってオレを見つけたんだ?」

「トミージェイが、探してくれたんだよ」

 

「ていうか、オレんちのAIがね」

 そこで、タイミングよく口をはさんだトミージェイを、ヤシマヨシユキは感心したように、見遣った。

「それってつまり、あの記事を見つけたってことかい?フランス語版の」

「まあね。あの当時のヤシマさんは、なかなかの有名人だった、フランス語版では。なぜか国内ニュースでは、大きく扱われなかったけど」

「そりゃそうだ。ハンナ・バルドーの知名度は欧米じゃバツグンだけど、日本ではイマイチだったからな。だからこそあのひとは、この国で休養することを好んだのさ」

「ハンナさんはフランス行きの飛行機に乗ったはずだが、その場面を見てはいないと、あなたは証言した。ついさっき、キーラに言ったのと同じ内容だね。ハンナさんの搭乗記録は確かにあった。フランスの空港には、それらしき女性がスーツケースを受け取り、立ち去る不鮮明な映像も残っていた…」

 トミージェイは、そこで幾分思わせぶりなタメを入れた。


「その女性の姿カタチが、モンダイだった。現役のプリマドンナであるハンナ・バルドーのプロポーションと比べたら、段違いのずんぐりむっくりに見えたからだ。大いに不自然だとか、いやそうでもないとか、ちょっとした論争を引き起こした。


 防犯カメラの性能や年式や消耗度合いまでが、さまざまに取りざたされた。ハンナさんと共演する予定だったバレリーナたちは、口々に、あれはハンナじゃないと言いたてた。数週間にも渡って、タブロイド紙を賑わせる話題になったんだ」


 ヤシマヨシユキは、トミージェイの長広舌を遮ろうとしなかった。それどころか、むしろ懐かしそうに、あるいは出来事を確認するように、ふんふんと頷きながら聞き入り、先を促した。


「ヤシマさんは当初、ハンナさんを最後に目撃した日本人として、注目を集めた。フランス語版のタブロイド紙ではね。けれども、ヤシマさんの証言はブレも揺るぎもせず、一貫していた。取り付くシマもなかった。タブロイド紙はじきにヤシマさんを忘れた、どうやらフランスと日本の間は、いろんな意味あいで遠すぎたようだった。

 日本の捜査当局は、記事の中に登場していなかった。実際に、事情を訊かれたりとか、警察からのコンタクトは、なかったんだろうか?」


 ヤシマヨシユキは、夢から醒めたように言った。

「いや、一回だけ刑事が訪ねてきたので、オレが知ってることを話した。ハンナさんの家に住んで、ハンナさんのBМWに乗ってるのは、留守番を頼まれたからだと説明した。あのひとから連絡があれば、いつでも空港へ迎えに行く、それがオレの役目なんだと」

「でも、連絡はなかった」

「ああ」

「十年後のいまも、ハンナ・バルドーは行方不明のまま、なんだね?」

「ああ。そうだ」


 あたしたち、あたしもキーラも、じっとしているのが辛くなっていた。イミテーション地面の冷たさが、じわりと足もとから這い上ってくる。キーラはつまらなそうに足踏みをしながら、トミージェイとヤシマヨシユキのやり取りを聴いていた。つまらなそうに。もちろん、そんなはずはなかった。キーラという子は、集中しているときほど、つまらなそうに見えるのだ。


 ヤシマヨシユキの話を聴き、考え込みながら足踏みしていたキーラは、落ちたアジサイの枯れ花を蹴り飛ばした。ハンドボールほどの枯れ花は、思わぬ勢いでヤシマヨシユキのゴム長靴に当たった。ギョッとして枯れ花を蹴り返したヤシマヨシユキの素早い反応が、あたしの目を引いた。なんというか、過剰に素早すぎる気がしたのだ。


 ヤシマヨシユキをまっすぐ見据えて、キーラは言った。

「アタシ、おうちに帰りたい。今日、帰れる?」









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