第13話 YKセンセイの若気の至り

 空港近辺の道の駅を目指して、都市間長距離バスに揺られていたとき、キーラが突然言い出した。

「ワカゲノイタリって、どういうこと?」

 いつになく神妙な顔つきをして、赤ちゃん返りしたように寄る辺なく心細げな様子で、ちょっとばかりハッとさせられた。だけどそんな古い言葉の意味、あたしにだってよくわからない。いつかどこかで聞いたような気はするし、なんとなくの感じはつかめるけど、きちんと説明できるほどじゃないのだ。


 検索すればすぐわかるのに。思ったけど、なんだか言いにくい。もしかするとそれは、昨日キーラがくれた一万円札のせいかも知れなかった。YKセンセイからもらったという、二枚の一万円札を見せてくれたキーラは、多色刷りの緻密な紋様がキラキラと輝くその一枚を、惜しげもなく、ユリアにあげると言って差し出した。


 くれちゃっていいの?思わず訊いたら、だって二人分のバス代だもん、二人で一枚ずつ持ってたほうがいいでしょ。さらりと言ったそのときにも、キーラはこんなふうに、寄る辺なく心細げな様子だった。


 なんとなくじゃない正しい意味を、きちんと説明してあげなくちゃ。あたしはリツコさんが持たせてくれた携帯端末を取り出し、検索をかけた。あたしとキーラは、自分だけの携帯を持っていない。おカネがないせいでもあるけど、それ以上に、コセキとかいうIDを持っていないことが、決定的にマズイらしかった。でも本当のところ、あたしたちにはよくわかっていない。コセキがないせいで困ったことなんて、いままでは特になかったから。


 たとえば今日のように、あたしたちがリツコさんと別行動をするとき、リツコさんは自分名義の携帯端末を持たせてくれた。つまり、たった一台の携帯端末を、三人で共有している。だからあたしたちの間には、秘密なんてありっこないし、それでけっこう間に合っていたのだ。


 あたしはちょっぴりかしこまって、検索結果を読み上げた。

「若気の至りとは…若さにまかせて分別のない、軽率な行動をとってしまうこと、その結果としての失敗や、恥ずべき行いを指す、だって」

「シッパイ?ハズベキ、オコナイ?」

「あのね、あたしが言ったんじゃないよ。どっかのエライ先生が辞書用に書いた文を、読んだだけ」

「そんなこと、わかってる」


 怒気を含んだキーラの表情は、あたしにYKセンセイの顔を連想させた。YKセンセイの怒った顔は知らないけど、真剣な表情ならたっぷり見た。М山市民スキー場で会ったYKセンセイは、終始、真剣そのものだったから。


 そしてこの会話の発端にあるのは、キーラの精子提供者であり、あたしが心惹かれてやまないYKセンセイに違いない、と直感していた。

「こんなの、よくある決まり文句だよ。みんなに当て嵌まるわけじゃないんだから、いちいち気にしなくてもいいの」

 言ってあげると、キーラはまた、ぷいとそっぽを向いた。

「それだって、ちゃんとわかってる。気にしてなんか、ないもん」


 キーラは、ポーチからサングラスを取り出して架けた。それはもちろん、М山市民スキー場で会ったとき、YKセンセイが架けていたサングラスだ。ほとんど略奪的なおねだりの成果として、キーラのものになったサングラス、これを架けたYKセンセイは、いつも以上に一段とステキだった。内心ではニヤついているけど、あたしは澄まし顔をつくって訊いた。


「ほかにもなんかあったの?YKセンセイについて、わかったこと」

 当てずっぽうだったのに、キーラは意外と素直にコクンと頷いた。

「いわゆる、ドーキってヤツかな」

「YKセンセイの動機、ってことね?」


 あたしはすばやくバスの車内を見まわした。最後部のシートに座ったあたしたちには、およそ十数人ほどの乗客の後頭部が見えた。だれもこちらを振り向いたりしていないし、あたしたちの話し声が聞こえている様子もない。それでも人聞きを憚る単語の部分では、念のためにグッと声をひそめた。

「…提供者になった理由を、おしえてもらったんだね?」


 十五年余り前のYKセンセイは、海外留学を終えて帰国したばかりの若き研究者で、まだどこにも所属しておらず、だれからもセンセイとは呼ばれていない身だった。一部のメディアで取り上げられて好評価を得た論文を携え、ひたすら就活に励む日々を送っていた。


 しかし結果は捗々しくなく、心が折れそうな敗北感に苛まれていたとき、その論文を興味深く読ませてもらったと、国政の重鎮ATから声がかかった。あまりに思いがけなく、且つタイムリーなそのひと言で、若きYKセンセイはあっという間に捕まれた。重鎮ATの提案であるなら、それは神の言葉にも等しく、無条件で受け入れる準備が整った。


 そして聞かされたのは、まさに夢のような提案だった。若く美しく才気に満ちた女性たちの内のだれかに(選択権はなかったが)、自分の精子を提供するだけ(ある意味残念なことに)、ただそれだけでいいのだった。


 その後、若きYKセンセイは、中堅どころの大学に研究職として採用された。あれほど困難だった就活が、呆気なく実現したのだった。あまりの呆気なさに訝りながらも、重鎮ATに対して謝意を伝えようとすると、老人はうるさそうに、虫でも追い払うような手つきをして、言い放った。

「まあ、せいぜい気張って、エライ先生になっときなされ…ないようにさ」


 聴き取れなかった「…」の部分を、若きYKセンセイは些かも気に留めず、その後の数年間を過ごした。多忙だったし、〈せいぜい気張って〉いるだけで精一杯だったのだ。少なくとも当初は、まったく意識にのぼらなかった。


 その空白部分はあるとき不意に、心の表層に浮かび上がった。なんのキッカケも脈絡もなく、記憶の深層からひょいと現れ出た。折しもYKセンセイは、重鎮ATが言うところの〈エライ先生〉になりつつあった。


 それがキーワードだったのかも知れない。或いは、まったく関わりなかったかも知れない。いずれにしてもそれ以来、ふと気づけば〈…〉の空白部分に、当て嵌まる言葉を探していた。いついかなるときにも、そうせずにはいられない自分がいると気づいた。


 およそ十五年を経た今になって、思いがけず段田南海市長から接触があり、〈どこのだれかは知らないがそれなりに価値あるはずの女性〉に提供した、自分の精子によって生まれた子、キーラとの面会を打診されたとき、YKセンセイは大いに驚き、焦った。言うなれば、浅瀬なので安全と油断していたら、不意の大波に足元をすくわれ、流されかかったような気分だ。当然のこと、どうやったら逃げを打てるか拒絶できるかと、反射的に考えた。


 あの子は知りたがっているのですよ。段田南海市長は極めて簡潔に告げた。あなたという人を見せてやって頂けませんか。口調はあくまで柔らかく、慇懃でありながら、その声は揺るぎない威厳に満ちて、YKセンセイを揺さぶった。あなたを知ればあの子はきっと喜んで、自信を持てると思うのですよ、自分というものに。


 知ったことか。

 YKセンセイの本音は、その一語に尽きた。事ここに至ってなんたる言い草かと、怒りも覚えた。しかし同時にふっと、例の空白部分に当て嵌めるべき言葉が浮かんできたのだった。

〈がっかりされないようにさ〉。


 それはこの企みの張本人であった重鎮ATが、いかにも言ってのけそうなセリフだった。実際、YKセンセイの頭の中では、重鎮ATのしわがれ声がガラガラと鳴り響いた。まるで、本当にその声を聴いたのだったかと、錯覚するほどだった。


 かつて、精子を提供したときの自分は、まだ何者でもなかった。YKセンセイはつと立ち止まり、自己評価を試みた。しかしながらいまはこうして、専門分野ではひとかどの著名人となった。自分の研究内容は知らなくても、テレビ画面で語る自分の顔を記憶している国民は、決して少なくないはずだ。


 YKセンセイはキーラという子どもに、そのことを知ってほしいと望んだ。がっかりされないどころか、自慢に思ってもらいたいと欲した。どうにも説明のしようがない、突発的で不可解な衝動だった。

 その勢いで、М山市民スキー場での面会を提案したのだった。思えばそれも、カッコいい自分を見せたかったからだが、その甲斐は充分にあった。


 その場面を、あたしも見ていたのだ。

 キーラがYKセンセイを見上げたまなざし。アイスブルーの目を眩しそうに細め、それでいて食い入るような熱心さで見つめる、あのまなざし。憧れと喜びと誇らしさが、溢れそうだった。


 あのとき、あたしは気づいたのだ。

 キーラのアイスブルーに輝く瞳は、ハンナさんから受け継いだものだ。その印象はあまりに強烈なので、だれもがキーラとハンナさんはよく似ていると思い、アイスブルーに引き込まれる。あたしだって、ハンナさんのバレエ公演のポスター写真を見たときは、真っ先にそう思った。


 でも、М山市民スキー場で、YKセンセイと並んだキーラを見たら、その印象はすっかり変わった。180度ひっくり返った。二人の顔立ちの輪郭はよく似ていて、特に額の線がそっくりだった。YKセンセイの輪郭から、ひげ剃り跡や厳つさといった男性的な要素を取り去り、ひとまわり小さくすればキーラの顔になった。


 二人の子ども時代の顔は、きっと見分けがつかないくらい、よく似ているだろう。出来ればYKセンセイの子どもの頃の写真を見たいと、あたしは思っている。きっと、とっても可愛いだろうから。でも、キーラにそんなものはないと、あたしは知っている。あたしたち、あたしもキーラも、子ども時代を記念する写真なんて、一枚も持っていないのだ。


〈ボクに会って、がっかりしなかったかい?〉

 YKセンセイから軽いノリで訊かれたので、キーラも軽く答えた。

〈してないよ、がっかりなんて、一ミリも〉

 そうしたらYKセンセイは、照れ隠しのようにニヤつきながら頭を掻いて、例の慣用句を口にしたのだった。


〈ワカゲノイタリ、だったんだけどな〉

 それは、ないよね。あたしは言わずにいられなかった。うん、あれはない。キーラも共感した。あたしたち、あたしとキーラは、それぞれの幻滅と怒りを持て余し、黙り込んだ。都市間長距離バス内の、あたしたちを取り巻く空気が重く、息苦しく沈んだ。

 

 そのとき、携帯端末の着信音が鳴った。あまりに思いがけなかったので、その音はふだんよりも高らかに鳴り響いて聴こえた。あたしたち、あたしとキーラは同時にハッとして、互いに顔を見合わせた。ディスプレイに表示されているのは、見たこともない電話番号だ。

 

 あたしたちは互いに目顔で尋ね合い、その番号を知らないと確かめ合った。そもそも、自分だけの端末を持っていないあたしたちが、〈知っている電話番号〉なんて、ないも同然なのだった。どうしたものか、決めかねているあたしに、キーラは手ぶりで受信するよう促した。

「出てもいいと、思うの?」

「出たほうが、いいと思う」


 いつだって、こんな具合だ。あたしは自分より小さくて年下のキーラの直感に、ものごとの選択を決めてもらう。無責任かも知れないけど、そうしたほうが大抵のものごとはうまく運んだ。少なくとも、いままでのところは。


「やあ。キミはユリアかい?」

 携帯端末から呼びかけるフレンドリーな声は、どことなく聞き覚えがあった。伸びやかでリズミカルに、聴く者たちの気分を引き上げるようなこの声。

「もしかして、トミージェイなの?」

「そう、オレだよ。覚えていてくれたとは、嬉しいな。ねえ、キミはいま、バスに乗ってるだろ、キーラと一緒に。そのバスでどこへ行くつもりか知らないけど、次のパーキングエリアで降りなよ。オレが運んであげるからさ、行きも帰りも」


 あたしとキーラは、すばやく目配せを交わして相談する。キーラは指先で携帯端末を指し、小首をかしげて見せた。そうだった、トミージェイがリツコさんの携帯に架けてくるなんて、たしかにヘンだ。


「この携帯の番号、だれから聞いたの?」

「もち、エレナさんだよ。オレがキミらを追いかけるって言ったら、是非ともそうしてくれってさ。キミらの単独行動を放っておくのは、やっぱり心配になったんだな」

「リツコさんから、連絡が来たのね?」

「そういうこと。ねえ、次のパーキングエリアはもうすぐだよ、降りるだろ?」

「だってあなた、どこにいるのよ?道の駅でベーコンを売ってるんじゃなかったの?どうやってあたしたちを、運んでくれるつもり?」

「バスの後ろを、見なよ」


 あたしたち、あたしとキーラは一斉に振り返って、見た。都市間長距離バスのリアウィンドウに、大きな赤い車体のフロント部分が迫っていた。厳つくて丸っこい顔。奇妙に真逆の印象を放っているフロントだった。

 それが等間隔を保ってつかず離れず、ピタリとついて来る。そのフロントガラスの中で、長めの前髪に半分隠れた丸顔の主、トミージェイが手を振っていた。


 キーラは大きく両手を振り返し、マルをつくってトミージェイにOKの合図を送った。〈家〉から三枚のマットレスを運び出す手伝いをしてもらって以来、キーラはトミージェイにシンパシーを感じている。なかなかいいヒトだと思うけど。そう言って、トミージェイが乗っている大きな赤いクルマのフロント部分を撮影し、検索にかけた。


 携帯端末の検索エンジンは、ブルっと唸って数秒間思い悩んだ末、〈このようなクルマを知りません〉と回答した。ディスプレイの文字は心なし、無念そうに唇を噛んでいるみたいだった。



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